昨日はご当地シリーズで、私が育った所(その1)として埼玉県川口市にかつて実在した本町商店街の話から、そこで出会った老人が、工藤 俊作 氏であることをご紹介した。

日中、結果的に本町商店街の話になったが、十代の若者にも話をしたところ、しんじらんなーい、うっそー、まじそれな、ヘンターイ、マジキモ とか、様々だった。

そりゃ今の現実を見ればそうなのだろう。

自分だって信じられない。
賑やかだった商店街が、僅かの間に丸々消滅したのだから。

兎に角。
当の地元住民も信じられない様子。

そんなに昔の事ではないのに。
たった40年前のことなのに。

商店街の消滅は反響が大きく、記憶から五感表現を追加して欲しい、という何とも記憶試験のようなご要望もいただいた。



そして。
徐々に思い出す当時の記憶。

近所の古い家にある納屋には、必ずと言って良いほど船(なかには逆さまにされていたものや、船自体複数重ねられていたものもあった)が天井付近の高い所に置かれていた。

何故陸地に船があるんだ?
幼い心に芽生えた疑問。

脳裏に残る視覚としての記憶。

古い家の多くの納屋には、ほぼ存在していた船。

あれは今にして思えば、日本三大暴れ川に数えられた荒川の氾濫によって、高台の板橋や赤羽は水没しなかったが、川口や戸田は水没する地域であったことから、民家に水害の備えがあったのは当然の事だったのだろう。

(※他の暴れ川はどこ?坂東太郎(利根川・荒川)、筑後次郎(筑後川)、四国三郎(吉野川)なのだそうだ。個人的には木曾三川、酒匂川とか那珂川が最強だと思っていたが、この利根川や荒川の氾濫は、半端ないらしい。機会あれば洪水史とか調べたいね)


そして。

小さなときに、真っ暗な納屋(土蔵ではない)の中で、探検ごっこをする時の記憶。

納屋に放置されて久しい色々な大工道具や、藁の茣蓙みたいなもの、袋、などなど色々なものが、埃まみれだった。

船も使われずに久しく放置され、長い間日の目を見る事もなかったのであろう。指でなぞった子どもたちによるイタズラ書き(バカとか他愛もないもの)もあった。

それが何とも言えない埃臭さに交じって僅かながらカビ臭さを醸していた臭いの記憶。

上手そうな中華料理屋の臭いと、お風呂屋の煙突から出る煙の臭い。そして、町全体を包む鋳物の金属臭だって負け
てない。

豆腐屋のブブセラの音が鳴り響き、ハチマキに分厚い前掛けをして白い長靴を履いた魚屋は売り切ることに焦りを覚えて叩き売る声を荒げ、八百屋も負けじと声を出す。

活気に満ち溢れる商店街の喧騒が耳に残る街音の記憶。

車が通る危険な商店街では、午後4時過ぎに市中に響き渡る帰宅を促すチャイムが響き渡り、呼応して商店街中の犬が遠吠えに励む。それでもゴム段を勤しみ、フワバットとフワボールを持ち歩く子どもたちの無邪気な声は溢れ、亜鉛ガソリンが整備不良のエンジンから排気される真っ黒なガスを吹かしながら「ミー」と情けないクラクションをならしてマニュアル車特有のエンジン音を出しながら通り過ぎていく。

勿論、鋳物工場も、「ブー、ダンダン、ダン」などと独特の音を周辺に轟かせていた。
今にして思えば、あれは何の音だったのだろう。


何もかもが共存して、互いに存在をアピールしていた。

じゃんけんは、「ちっけったー」と合いの掛け声で。
「そうしたらよー」を「したっけよー」と言ったり。
東十条を「しがしじゅーじょー」という年寄りが居たり。
(抜けた歯がスカスカだけだったかもしれない(笑))

あ、でも昔紙の時刻表(アナログ自動改札券だった時代)に定期券サイズの時刻表を駅でもらえたのだが、京浜東北線「東十条行き」の時刻に、「シ」のルビが符ってあった(笑)

東十条だから「ヒ」だろ、って(笑)

関係無いけど、駅の改札が自動改札になる前、ヒトが途切れるとハサミの音で複数の改札員が合わせてリズムとってたり(笑)懐かしいね。

「音」も今とは違う何かに満ち溢れていた。
 

どれもこれも本町商店街での五感の記憶なのだ。

現在、本町商店街は、ただの本町1丁目となった。


あまりにも景色が変わってしまい、自分の記憶の方が間違っているのでは、夢ではないかとさえ思えた。

そこで昼休みに古地図を開いてみた。

まず明治末期の当該場所の地図を見てみよう。
明治40年発行の地図で5km×5kmだ。その下には現代の同じ四方の地図をつけている。


色がついているが、薄水色が低地。薄緑色は少し高い所となっている。つまり、板橋や赤羽の方が土地(も値段も)としては高く、対岸の戸田、川口の方が低い土地なのだ。

これはなかなかイメージしている人は少ないだろう。

内陸側の方が土地が低い訳だから。

地元の歴史で小学校2年生くらいの時に学習したことを覚えている。

左下の青〇は一応戦国期にこの一帯を治めていた、古代氏族である物部氏系統の秩父党の一族だった国人領主の居城。名前忘れたが千葉氏だったような(⇐トリンリさん如何でしょう?)。この城からは、本町の方は当然。北側は青木、南西は荻窪の方まで見渡せたそうだ。

青い〇で囲った小さな丘全域が城であったが、もの凄く小さなお城ではあった。

その名は記憶に間違えなければ 『志村城』 だ。


そして分断された村、というのは蛇行する大河の一番ふくらみの広い所にあった。

今では北を船戸、南を浮間舟戸と呼ぶ。
事実上地球上最大の都市、メガロポリスの一角に含まれる。

志村城の北にある碁盤の目は、現代に至り高島平団地があるところ。明治末期から団地ができそうな雰囲気の道ができているのは興味深い。

いや、見ていただきたいのはそこではない。

本町商店街のことだ。

右の小さな赤い〇をみていただきたい。

この地図は縦横幅約5km四方の範囲であるが、ちょうど川を境に下半分は板橋区と北区。上側は我がスワローズの本拠地である戸田市、そして川口市である。

そんな現代では、日本で最も通勤乗車率が高い埼京線(最混雑期は乗車率300%の時代も)がこのど真ん中を貫き、この範囲だけで50万人住んでそうな部分だ。

であるにもかかわらず、明治時代最も人口が密集していたところが、明らかに

 本町商店街周辺のみ

なのだ。

日光御成街道は北へ伸び、何故か南側は岩淵から一旦板橋志村の方へ西進し、赤羽あたりからようやく南下していく。

恐らく当時の道として古代から続く海や大河を避けて高台を通す街道原則に則っているのだろう。

この本町商店街は、地図にもある通り、善光寺の門前町としても栄えたという証左を地図で示してみた。

本町商店街。

如何だったであろうか。

今では人口密集地である、川口も、赤羽も、戸田も全然人が住んでいなかった。

古地図から紐解いた消えた本町商店街のご紹介。

それにしても自分でも信じられないくらい、この由緒ある商店街が、将軍が、大名が本陣を構えた川口宿が、ただの宅地になってしまったことに衝撃を覚える。

そうか。

いつだったか時期は明確ではない。

車で5分の対岸の赤羽スズラン通りに、大型スーパーであるダイエーが出来た。

昭和53年くらいだっただろうか。

 

服や、家具、スポーツ用品までさらにありとあらゆるものが揃う夢のスーパーマーケット。

両親が便利なお店が出来たと喜んでいたことを思いだした。

なるほど。

川口駅東口には百貨店丸井も開店した。
目覚まし時計とエルトン・ジョンだったかジェネシスのレコードを買ってもらった記憶がある。

埼京線も開通した。

大型ショッピングモールも開店し、あれほど便利だった赤羽のスーパーダイエーも負けて閉店した。

ちょっと足を延ばせば世界最大級のショッピングモール、レイクタウン(1フロア1周2.5km)もある。

善光寺は繰り返される荒川の氾濫を防ぐために設置された土手により、街と分断されて河川敷に取り残された。

火事か何かで善光寺は全焼した。

そして、寺とは思えないビルのような鉄筋コンクリート造りに変わったが私が物心ついた時にはすでにこの姿。

それでも溢れる荒川は堤防により洪水を何度か防いでいたが、善光寺や船戸小学校は何度も水没した。

 

 

本町商店街の消滅は必然だったのかも知れない。

歴史は紡いでいく。