ひどく読みづらい文章です。ごめんなさい。


昨日本を読んでいたら、「最近のブログは個人的で下手な文章ばかりで、読むのに値するのは一つもない」という趣旨のことが書いてあって(なんの本を読んでいたか忘れた)、
「たしかにそうだ、サイコ」と納得しましたが、読むのに値する文章は本屋さんにはあるんじゃないでしょうか。聖書でも「ツァラトゥストラはかく語りき」でも、良質なものは本屋さんで手に入ります。

マーメイドの場合は違うの。判決文とか、もうちょっと考えなくちゃならない時は、考えて書けばいいでしょう。推敲しないところの文章を残しときたいの。
「勢いで書いてしまった、あとで読み返すと死んでしまいたくなるようなラブレター」を目指してます。そういうのも、魂の世界には刻印されてます、ちゃんと。

で、講座の内容、今月中に内出さんに送らねば、よ。ということで考えてます。

良いタイトルが降ってこない。やりたいのは「人魚のなりかた」(人魚は通過点。最終的にはウオになる。ウオのなりかた。で、知っててならなくても良い。知らないでなれないのと、知っててならないとのは全く違う。ウオのなりかたは基礎教養にしたい)

個人と世界と出生図。

をどう描写したら良いだろうか。

今日は今日のコトバとして話すと、
ある魂が地上に生まれると、、、
別の言い方をすると、物質と霊をつなぐひとつの運命がカラダを捉えると、
一本の地軸のような力が、世界の回転と傾きに影響を与え始める。

見渡すと、たしかに私の周りには無数の他者がいる。

私の実感するところによると、私も他者も、無数の階層違いの空間を共有していて、どこを自分のカラダに持つかは、訓練次第で変えていけるようになる。はず。

で、その中で、個人にとってかなり強力な引力圏がいくつかあって、■個人が地上に肉体を持った瞬間(受胎ではなく最初に呼吸した瞬間)の天体の配置■血縁(や名前)■民族■時代etc、これらが個人の自我を奪い合ってて、個人が受動的である限りは選択の余地がない。選択の余地がないというのは、本当に個人として生きるってことができないということ。

難しいのは、積極的に、ある引力圏に対して受動的である生き方もあって、私なんかは今のところ、思い込みと疑い、疎外と信頼の間を行ったり来たりしてて、受動的なんだか能動的なんだかわけがわかんない。

話逸れますが、この行ったり来たりが、私にとっては生きるってことなんでしょうね、自転車乗るみたいなもので、ペダルをこぎ続けないと倒れてしまうんだなってことにようやく気付いた。小さいころは、お釈迦様やイエス様の本を読んで、「悟り」って状態は、もう自転車に乗らなくて大丈夫になるというか、動力が必要なくなる、みたいなイメージがあって、いつか自分もそうなりたいと思っていたけど、自分のことを過信してた上に、なんにもわかってなかった。今は小さいころより質が悪くなってて、わかっていない上に、詭弁とインチキが身に付いてしまって、純粋さの欠片もない。たぶん、眠ってイビキかいてる時くらい、清純な顔してるのって(見えないのでなんとでも言える。こういうインチキ。)。で、ただ、自転車はペダル踏まないと倒れるということだけはわかった。ように思う。(わかった、という言葉が最近は身にしみて恐ろしい)

で、■出生図を考えてみると、「ひとつの世界」を想定した時に、無数の個人は、それぞれその生まれた瞬間に打ち抜かれた「出生図」のカタチをした穴から手を伸ばして、その「ひとつの世界」に触れているわけね。この穴のカタチがそのまま手の動きを制限してる。見るということに置き換えれば、世界の見え方が出生時に打ち抜かれた星の配置のカタチで最初から決まってる。視界や色合いに制限がある。それで、それに対応するカラダができている。「出生図」というのは、天体の動きを切り取ったもので、どういう切り取り方をするかというと、「人間の動きを写真に撮る」という感じが一番近いです。
空を数時間眺めてると、太陽や月の位置が変化するのがわかります。それにともなって、世界全体のたたずまいも変わる。この変化は、意識を集中しないで感覚や感情を持続させて眺めていると、過去と未来両方から流れてくる力を無分別に自分を結びつけてしまうので、ほとんど天体のカタチを認識することができない。

たぶん、古代はそうでなかったんだと思います。私たちは天体を認識する上での、一番重要な感覚器官を失ってしまってて、それは、おそらく「天球の音楽」と呼ばれるような、天体同士の自転周期や公転周期の比率(月蝕や日蝕、ヴィーナストランジットを調整してる意志のようなもの)の響きを音楽として受け取る力、というのかな、そういうのを失ってるがために、数もカタチもわからなくなってる。(だけど、この何かはカラダに保存されている)

それで、この天体を一人の人間だとすると、人間の動きの連続写真をカメラにおさめたとして、その一枚一枚が個人個人が持ってる出生図というイメージ。人の動きの連続写真は、いくらシャッターを切る時間を短くして、たくさん集めても人そのものにはならない、という意味においては、出生図は、惑星や星座の本性の死んだ側面でしかない。だけど、「ある瞬間の天体の配置」は死んでいても、「ある瞬間の天体の配置が刻印された空間を生きる生命」、つまり人間や社会はひとつの本性であって、その個人が触れたことによって変化してしまった「ひとつの世界」は、(今、70億の手で触れられているこの世界は)、今においてはたしかに今の「ひとつ」の世界として、生き物として動いている。みんなで一つの粘土をこねて、塑像を作ってる感じよね。

ああ、まずいな、読みづらいだけではない、

書いてて、どうも変な話になってきた。

出生図の中には、個人と民族の関わり合いも入ってる。個人と宇宙との関わり合いも入ってる。だから、個人が無数の空間を共有してるってこと、その空間のひとつとして、出生図という制限が魂にある、という話はカテゴリーエラーだな。

今日はやめ、この話。

そもそも、なんでこのこと考えてるかというと。

「自由」ですよ、自由。

私は自由を知らない。なのに、自由でありたいと願ってる。違うな、自由は知ってる。時々、自由でいる時がたしかにある。たぶん、これが自由だろう、という瞬間がある。だけど、自由の持続は知らない。自由が持続するものかどうかはっきりしない。自由はつかまえたとたんに消えてしまう。それは私だけなんだろうか。正気で冷静に自由でいたことがない。自分が自由でないために容易に他人を拘束する。束縛する。支配する。これが嫌だ。嫌だと自分で思えたらまだましで、ほとんど無自覚であるわけだからどうしようもない。

ということが常にあって、「占星術」と「自由」についていつも考えてる。
占星術やると、どうしても、「運命」と「自由な意志」についてあいまいではいられなくなる。逆だ。運命と自由についての手がかりを求めて、占星術をしてるんだな。別に占星術じゃなくても良い。良い?のかも。

・・・

自分の日記でもメモでも、自分の文章がまとまらない時にいつもするんですが、「好きな人の言葉で終わる」ということをする。そうすると、なんか安心する。方向が定まる。フラフラしたまま寝ないで済む。

今晩はどこで折り合いをつけるか。

今、読んでる大杉栄。で。

『運動には方向はある。しかし、いわゆる最後の目的はない。一運動の理想は、そのいわゆる最後の目的の中に自らを見出すものではない。理想は常にその運動とともない、その運動とともに進んで行く。理想が運動の前方にあるのではない。運動そのものの中にあるのだ。運動そのものの中にその型を刻んで行くのだ。』

『自由と創造とを吾々自身の中に獲るとは、すなわち自己の自己であることを知り、かつこの自己の中に、自己によって生きて行くことを知ることである。』