わたしは○○である。
この〇〇に何と入れるだろうか?
そんなことを考えていた。
おそらく数ヶ月前、
夏頃のわたしは
「わたしはアーティストである」
と言っていただろうし、
もっと大きく捉えれば
「わたしはあそんでいきる人」
とでも言っていたかもしれない。
その後ろには
「既存の枠にははまらない、特別な人間」という
優越感のようなものも抱いていたと思う。
6、7年前の子育てストレスマックスのわたしは
「わたしは周りのひとみたいに育児を楽しめない。
わたしは気が短い」
と言っていただろう。
もっともっと遡り、
大学生や高校生のわたしは
「わたしはおかしな人間」と言っていただろう。
中学生の頃なら
「わたしは努力しないと何もできない。
努力すればそれなりにできるようになる」
と言っていたと思う。
小学生の頃は・・・
「わたしはがんばりや」とでも言っていただろうか。
がんばりや
⇩
努力の人
⇩
おかしなひと
⇩
落第者
⇩
遊び人(特別)
⇩
〇〇
そして今ー
「わたしはただの人」と思った。
がんばりや
⇩
努力の人
⇩
おかしなひと
⇩
落第者
⇩
遊び人(特別)
⇩
ただの人
この変遷に
「ここまできたんだな」
と感慨深いものがある。
頑張り屋とか努力の人っていうのは
言い方を変えれば
「がんばらないとダメ」であり、
そのままでは
何も価値がないという思い、
今のままではいけない・・・
そういう気持ちが後ろにある。
自分は足りないという気持ちがある。
そして、
「おかしな人」
これは・・・
自己卑下する気持ちが後ろにある。
まわりに合わせられない自分をつくづく感じる。
みんなみたいにしたいのに
できない・・・。
でも目立ちたいきもちもある・・・。
そんな葛藤をいつも抱いていた。
そして
母となったわたしは
「がんばってもがんばっても
報われない」
ということを経験した。
がんばればがんばるほどイライラするし、
うまくいかない。
がんばればがんばるほど
子供も自分も縛ってしまう。
イライラする自分、子供をコントロールする自分を責めた。
自分が本当に嫌いでしかたなかった。
そんなときに
筆文字となまえポエムに出会い、
「自分の才能」に
自分が惚れるようになった。
「才能」に惚れているのであって、
決して
自分そのものをOKとしたわけではなかった。
で、アルバイトをやめることになり、
「普通」に歩むと思っていたルートから外れた。
これでよかった・・・
と思いたくて、
結果を出したかった。
「わたしは特別な才能をもっている」と思うことで
自分を肯定していくようになった。
自己否定からは少し抜け出し、
心はある程度楽になったものの
なんだか
すっきりとは
楽しめないような感覚と違和感があった。
「もっと突き抜けないと!」
そんなふうに思った。
つまり、
「今のままではダメだ」といつも
思い、
何かに向かおうとしていたんだと思う。
それがついこの前までの心境。
そして・・・
2ヶ月の自分をみつめる時間、
「何者でもない自分を受け入れよう。」
職業も肩書きも実績も・・・
何もない
裸のままの自分、
何をしていてもしていなくても
役に立っても立たなくても
何もたさなくても、
何をひかなくてもOKだと
思うような自分を目指してすごしてきた。
すると2週間ほど前に
縛られていたひとつのものから
解き放たれた。
こだわる必要なんてぜーんぜんなかった。
その感覚を覚えた時から
入っていた力が抜けた。
どこでなにをしていても
あなたはあなた。
それがすてきな事実だよ。
いつか描いたポエムの
ワンフレーズが蘇ってきた。
(何神さま暦2019だったかな。。。)
何者にもならなくていい。
自分を歓ばせ
楽しませることー
それが一番の望みであり
生きる喜びだと今は思う。
だから
「わたしは一人のひと。」
「わたしはわたし」でしかない。
今はそう思う。
また時が経ち、
もっとパワーがみなぎった時、
べつのことを思うかもしれない。
でも
今は
「わたしはわたし」という言葉が
しっくりくるし、
入った力を緩めてくれることば。
何か成果を出しても
出さなくても
わたしはわたしであることには
変わらないのだからー
挑戦してみてもいいし、
やめてもいいし。
そう思うと
すごく楽になる。
「ことば」のうしろには
思いが隠れているんだなと
改めて思う。