零戦祭りは、プロモデラーの大ちゃんさん企画によりお送りして参りました。

本日は締切日として設定された8/15ですから完成を報告させていただきます。

我が国では、この日を「終戦記念日」と呼びますが、正確には8/15に発令されているのは連合国に対する停戦を日本が宣言した日となりますので、その後も組織的な戦闘は各地で継続されていますので、終戦に至ってはいません。

従って、大変申し上げにくい所もありますが、終戦記念日ではありません。

その話はまた別途。


さて、零戦祭りで私が製作したのは、

1941年12月8日布哇作戦時

第1航空戦隊
第1番艦 航空母艦『赤城』艦載
第1次攻撃隊
制空隊 第2中隊 第1小隊 1番機

板野 茂 少佐 機

となります。

12/8当日の引き込み脚の総重量目安マークなのですが 問題無く青なのか、増槽に満タン入っていれば黄色から赤くらいにサスペンションは沈み込んでいたのかが判りません。一応、青が見える範囲で貼付いたしました。



増槽無しの状態で画像では3色確認できるので、青は確実なのですが・・・(画像は本物の板谷機)


零式艦上戦闘機の製作としては、初となりますが、ようやく完成しました。
あまり時間はかからなかったというのが正直な感想ですが、あーすればよかった、こーすればよかった、と振り返りでの反省も多いです。

では早速ですが、御披露目となります。
ただの素組になりましたが、マスキングで塗料が持って行かれるし、金属粉の入った塗料はリアリティはあるのですが、エアブラシが詰まるし、苦戦の連続でした。

日本軍機では、95式陸上攻撃機、97式軽爆撃機、艦上攻撃機流星、艦上攻撃機天山、艦上爆撃機彗星、4式戦闘機疾風、局地戦闘機雷電、水上偵察機強風、F-15Jに続いての完成となり、10機目の記念製作にもなりました。

 

 

 

 

 

台は、チェコのエデュアルド製1/72 空母赤城の戦闘機待機場所甲板のフォトエッチングをカラーコピーしたものです。

 

この他に4機仕様のファインモールド製の1/72赤城甲板もあるのですが、巨大な為、後日登場することもあるでしょう。

【製作後記】
基本塗装として、機体色は灰緑色を使いました。
三菱製であることが判っているからです。

また、機体内側については、実機と同様に、プライマー塗装の上に、クリアブルーを塗布しました。
近似色として利用される青竹色ですが、こちらを使用した方が良い理由が理解できました。
塗装の成果は青竹色でも遜色なく全く同じと言えます。
であれば手間はかからない方が良かったです。

最後にスミ入れです。
エナメル溶剤に浸食されて尾翼が取れました。
いつも加減が判りません。

灰緑色に黒を混ぜて煩くない程度に全体に施しています。
当時は磨かれてピカピカだったと推定されることがその理由です。

ボロボロな日の丸は、エナメル同系色にてリタッチしましたが、何と!モールドに赤が染みこみ、大変なことになりました。焦って乾かない内に灰緑色を重ねてしまったことで悪化したり。

 

航空灯を塗布した時もエナメルを使ったので、周囲に滲み込む始末。


初めてとは言え、なかなか手ごわいものでした。
大変良い経験をさせていただきました。

停戦ということですから、引き続きよろしくお願いいたします。

主催の大ちゃんさん、そして、励みになりましたMr.Gさん、ご参加の皆様、厚く御礼申し上げます。

 

ありがとうございました。




以降リサーチサマリ:

板谷 茂 氏について。
板谷氏は1909年7月10日、佐賀県三養基郡中原村で農家の長男として出生。
1929年3月27日海軍兵学校57期を主席で卒業。
少尉候補生として、1930年12月に少尉任官となりました。

空母「龍驤」の分隊長、次に空母「飛龍」の分隊長を務め、1941年4月に空母「赤城」飛行隊長に着任します。
 

真珠湾、ミッドウェーと生き残り、1942年10月第23航空戦隊航空参謀、1944年7月第51航空戦隊航空参謀歴任。

1944年7月24日、96式陸上攻撃機によって北千島幌筵に移動中、敵機誤認の帝國陸軍機一式戦闘機「隼」に撃墜されるという不運な最後を遂げました。35歳の若さでした。最終階級は中佐でした。


次に実機として12/8板谷機がどのような状況であったのかについての調査結果です。

一部アメリカ公文書からも引用しておりますので、恐らくは史料価値もあろう記録になると思います。


第1次攻撃隊の際、板谷少佐は小隊3機で僚機と共に出撃し、制空大隊の総指揮を行いつつ自身も戦闘を行いました。

制空大隊 第1中隊 第1小隊
1号機 零式艦上戦闘機(AI-155)
 板谷  茂 少佐
2号機 零式艦上戦闘機(AI-154)
 平野  崟 一飛曹
3号機 零式艦上戦闘機(AI-153)
 岩間 品次 一飛曹

12月8日の戦闘経緯
午前1時30分 航空母艦「赤城」を発艦 板谷機はファーストテイクオフ。
午前3時20分 オアフ島真珠湾上空に至り突撃体制
午前3時30分 ヒッカム飛行場を銃撃
午前3時40分 バーバースポイント飛行場を銃撃
午前5時45分 航空母艦赤城に帰還着艦

搭載機銃弾を1,100発消費(制空隊で2番目に多い消耗)し、輸送機(形式不明)を1機上空で撃墜。
被弾は無く無傷での帰還でした。

しかし、ヒッカム飛行場に対する機銃掃射を続けるために、小隊が港の船舶航路(運河)を横切り、航路入口の東側にあるカメハメハ要塞(要塞は直訳だが実際は陣地というものに近い)上空に差し掛かった時でした。

現地時間8時10分、駆逐艦『ヘルム』が、運河入口から停泊していた掃海艦『ボボリンク』を通り越して沖へ出ようとしていました。

その際、『ヘルム』『ボボリンク』『カメハメハ陣地』からの熾烈な対空砲火を浴び、僚機平野機(AI-154)が被弾。

帰還が困難だと認識した平野一飛曹は、カメハメハ陣地の機械庫に突っ込もうとしてその手前の路上に墜落しました。日本側記録の格納庫へ突入して自爆は誤認です。自爆はしていません。

墜落の詳細は、低空で椰子の木に左主翼を接触させて本体から捥ぎ取られ、回転しながら機械庫入り口に激突したとのことで、機体は大きく右にくの字に曲がりました。何となく原型を留め、爆発することはありませんでした。機内で平野一飛曹の死亡が確認されました。

 

次の写真は、墜落直後の写真で、未だ平野一飛曹のご遺体が機内にある段階で撮影されています。コクピットは比較的原型をとどめているのが判ります。

この平野機が、第1次攻撃隊制空隊で唯一の損失機体となります。

これだけ原型をとどめていれば当然調査されます。
 

帝國海軍戦闘詳報と、アメリカ軍戦闘詳報公文書記録として残るカメハメハ陣地第55沿岸砲兵隊カスミール・ヤンカウスカス軍曹とチャールズ・D・キース伍長の証言は、墜落と自爆の差異を除き、完全に一致します。

 

 

赤城、加賀の第1航戦、及び帝國海軍全体の犠牲者、また、ハワイオアフ島の各地で戦没したアメリカ人英霊に哀悼の意を表します。

合掌




参考付記:
赤城搭載機とそのパイロットについては次の通りとなります。
賭け値無く世界最高峰の練度を誇った第1航戦赤城艦載機とその搭乗員一覧です。

AI-101 木村 惟雄 一飛曹
AI-102 新藤 三郎 大尉
AI-103 指宿 正信 大尉
AI-104 井口 清次 三飛曹
AI-105 乙訓 菊江 一飛曹
AI-106 高原 重信 二飛曹
AI-107 小山内末吉 曹長
AI-108 森  栄  一飛兵
AI-109 丸田 富吉 二飛曹
AI-110 田中 克視 一飛曹
AI-111 佐野 信平 一飛兵
AI-112 大原 広司 二飛曹
AI-151 岩城 芳雄 一飛曹
AI-152 羽生十一郎 一飛兵
AI-153 岩間 品次 一飛曹
AI-154 平野  崟 一飛曹
AI-155 板谷  茂 少佐
AI-156 高須賀満美 二飛曹
AI-157 山本 重久 中尉
AI-158 谷口 正夫 二飛曹
AI-159 菊池 哲生 一飛曹
AI-160 石田 正志 一飛曹
AI-161 川田 要三 二飛曹
AI-162 宮部 久蔵 一飛曹(架空人物)

みな様が再現される機体として、101木村機、102新藤機、155板谷機は理解できますが、107小山内機を再現される方も多いので、きっと小山内曹長は何らかのご活躍をされたのだと推測します。永遠の0の影響か、162宮部機の再現も多い様です。

資料写真:

板谷 茂 少佐(享年35)

 

赤城を発艦する 森 栄 一飛兵 のAI-108

 

AI-107搭乗員の 小山内 末吉 曹長

 

赤城甲板上における暁のAI-162 宮部機

 

 

 

#1航戦

#第1航空戦隊

#航空母艦赤城

#赤城艦載機

#赤城パイロット

#零式艦上戦闘機21型

#零戦

#ゼロ戦

#板谷茂少佐

#A6M2b