No.306 住吉神・ツヌガアラシト⑥
宮原誠一の神社見聞牒(306)
令和8年(2026年)02月24日
福岡市博多区の住吉神社の元宮は那珂川市の現人神社となります。博多区の住吉神社は全国の住吉神社の総本宮です。
現人神社の祭神は通称「ツヌガアラシト」で、「都怒我阿羅斯等」と書き、「敦賀の安羅の人」という意味になります。
【鎌倉時代の博多古図】
岬の先にある今泉の若宮神社の祭神は豊玉姫(=天照女神)です。
弥生時代、博多湾の入り江は高宮、井尻付近まで達していました。
住吉神社社頭の天竜池が、当時の海岸の名残でしょう。
博多湾から那珂川に入り、博多川筋を登ると櫛田神社があり、博多川は那珂川と合流し、その先に住吉神社があります。那珂川をさらに登ると、美野島地区には弁財天宮、厳島神社、塩原地区には淀姫稲荷社があり、淀姫は「瀬織津姫=天照女神」です。さらに登ると曰佐の住吉神社、八十枉津日神(=瀬織津姫)を祀る警弥郷警固神社、市杵嶋姫命をまつる脊振神社があり、さらに那珂川を登れば、住吉神社の元宮といわれる現人神社にたどり着きます。
那珂川の現人神社
福岡県那珂川市仲3丁目6-20
祭神 住吉三神(表筒男命・中筒男命・底筒男命)
■住吉神社前の天竜池
古代の海岸線であった天竜池、現在も天竜池の亀島には天津神社が鎮座です。
天竜池の亀島には天津神社があり、祭神は伊弉諾尊(いざなぎ)となっていますが、朱の欄干、石の太鼓橋、周囲を池に囲まれた佇まいは、祭神が市杵島姫(壱岐島姫)あるいは天照女神を想起させます。
天竜池の亀島の天津神社
江戸時代末の筑前名所図会(1821年)の「住吉神社と住吉橋の図」によれば、天竜池の西に鳥居があり、すぐそばに那珂川が流れています。
本殿左脇には稲荷神社がありますが、本殿右脇には現在のように池に囲まれた恵比須神社はありません。
【住吉神社と住吉橋の図】
筑前名所図会(1821年) 福岡市博物館蔵
天竜池から道路を隔てて、住吉神社の境内となります。
■博多区の住吉神社
福岡市博多区住吉三丁目1−51
祭神 底筒男命、中筒男命、表筒男命
参道左手の少彦名神社(薬祖神社)があります
神 門
拝 殿
福岡県神社誌・住吉神社
福岡市博多区住吉三丁目1−51
祭神 底筒男命、中筒男命、表筒男命
配祀 天照皇大神、息長足姫
由緒 社説に曰く、当神社は伊弉諾命の予母都国より帰りまして、禊祓給ひし筑紫の日向の橘の小戸の檍原の古蹟にて、住吉大神御出生の地なるが故に、神代より御鎮座あらせられたるものと推察せらる。
下りて 神功皇后神教を奉じて 御征韓の途に上らせ給ふに 先立ち依綱吾彦男垂見をして祭祀を行はしめ給ひしは当神社にして、当時既に この地に御鎮座有りたるものなる可く、住吉本社又日本第一住吉宮と旧記に見えたり。
皇后御征韓の時 大神の和魂は玉体を 荒魂は御舟を守護して御神徳を垂れ給ひ、御凱旋の日 荒魂は長門に、和魂は摂津に鎮り給ひぬ。
かくて当社は住吉本社として歴朝御崇敬極めて篤く、中にも、後一条天皇は一代一度の大神宝使をして奉幣せられ、後花園天皇は当宮一夜の松の奇瑞を御叡感、勅撰松花和歌集を奉らる。
摂社 船玉神社(猿田彦命)、志賀神社(綿積大神)
末社 人丸神社(柿本人麻呂)、菅原神社(菅原神)、稲荷神社(宇賀魂命、火産霊神)、少彦名神社(少彦名命)、天津神社(伊弉諾命)
境外末社 下照姫神社(下照姫神、味耜高彦根命、衣通姫神)
神功皇后の征韓の時、住吉大神の御魂は皇后と舟を守護し、凱旋後神託により、荒魂は長門国下関市の住吉神社に、和魂は大阪市の住吉大社に鎮座されたという。
※「住吉大社神代記」では、皇后凱旋の時、筑紫大神が神功皇后に我が荒魂を穴門山田邑に祀るよう宣託を下したので、穴門直の祖である踐立が住吉神社(山口県下関市)に荒魂を、和魂を津守の祖である手搓(田裳見宿禰)が大津渟中倉之長峡の祠(住吉大社の地)に祀ったとあります。
本殿 本殿は縦向きの「住吉造」です
■住吉神社の境内社
左から、菅原神社(菅原神)、人丸神社(柿本人麻呂)、志賀神社
船玉神社(猿田彦命)
本殿左横の荒熊白髭稲荷神社(宇賀魂命、火産霊神)
祭神 豊受大神(宇賀の御霊)
伊勢神宮の外宮から勘定された豊受大神を祀る全国的にも少ない稲荷神社であるという
伊勢神宮外宮の祭神は稲荷神ということになります
本殿左横の稲荷神社を前面(西側)から
東側 二つの稲荷神社が尻合わせです
どちらが荒熊(大幡)で、白髭(山幸)はどちら
本殿右横の恵比須神社
四方を池に囲まれた恵比須神社
まるで、池に囲まれた市杵島姫神社みたいです
恵比須神は天照女神ではないかと思わせる神社です
住吉通り南口の鳥居
正面奥は恵比須神社
住吉神社の神輿庫
似たような神輿が三基あります
神輿の歩遥には花菱紋(天照女神)と三巴紋(大幡主)
19991年6月当時の神輿
※神社の東北隅に康正年間(西暦1455年~1456年)京都東福寺の書記正徹禅師が筑前に下り、この地に愛着をもって松月庵を建て滴露水という井戸を掘って茶道を楽しんだ跡があります。
■住吉神社の神宮寺
これだけ大きい神社であれば、神仏習合時代の神宮寺があったはずです。
住吉神社の神宮寺は「松花山円福寺」であり、明治の神仏分離令により境内にあった円福寺は廃寺となります。
「本尊を薬師如来から庚申尊天へと変えるならば寺の存続を許そう」
明治の神仏分離の際に明治政府から、このような圧力があったという。
しかし、円福寺は拒否し廃寺となり、本尊の薬師如来は円福寺から東光院に移されました。神仏分離や廃仏毀釈により、東光院も財政基盤を失い次第に衰退し、昭和56年宗教法人としての東光院は解散されました。
薬王密寺東光院跡
(やくおうみつじ とうこういん)
福岡市博多区吉塚三丁目20-37
寺伝によると、大同元年(806年)最澄により天台宗の道場として開山。正保4年(1647年)には、福岡藩2代藩主黒田忠之により密寺東光院と合併され、真言宗薬王密寺東光院となったとあります。今は廃寺となり、本尊の薬師如来は福岡市美術館に収蔵展示されています。
※薬師如来(薬師瑠璃光如来)は大幡主の本地仏です。
かつての神仏習合の思想では、
第一本宮 底筒男神・薬師如来 →海神の大幡主
第二本宮 中筒男神・阿弥陀如来→海神の大幡主
第三本宮 上筒男神・大日如来 →天照女神
それぞれを本地とする、と考えられた。
■住吉三神 底 中 表筒男命とは
いつから、住吉神の名は
底筒男命(そこつつのおのみこと)
中筒男命(なかつつのおのみこと)
表筒男命(うわつつのおのみこと)
の三神(柱)の称号になった?
住吉神の出現は、「記紀」の神功皇后の征韓の時とされる。
「記紀」によれば、伊邪那岐命(いざなぎのみこと)は、火神の出産で亡くなられた妻・伊邪那美命(いざなみのみこと)を追い求め、黄泉の国(死者の世界)に行きますが、妻を連れて戻ってくるという望みを達することができず、穢れを受けてしまいます。その穢れを清めるために海に入って禊祓いしたとき、住吉大神である底筒男命、中筒男命、表筒男命が生まれた、
とするも、その三神の実態は不明です。神名は抽象名詞です。
※祓詞(はらへことば)
掛けまくも畏き (かけまくも かしこき)
伊邪那岐の大神
筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に (あはぎはらに)
禊ぎ祓へ給ひし時に
生り坐せる祓戸の大神等 (おおかみたち)
諸々の禍事・罪・穢
有らむをば (あらむをば)
祓へ給ひ清め給へと白すことを (まをすことを)
聞こし召せと (きこしめせと)
恐み恐みも白す (かしこみ かしこみ もまをす)
※筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原とは
那珂川市萩原(県道56号おぎわら橋のある所)といわれています
博多の住吉神社、下関の住吉神社、大阪の住吉大社が成立する前に、那珂川市に本宮としての現人神社がすでに存在しています。
その現人神社の創立時に祭神はどういう形態で祀られたか、原始の姿があるはずです。
残念ながら、現人神社の由緒記でも、祭神は住吉三神で語られています。
境内社の田神社(埴安彦命・埴安姫命)、地禄神社(埴安姫命)からして、男女二神が想定できます。
志賀神社の綿積大神も綿積三神で語られていますが、実態は天照女神の一柱の神です。対偶神の男神は摂社の今宮神社に祀られています。
住吉大神も住吉三神で語られていて、実態は海神の大幡主の一柱の神と考えられますが、住吉大社の神様は男女の二神です。
第一本宮 日神垂迹 海神の大幡主=ツヌガアラシト
第二本宮 月神垂迹 天照女神=月姫
さらに、開化天皇(神功皇后)の住吉神社創立の貢献を考慮して
第三本宮 開化天皇
第四本宮 神功皇后
と、私は設定しています。(私説)
境内配置を考慮すると、
第三本宮、第四本宮は後の追加建築と見えるのです。
第二本宮も第三本宮以前の追加建築と見えるのです。
当初は、第一本宮に海神(住吉神)の大幡主と織姫(春日神)の天照女神の二神が祀られていたのではないかと。
※春日神
春日神と言えば春日大社の春日大神・天児屋根命(天押骨根命)を想定しますが、本来の春日神は若宮の天照女神(天押雲根命)です。
※柳瀬の玉垂神社
福岡県久留米市田主丸町八幡394
柳瀬の玉垂神社の本殿には、三棟の祠があり、それぞれに女神が祀られています。
祭神 玉垂命(天照女神)
相殿 左殿 住吉大神(天照女神)
右殿 春日大神(天照女神)





































