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No.310 糸島市雷山 オレ オレ センニョジ ②

 
宮原誠一の神社見聞牒(310)
令和8年(2026年)04月01日
 


糸島市雷山の雷神社(いかづち)に行く途中に千如寺(せんにょじ)があります。千如寺は曽増岐神社の神宮寺であり、天竺(インド)から渡来された霊鷲山の僧・清賀(せいが)上人の開創と伝えられています。
雷山は曽増岐山(そそぎやま)といわれ、曽増岐神社は三社から構成され、雷山七合目付近に曽増岐神社の上宮があり、中宮の雷神社、下宮の笠折神社(かさおり)から構成されます。下宮の笠折神社は、今の千如寺にありましたが、明治の神仏分離令により、中宮の雷神社に合祀されました。

雷山千如寺大悲王院

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千如寺 第一駐車場
許黄玉(天照女神)の石塔(灯籠)があります

 

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千如寺大悲王院 福岡県糸島市雷山626

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仁王門

 

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山門(通用入口)

 

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本堂横の楓(樹齢約400年)

 

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本 堂


雷山千如寺大悲王院 ご案内
当山は成務天皇の48年(178年)、雷山の地主神である雷大権現の招きで渡来した天竺霊鷲山の僧 清賀上人の開創と伝えられており、一丈六尺の本尊十一面千手千眼観世音菩薩は同上人が白椿の一木を一刀三礼して謹刻したものです。
その後、聖武天皇によって勅願道場となり、国司によって七堂伽藍が建立されました。以来歴代天皇より綸旨を賜り、天下の武将豪族などが競って尊崇し鎌倉幕府を始め足利、豊臣、大友、大内、黒田などの諸公が祈願文を捧げ、斉田を寄進して一山三百坊に及びました。特に宝暦2年(1752年)には福岡藩主の黒田継高公が現在の寺である大悲王院を建立しました。
幽遠の歴史を秘めた雷山千如寺の法灯は、いまは大悲王院によって伝えられています。当山は「安産」「子育て」「開運厄除」等の祈願所として、また身代りの御守り(サムハラ)のお授け所として大衆の信仰を集めています。なお当山には福岡県指定の古文書も約五百点残されています。 千如寺リーフレットから

※十一面千手観音は天照女神の本地です

 

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玄関での淡島大明神

 

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 足跡に双魚の文様があります


※淡島神
和歌山県和歌山市加太の淡嶋神社を総本社とする祭神で、本地仏は虚空蔵菩薩。
祭神 少彦名命・大己貴命
配祀 息長足姫(神功皇后)

ここ千如寺の淡島神(少彦名命)は鏡と稲穂(粟穂)を持った女神です。
大己彦と少彦名は共に男神として扱われますが、女神であれば天照女神となります。

 

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聖天堂

 

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聖天堂の鳳凰の彫刻

 

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聖天堂脇障子の鷹の彫刻

 

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聖天堂の前を通って十一面千手千眼観音堂へ

 

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十一面千手千眼観世音菩薩の観音堂
堂内は撮影禁止ですので、リーフレットから代用しました。
一丈六尺(463.6cm 鎌倉時代)の本尊十一面千手千眼観世音菩薩は、清賀上人が白椿の一木を一刀三礼して謹刻したもの、という。木彫りの463cm立像は圧巻です。
観音菩薩は雷神社の樹齢約千年の巨大杉「観音杉」の傍の講堂に安置されていました。明治の神仏分離令により、現在の観音堂に遷されました。
※十一面千手観音は天照女神の本地です。

 

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千如寺リーフレットから



開山堂
国東半島の国宝富貴寺大堂の様式を参考に平成2年に再建(杉造)
正面に清賀上人座像を奉安し、四天柱には四天王、壁画には八大菩薩、十二天、十六羅漢、八祖大師が描かれています。また天井には四季の絵が描かれています。

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千如寺リーフレットから

 

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開山堂入口

 

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木造清賀上人座像 (像高69.7cm、鎌倉時代)
千如寺をはじめ旧恰土郡の七力寺を建立されました。左手に経巻、右手に念珠をもち、仏像のような大きな耳、口を開いて歯と舌を覗かせ経典を唱える個性的な面貌などが見事に彫出されています。 千如寺リーフレットから
※柱の根本に天照女神の花菱紋があります。




雷山の風穴
伝説によれば、この風穴は志摩の芥屋大門に続き、清賀上人が風の神を封じた跡と言われている。 糸島市観光協会

 

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写真は、櫻庵幸縁のブログ「ミステリー「809」糸島・千如寺・追加記事」から
https://hama-sush-jp.pro/333saienn333/entry-12960052994.html



曽増岐神社(層々岐神社)は、上宮の曽増岐神社、中宮の雷神社、下宮の笠折神社から成り、下宮の笠折神社は今の千如寺にありましたが、明治の神仏分離令により、中宮の雷神社に合祀されました。ここが笠折神社跡です。
その笠折神社の祭神が級戸辺命・住吉大神・志賀大神です。

 ※風の神
 級長津彦神(しなつひこ)=天忍骨命=大幡主
 級長戸辺神(しなとべのかみ)=龍田大神・市杵嶋姫=天照女神

住吉大神・志賀大神は天照女神です。
笠折神社は風の神の天照女神を祀っていたことになります。
神宮寺の千如寺の十一面千手観音は天照女神の本地です。
雷山は天照女神の霊地といえます。

その千如寺に「雷山の風穴」があり、伝説によれば、この風穴は志摩の芥屋大門に続き、清賀上人が風の神を封じた跡と言われています。
糸島市志摩の芥屋大門(けやのおおと)には関連する神社、大祖神社(天照皇大神)、大門神社(綿積大神)、塩土神社(大幡主)があるのです。(No.148 149)

大祖神社 福岡県糸島市志摩芥屋675
祭神 天照皇大神(正殿)
 . 伊邪那岐大神・伊邪那美大神(脇殿)

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※大祖神社は橘神社です。

大門神社(おおと)  福岡県糸島市芥屋大門崎
祭神 綿積大神、大戸之道尊・大苫邊之尊

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大祖神社前から大門神社「大門神窟」鳥居を望む
鳥居は宗像沖津宮の沖ノ島を向いています

 

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「大門神窟」鳥居から桜井方面を望む
ここの海岸を「幣(にぎ)の浜」といった
芥屋の大門と野北浜を結び約6㎞にわたって弓張型の砂浜と松原が続く


塩土神社 福岡県糸島市志摩芥屋370
祭神 塩土老翁(大幡主)

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芥屋大門の南の海岸に「岐志」地区と岐志漁港があるのです。
福岡県朝倉市楢原の奇志神社の「奇志」と似ています。(前出 No.309)
福岡県糸島市の志摩芥屋、志摩岐志から引津湾、志摩船越に至る地は、雷山地区とよく関係するのです。

 

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※大門(おおと) という地名は各地にあります


糸島市芥屋大門崎の大門神社の祭神は綿積大神(天照女神)、大戸之道尊(おおとのじ)・大戸門辺尊(おおとまべ)です。
祭神名を整理簡略化すれば、大門之道尊(兄)・大門之辺尊(妹)となります。
まるで、加羅伽耶国の
許 宝玉(兄)  ホ・ホウギョク(ボオク)=宝玉仙人=長遊和尚
許 黄玉(妹)  ホ・オウギョク(ファンオク)
その子が天照女神
を想起させます。

百嶋学では、天神七代第5の大戸之道尊は「富の長髄彦」(岐神 クナトの神)を当てます。
朝倉郡筑前町弥永の大己貴神社の祭神は「サイの神」となります。
幸神(さいのかみ)と塞神(さいのかみ)は天照女神とクナト神(大国主)です。

千如寺の「雷山の風穴」は志摩の芥屋大門崎に続き、清賀上人が風の神を封じた跡と言われていますが、なぜ、封じる必要があるのでしょうか。関連神社、関連地域なので続いていても良いかと思うのですが。 やはり、ある二神・二兄妹を封じたいのでしょう。

 

※妻垣神社と大祖神社(糸島市芥屋)類似性
大分県宇佐市安心院町の妻垣神社の本殿の鬼板には橘紋、別の箇所には花菱紋があります。 糸島市志摩芥屋の大門の大祖神社も同様の構造です。
更に共通なのは、大祖神社の近くに綿積神社、妻垣神社のすぐ側の南西に龍王山とその頂上に海神社があります。両神社に関わっておられるのが正八幡大幡主で、大祖神社の近くに塩土神社があります。両神社は神南備山の御神山を持っておられ、妻垣神社は共鑰山、大祖神社は「朕の山」となります。
さらに、妻垣神社は字大門に鎮座します。大祖神社の鎮座地は字久保地ですが、芥屋大門(大字芥屋大門崎)にあります。大門神窟には大門神社があり綿積大神を祀ります。「大門」の地名が共通しています。「大門おおと」の地名は天照女神と大幡主を祀る神社によくあります。
また、妻垣神社の主祭神はアカル姫(=天照女神)、大祖神社の主祭神は天照女神です。
このように、両神社には共通点が多くあります。No.155 156




清賀上人墓所
千如寺は曽増岐神社の神宮寺であり、天竺(インド)から渡来された霊鷲山の僧・清賀上人の開創と伝えられています。その清賀上人の墓所が雷神社駐車場手前の向いの小高い丘にあります。
本尊十一面千手千眼観世音菩薩が祀られていた神宮寺講堂の近くになります。

 

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「清賀」は「シカ」と読めるので「鹿」。「鹿」は「王」の意味を持つ。
松野連<倭王>系図では、「鹿文」を「かや」と読む。「鹿文」も「王」の意味を持つ。




清賀上人とは
千如寺は、天竺(インド)から渡来された霊鷲山の僧・清賀(せいが)上人の開創と伝えられています。
「千如 せんにょ」とは、千(ち)の如(ごとし)。
「ち」とは、「茅 ち」= かや = 伽耶
千如寺とは、伽耶のお寺のごとし。
宝玉仙人(長遊和尚)の大伽倻高霊の伽倻山のお寺のこと?。

「道しるべする山人(やまと)の笠は重し呉山の雪、鞋(わらじ)は香ばし楚地の花」
鞋とは、茅草(チガヤ)で織り上げた草履です。茅草はカヤクサです。草もカヤです。

天竺(インド)から渡来された霊鷲山の僧とは、アユタ国の許黄玉と共に金首露のもとに来られた兄の「許宝玉」ホ・ホウギョク(ボオク)=宝玉仙人=長遊和尚を想起するのですが。

許 宝玉(兄)=清賀上人
許 黄玉(妹)=天照女神
とするには時代が合いません。
清賀上人、天照女神(妙見王女)は許黄玉の子とみます。

この二人が大伽倻高霊(高天原)から糸島にやって来た。つまり、天孫降臨です。
そして、天照女神は先住民である東隣の那国の王様・大幡主と出会った。
九州王朝の始まりです。

 

※倭国の初めと終り
全国邪馬台国連絡協議会 2016 福島 巌
https://zenyamaren.net/wp-content/uploads/2020/04/yamaren20-051.pdf
摘要です。
金首露の許黄玉皇后の船で一緒について来た兄のアユタ国王子「宝玉仙人(長遊和尚)」は首露王につかえるのではなく、洛東江を遡った伽耶山を修行の場所とします。
首露王には十男二女の子供がいたが、宝玉仙人はその中の七人の王子を呼んで伽耶山中にて修験者の生活を一緒に送った。その七人はこの地で成仏し、それを知った首露王がここに「七仏寺」を建立したという。また、娘の妙見王女もこの地で修行に励んで「妙見信仰」の祖になったと伝えられている。
伽耶山に海印寺(ヘインサ)ができたのはずっと後の時代で、新羅時代の僧侶・義湘が802年に伽倻山に建てたのが始まり。海印寺は、世界でも希少な木版の大蔵経「高麗八萬大蔵経」が納められているお寺。
お寺の名前になっている「海印」とは「竜王の印」を意味し、竜王の印というのは「打ち出の小槌」のような品で、三回叩くと願った品物が現れるという。
※「打ち出の小槌」は、大幡主を祀る神社の彫刻、鬼瓦の紋にあります。(No.294)


アユタ国王女の許黄玉と兄の王子「宝玉仙人(長遊和尚)」がインド北部のアユタ国からガンジス川を下り、大型船でインド洋に出て、南シナ海を北上し、半島南端の伽耶国にやって来た、と説明されますが、行程が短絡です。陸の遠路と海の大航海は時間がかかります。途中で帰港して準備を整えて、北上。そして、その繰り返しで、月単位の移動となります。

アユタ国の許氏一家の本当の移動とは、いかなるものであったか。
許氏一家が、韓半島南端の伽耶国に渡来する過程の記事がありました。




古代インド・アユタ国の許氏一家の行程
金首露王(きんしゅろ)の出自も曖昧でしたが、金首露王も古代インド・アユタ国出身でした。

 

※伝承 インド・アユタ国の王族が渡来して伽耶を建国した
『三國遺事』の「駕洛国記」によると、金首露王の父は、北天竺(古代インド)の阿喩陀国(アユタ)の王である金宗慶(きんそうけい、キム・ジョンギョン)とされる。 Wikipea

金首露王は亀旨峰(クジボン)に降臨したという。
首露王陵の正門の大梁に刻まれた双魚文様

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https://www.busannavi.net/korea/iseki/6411
釜山観光通訳案内士 釜山ナビ「首露王陵」



金首露王妃の許黄玉(王妃)の出生は、ハーモニックボーダレス協会によれば、 アユタ国が滅び、許黄玉の先祖は中国四川省普州(安岳)地域に移住し、そこで許黄玉は生まれたという。

 

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https://harmonic-borderless.com/?p=1090
2020年1月2日 ハーモニックボーダレス協会
金首露王妃(許黄玉王妃)の出生

許黄玉の先祖はインドのアユタ国が滅び、中国四川省普州(安岳)地域に移動してきた。
金首露王と国際結婚した許黄玉一行は、ガンジス川文化の伝播団ということもできる。

 

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アヨーディヤーの寺院正門の神魚像

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今でもこの地域の象徴シンボルとして使われている。
これは1975年、李鐘琦氏の現地踏査で初めて確認された。

 首露王陵の神魚像模様とインドの太陽模様の比較

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河童渡来之碑 (熊本県八代市)に書いてある「オレオレデーライタ」の意味
2020年2月9日
「오래 오래 대에라잇」
「行ったら偉い人になりなさいよ!」(直訳)

※慶尚南道(金海伽耶)のなまりです、 今でも使われているという
先住民(呉人)が北上する許氏一族ご一党を見送った言葉で、それが現地八代に残ったのでしょう。

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熊本県八代市の球磨川河畔河童渡来の地(本町2) (No.44)



許黄玉と天照女神の関連彫刻、鯉・鯛がつながります。
双魚の彫刻は福岡県瀬高の釣殿宮の神殿にあります。(No.110)
双魚は「金首露と許黄玉」又は「許宝玉と許黄玉」を象徴するのか。

釣殿宮 福岡県みやま市瀬高町太神2686

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古代インド北部にて、隣国との戦争に疲弊し、許氏一族一党は危機を回避するため、現在の中国・四川省普州に移動、安岳にて許黄玉がAD32年に生まれたという。AD48年、後漢・光武帝時代に、許氏一族は江夏(現在の湖北省武漢市)に移住。この年は、許黄玉が金官伽耶国の首露王に嫁いできた年に当たる。(年代については曖昧さが残ります) 許氏一族は製鉄、養蚕、交易に優れていたという。地理的位置からして、(旧)楚の地で通商・交易関係があったことが想定できます。


許黄玉ご一行は武漢市江夏から長江を下り、(旧)呉越楚の地を後にして、熊本県八代市に着き、長崎市に寄り、金海伽耶に着いたことになります。
伽耶国に関しては史料が限られているため、どこまで信頼性があるかはわかりませんが、移動過程は参考になるかと思います。

 




「もし」の置き換えが可能なら
「記紀」における伊弉諾尊と伊弉冊尊を金首露王と許黄玉妃に置き換えると
天照大神=ヒミコ
月読命 =清賀上人
素盞嗚命=大幡主
と、とれます。

ヤマタノオロチ神話にて、
足名椎神・手名椎神(面足尊・惶根尊)を金首露王と許黄玉妃に置き換えると
素盞嗚命=大幡主
櫛稲田姫=天照女神
と、とれます。
樋井川(ひいがわ)が福岡市の南区付近を流れ、その上流に檜原(ひばる)と柏原(かしわら)地区があります。柏原には大幡主(神武帝)を祀る羽黒神社、その下流の檜原には天照女神を祀る五社神社があり、さらなる下流に天照女神を祀る御子神社があります。

天孫降臨の神話にて、
高木大神を清賀上人とすると、
天照女神・大幡主と瓊瓊杵尊の天孫降臨の出発地が糸島となり、
瓊瓊杵尊を祀る天降神社が糸島に多数あります。
その道しるべ(道案内人)が彦火々出見尊(猿田彦)となります。

すると、雷山の曽増岐神社・上宮の当初の二社殿の神、天神七代・地神五代の神様がかなりの数でそろうのです。