【2019年8月6日以降、毎年この記事をリブログしてきましたが、少しリニューアルして後世へ伝えていこうと思います】

 

 

本日で広島の原爆投下から77年が経過した。

平和祈念式典での広島県知事「湯崎 英彦」氏の演説には心を打たれた。

 

ならず者国家(この場合ロシアと中国)が、自身の野望達成を目的にした他国を威嚇する行為を批判し、核兵器が脅しではなく実際に使われるだろうという恐怖を我々は感じた、と。

 

核を抑止力として必要性を唱える方々は、制御が効かない指導者が出てしまった時に使われる可能性が出る、ということ。それを考えよ、と主張された。

 

はっ、とした。

抑止力としては持つのもやむを得ないかも知れないと思考の舵を切った矢先の事。

 

皆さまも是非、本日の県知事の演説を聞いていただきたい。

 

逆に岸田総理の演説には、何とかしたい、という意思は感じられたが、総理大臣としてはあそこまでが限界だろう。総理大臣となるとその双肩に国民の命を預かることになる。その立場は県知事のような発言で冒険はできない。それも大変よく解る。

 

 

 

 

まずは被爆三世としての義務の記事から。

2019年、74年目の原爆の日を迎えた広島をテーマに被爆遺跡をいくつかご紹介した記事のコピー。被爆遺跡の象徴は原爆ドームだが、それ以外にも数多くのものが残る。しかし最近では取り壊されるものも多く、予算不足との闘いが続く。

 

【旧陸軍被服支廠】 爆心地からの距離約2.7km

 

 (2017年8月撮影)

 本廠は、東京都北区にあって、支廠は大阪や広島にあった。

 壁の厚さは60cmで、鉄の扉も約6cm。これが原爆の爆風で大きくひしゃげた状態で今もそのままの場所に残る。一部は取り外されて平和資料館に於いて展示されている。

 原爆の爆風に耐え、大変多くの負傷者が運び込まれ、この建物の中で亡くなった。

 建築手法としても大変貴重な建物で、被爆していなくとも文化財としての価値も高い。しかし1997年以降、この地にて事実上の放置。予算不足。一部解体予定。

  

 2017年8月時点(私が撮影)の写真と被爆後1945年11月頃の同じ場所。持ちあがった壁の屋根石は、平和資料館にて切り取り展示されている。切り取られた部分は現在ブロック塀に替えられている。

 

【旧広島文理科大学本館】 爆心地からの距離約1.4km

 爆心地から2km圏内にあった当該建物は、激しく爆風と熱線に曝されたが、1階の3室はほぼ無傷で残ったものの、他の部屋は全て激しく焼かれた。建物の外角は残った為、1991年まで広島大学理学部1号館として使われていた。現在取り壊し危機筆頭の建物。

 

 この建物の正面入り口の2階部分が当時の学長室。1945年8月6日未明には、この場所に長田新が執務していた。長男五郎氏と最初の空襲警報が解かれた後、平野町の別宅(爆心地から1.6km:長田新の本宅は神奈川県横須賀市)に帰り、縁側で休んでいた所被爆。現在で言うトリアージで黒判定をされるも、五郎氏の献身の努力で陸軍被服支廠にたどり着き、そこから奇跡の生還を果たす。新生広島大学初代学長に就任後、『原爆の子』を執筆。

  

 (2017年8月私が撮影)

 建物内部は激しく燃え、重傷者達が暗闇の中血だらけの手で壁を伝って外に脱出した際に付着した多くの血痕が壁に残っていた。

校舎内の図書室の棚は爆風で吹き飛び、熱戦により発火。建物は残ったが内部は大火災に見舞われることになった。

 

 

【大正屋呉服店改め燃料会館】 爆心地から170m(←爆心最もに近い遺跡)

 原爆ドームの爆心地からの距離200mに比べ、更に30m爆心地側で、唯一生き残った建物。

 

 (2017年8月私が撮影)

 現在は平和公園のレストハウスとして、多くの観光客の案内所となっている。爆心地側に窓が無かったのて、それが幸いして崩壊を免れた。この建物の地下は、原爆が落ちた当時のまま保存されている。原子爆弾の爆心170mの地(この建物の地下室)で被爆した野村英三氏によって爆心地から避難していく際に目撃した光景をまとめられた資料を頂ける。これは是非見てもらいたい。

 

 (2017年8月私が撮影:モールス電信台かな。床は滅茶苦茶に破壊されている)

 旧燃料会館地下室は被爆当時のまま保存されており、とある方法で見学が出来る。

 

【その他】

 本当はもっといっぱいあるので紹介したいけど、記事が冗長化しても仕方ないので写真を列挙(いずれも私の撮影)。

 

 広電千田変電所(爆心地から1.92km)

 今でも広電千田車庫の敷地内に有り、変電施設は撤去されているが事務所として現役で使用される建物。

 

 

 旧日本銀行広島支店(爆心地から380m)

 こんな至近距離でも窓の開いていた2階の一部を除き内部はほぼ無傷。特に地下の金庫室内の放射線量の低さは、後日の核シェルターの有効性を証明している。至近距離でほぼ原爆の直撃を受けながら、何と3日後の8月9日には業務再開。

 

 戦後、アメリカ軍は驚愕の事実を確認する。

 地下金庫。分厚い扉の中には有価証券などを始めとした動産が山の様に保管されていたのだが、無傷だっただけでなく、その内部は放射線量がほぼゼロを示していた。

 

 所謂核シェルターが有効であることを、この事実を直視することで証明された。

 この厚みは1mほどだろうか。当時は写真撮影ができたが、今現在は写真撮影厳禁となっているので、気を付けていただきたい。脚は当時のうちの子の脚。

 

 

 

 広島市立袋町小学校旧校舎(爆心地から460m)

 ほぼ爆心地だった為、臨時の病院となり、多くの重傷者が運び込まれてここで亡くなった。 ここの壁に、捜索願いの伝言が多く残されている。見るに堪えない。私の父がこの小学校へ入学したのは昭和24年。

 

 

 

 旧三井銀行広島支店(爆心地から360m)

 グランドゼロから生き残った建物として現存する建物の中では3番目に爆心地に近い。

 2年間以上リニューアルに時間をかけ、現在も広島アンデルセンとして使用される。

 

 

 福屋百貨店(爆心地から710m)

 被爆後は大火災に見舞われた。今では多くの買い物客で賑わっている。でもれっきとした被爆遺跡なのに今も当時と同じ福屋百貨店として現役。ここも爆心地に近かった為、多くの重傷者が運び込まれた臨時の病院になった。少なくとも800名ほどの方が、この建物の中で亡くなられている。4カ月後の1946年1月1日には一部営業再開。

 

 

 広島赤十字病院:通称原爆病院(爆心地から約1.6km)

 当時の建物の外壁の角一部が保存されている。当時の窓枠はひしゃげてそのまま内側に新しい窓が取り付けられている不思議な形となっている。1993年まで現役の病院として活躍した。

 

やはり生の建物を見たり、経験談を聴き、自分でイマジネーションしなければ核兵器の本当の恐ろしさは理解できない。これは人類が開けてしまったまさにパンドラの箱。

 

原爆で亡くなられた多くの方々のご冥福をお祈りいたします。

(合掌)

 

 

おまけ:

長田新の長子である五郎氏とは何かと昵懇にさせてもらっている。

2010年に長田五郎氏と会食@成城した際に私が撮影した五郎氏本人。

ご本人には掲載許諾済み。それどころか寧ろ拡散してほしいとのこと。

久しぶりに話したご本人、元気元気。

 

2021年で95歳。ご自宅の階段から落ちた怪我が元となり、2021年8月6日に平和記念公園の被爆者名簿に五郎氏の名前が刻まれた。

 

本当は恐ろしさを伝えるために、建物視点ではなく、人視点でご紹介したいところだが、未だ気持ち的にできない。

 

この辺でご勘弁いただきたい。

 

合掌

 

㈱コクヨ:おりづるタワーオフィスの会議室から見た原爆ドーム。