昨年の同記事の再編である。どうしても取り上げざるを得ない話を1つ。

 

76年前の4月7日。

 

太平洋戦争中、日本が誇った史上最大、最強の戦艦『大和』が、アメリカ海軍第58任務部隊攻撃隊約400機弱に攻撃され、坊ノ岬沖で海底に没した。

【1945年4月7日13時30分前の大和】

 

ところで、大和の撃沈について通説では、被弾5発、被雷10本(左舷を集中的に狙われた)と何ともあっけなく撃沈されたような感じだ。

 

大和の沈む10分前に轟沈した基準排水量では約1/10の軽巡洋艦「矢矧」が被弾10~12発、被雷6~7本からすると、あまりにも紙な最期と言わざるを得ない。(尤もこれでもアメリカ海軍の大型艦に比べれば比較にならないほど頑丈ではあるが)

 

実は知られているのは旧帝国海軍戦闘詳報による通説であり、一介の学生士官だった吉田満が「沖縄特攻は片道燃料(史実と異なります)」を告白して以来、日本人特有の自虐史観によって誤った認識がされ続けてきた実態がある。

但し、『戦艦大和の最期』はGHQの検閲によりかなり書き換えられているので仕方ないところもあるが。

 

では実際、どのように最期を迎えたのであろうか。

この日のアメリカ海軍戦闘詳報から紐解いてみよう。

 

被雷箇所比
  左舷:右舷=5:9

  >右舷の方が満遍なく被雷している。

被雷数比
  左舷:右舷=25:14
  >確かに左舷の方が被雷数は多い。

   しかし通説通り左舷だけを狙ったと言うのは間違え。

そして
 命中爆弾=3+1+1+1+1+4+1+1+2+1+1+1=18発
 命中魚雷=4+7+2+9+2+1+1+1+1+1+4+1+1+4=39本
と続く。被弾数については、38発を主張する記録も米軍に存在する。

いずれにしても恐ろしいほど爆弾も魚雷も喰らっている。

 

やはりあまりに紙な大和は忍びないという気持ちはあるが、日本とアメリカの戦闘詳報について、いったいどちらが事実なのか、その議論の結果を待って歴史と向き合う必要が日本人にはあるのではないだろうか。

 

先の大戦で亡くなられた全ての英霊に対し合掌。

 

大和の主砲弾(本物)

江田島術科学校にて撮影(後方は甲標的)

いつか江田島術科学校や知覧シリーズもここで紹介します・・・。