No.305 住吉の神・都怒我阿羅斯等⑤
宮原誠一の神社見聞牒(305)
令和8年(2026年)02月20日
本題に入る前の資料
都怒我阿羅斯等(ツヌガアラシト)という現人神(あらひとがみ)
■摂津の住吉大社
大阪府大阪市住吉区住吉二丁目9-89
祭神配祀は、百嶋神社考古学では次のようになっています。
第一本宮 底筒男命(開化天皇)
第二本宮 中筒男命(崇神天皇)
第三本宮 表筒男命(安曇磯良)
第四本宮 息長足姫命(神功皇后) 後の追祀
本殿は縦並びの配置
第一・第二・第三本宮が縦直列、第三本宮の横に第四本宮が横並列という独特の配列
住吉大社HPから
https://www.sumiyoshitaisha.net/about/architect.html
住吉三神を整理すれば
底筒男尊 月神垂迹 大政大臣物部保連・開化天皇 摂津住吉大社の主祭神
中筒男尊 (贈)崇神天皇・ツヌガアラシト・現人神 博多住吉神社の主祭神
表筒男尊 日神垂迹 玄孫大臣物部大連・安曇磯良 下関住吉神社の主祭神
住吉大社の神紋は花菱紋で、天照女神の紋章です。
紋章からすると、主祭神は天照女神となります。
「住吉」の元は「住江」であり、好字をとって「住吉」となりました。日吉神社の「日吉」の元は「日枝 ひえ」であり、好字をとって「日吉」となりました。
天照女神の神紋・花菱紋
(住吉大社の神紋・花菱紋)
住吉三神を再度整理
第一本宮 日神垂迹 大幡主
第二本宮 月神垂迹 天照女神
第三本宮 ツヌガアラシト(現人神)
■能登生国玉比古神社(気多本宮)
(のといくくにたまひこじんじゃ)
石川県七尾市所口町ハ48
(Googe Map から)
孝元天皇の創祀という。境内には太鼓橋があり
祭神 大己貴神、素戔嗚尊、奇稻田姫命
配祀神 事代主神、住吉三神、建御名方命
延喜式に見られる能登生国玉比古神社といわれ、孝元天皇の創祀という。崇神天皇が当社の祭神を分霊し、羽咋郡竹津浦に勧請し気多神社とされた故に、当社を気多本宮と称する。
天正年間に前田利家 旧社地所口より現在の所口へ遷された。
社伝より
大己貴命が出雲国から因幡国気多崎(鳥取県鳥取市白兎)に至り八上比咩と婚姻し、その後、鹿と亀の霊獣に乗って能登半島の府中の浦(石川県七尾市府中)にたどり着きました。
その際、大己貴命は素戔嗚尊と稲田姫の化身である老夫婦に出迎えられ、様々な料理などのもてなしを受けて、この地に留まり住民を守って欲しいと懇願されました。
当時の能登国には大鷲が巣食い大きな被害を与えていた為、大己貴命がそれを退治すると住民達は皆感謝し社を設けて祭祀するようになりました。
■氣比神宮と氣多大社の祭神
両社ともに都怒我阿羅斯等に関係します。
◎氣比神宮(けひじんぐう)
福井県敦賀市曙町11−68
祭神 伊奢沙別命(いざさわけのみこと)
(写真はWikiから)
天照大神の両部鳥居、六角灯籠(土公元宮)、「五七桐」と「右三つ巴」の神紋があります。
気比大神・御食津大神(みけつおおかみ)・笥飯大神(けひおおかみ)・保食神とも称する
結宮(けつのみや)=天照大神
猿田彦神社 氣比大神の案内をされる神様
兒宮(このみや)児宮(このみや) →許宮(このみや)=天照女神
兒(こ)の舞は彦火々出見命を浦島太郎に因んだ神楽といわれる
乙姫(豊玉姫)は天照女神となります
※氣比神宮の祭神は天照女神(五七桐)と大幡主(右三巴)です
すると、天照女神=乙姫(豊玉姫)、大幡主=彦火々出見命となります
◎氣多大社(けたたいしゃ)
石川県羽咋市寺家町ク1-1
祭神 大己貴神=大幡主(己の神=土神)
天照女神の両部鳥居
奥宮 須佐之男尊、奇稲田姫命 → 大幡主と天照大神の置き換え
摂社 白山神社(菊理媛神) 若宮神社(事代主神)
境内社 奥津島神社(奥津島姫命) 太玉神社(天太玉神)
※氣多大社の祭神は天照女神と大幡主です。
崇神天皇の御代、能登国鹿島嶋路の湖水に毒蛇が住み着き住民達に害を及ぼすようになると、能登生国玉比古神社に祈願し見事退治する事が出来ました。
住民達は神意に感謝し羽咋郡竹津浦に分霊を勧請し現在の気多大社が創建されます。以来、能登生国玉比古神社は「気多本宮」とも呼ばれるようになったとされます。
■久麻加夫都阿良加志比古神社
(くまかぶとあらかしひこ)
石川県七尾市中島町宮前ホ部68-1-1
祭神 阿良加志比古神(あらかしひこ)
配祀 都奴加阿良斯止神(つぬがあらしと)
境内社 薬師社(本地仏 熊甲薬師如来=大幡主) 、加茂社
(写真は「御朱印集めには神社がいいね」https://jinja-bukkaku.net/)
天照女神の両部鳥居、神紋は蛇の目=大幡主、加藤清正公の神紋
本殿、薬師社の向拝は四本柱で高良神社の形式です
猿田彦が先導するお熊甲祭「イヤサカサー」の掛け声は「弥栄、いやさか、やさか」、祇園社の八坂神社(いやさか)は「やさか神社」として広まった、八坂神社(祇園社)は本来、大幡主を祀ります。熊甲安羅加志彦(クマカブトアラカシヒコ)=都怒我阿羅斯等(ツヌガアラシト)=大幡主
※祭神は天照女神と大幡主です。
■弥栄神社(やさか)
島根県鹿足郡津和野町後田67
祇園社にしては天照女神の両部鳥居があります、京都・八坂神社から勧請
祭神 須佐之男命 牛頭天王
天照女神の両部鳥居があります、古典芸能神事である鷺舞、鷺神社は大幡主(大国主)を祀ります。須佐之男命、奇稲田姫は大幡主と天照女神の置き換えです。
■福岡県那珂川市の現人神社
那珂川市の現人神社は福岡市博多区・住吉神社の元宮となります。
住吉のツヌガアラシトは現人神社の祭神であり、博多区の住吉神社の祭神です。現人神社の祭神は通称「ツヌガアラシト」で、「都怒我阿羅斯等」と書き、「敦賀の安羅の人」という意味になります。別名「くまかぶとあらかしひこ」(熊甲安羅加志彦)といわれ、「熊甲」は熊本県甲佐、「安羅」は朝鮮半島の日本の任那の出先で、安羅は地名となります。「加志」は「梶取」のことで、熊本の甲佐出身の安羅にいる舵取(船長)という意味です。
博多古図
中央上が住吉神社、左中央部が博多の町、右が草香江の入江 No.96 188
鎌倉時代の博多古図
ツヌガアラシトは神功皇后紀で中臣烏賊津使主(なかとみいかつおみ)の名で審神者(さにわ)として神功皇后に身近に仕えた人でもあります。
(贈)仲哀帝がなくなると、神功皇后は中臣烏賊津使主を審神者として召して、仲哀天皇に祟った神を聞き出す「くだり」があります。その神が撞賢木厳之御魂(天照大神)であるという。
福岡県久留米市北野町赤司の八幡神社の止誉比咩神社本跡縁記(とよひめじんじゃほんじゃくえんぎ)によると、神功皇后は、仲哀天皇に祟った神が天照大神て撞賢木厳之御魂とわかり、御魂を鎮めるために、伊勢天照御祖神社を建立されます。その神社が、赤司の八幡神社の南の今寺区に鎮座される「四柱神社」です。
今では、「四柱神社」が、伊勢天照御祖神社の元宮であるということが、すっかり忘れ去られています。今寺の四柱神社は「伊勢天照御祖神社」の本宮・元宮です。中世に火災に遭い消滅し小さく再興されました。
那珂川の現人神社
福岡県那珂川市仲3丁目6-20
祭神 住吉三神(表筒男命・中筒男命・底筒男命)
現人神社・境内社
本殿右横の地録田神社
地禄神社(埴安姫命) と田神社(埴安彦命・埴安姫命)
本殿右横の薬祖神社(少名彦命)と六一神社(不詳)
六一神社は十六神社(じゅうろく)のカモフラージュです。地禄神社(じろく)=十六神社(じろく)で祭神は埴安神(天照女神・大幡主)です。
社伝に「村々に地禄神社即ち埴安神を祭り給ふこと、この那珂郡限りて多し」とあります。旧那珂川町一帯には大幡主を祭神とする地禄神社が多くあります。正八幡・大幡主は「奴国」の王様です。地禄神社が多くあって当たり前かもしれません。これらからすると、現人神社の古宮は地禄神社となります。(No.96)
福岡県神社誌 現人神社
筑紫郡安徳村大字仲字村
祭神 表筒男命、中筒男命、底筒男命
由緒
明治5年11月3日郷社と定めらる。
住吉神の生化し給ふ橘の小戸にして住吉の本初たり。
神功皇后の軍船を導き給ひしより現人と称し給う由、神功皇后三韓征伐の折、初め神田をこの辺より開き始め、隣村山田の一の堰(又は神堰とも言ひ伝ふ)掛り水、いわゆる裂田溝を通し、又、村々に地禄神社即ち埴安神を祭り給ふこと、この那珂郡限りて多し。
境内神社 神武天皇社(神武天皇)、薬祖神社(少名彦命)、六一神社(不詳)、
菅原神社(菅原道真)、田神社(埴安彦命、埴安姫命)、地禄神社(埴安姫命)
摂社 風早神社(級長津彦命)、裂田神社(息長足姫命)
※橘の小戸の住吉神は大幡主となります
※もし神功皇后伝説が本当なら
福岡の住吉神社の『神代記』に「是に皇后、大神と密事あり」とあり、住吉大神(祟神天皇)との関係を示唆しています。
審神者として若い神功皇后に仕えておられたのが(贈)祟神帝です。記紀によって天皇になられた贈天皇です。祟神帝は、一生懸命、神功皇后に仕えておられたが、神功皇后よりも祟神帝のほうがずっと年上、約30歳上のおじいさんです。
住吉神社の「皇后、大神と密事あり」の大神は(贈)祟神帝とみることができます。
すると、(贈)祟神帝を大幡主、神功皇后を天照女神に置き換えると、その子は誉田別命=(贈)応神天皇となります。
大幡主(神武天皇)は福岡市南区柏原(橿原)に、天照女神(ヒミコ)はその北の檜原(ひばる)におられ、隣あわせで居られました。日本書紀では、神武天皇(磐余彦)は蹈鞴(たたら)五十鈴媛を皇后とし橿原宮で即位されたことになっていますが、蹈鞴五十鈴媛を皇后としたのは崇神天皇です。神武天皇は奈良の橿原宮で即位はされていません。(No.129)
現人神社本殿の左後には、馬頭観音、如意輪観音、十一面観音を安置する観音堂があります。馬頭観音は大幡主を祀る神社によく祀ってあります。
ここはよく、大幡主の神使の「アオバズク=ふくろう」がやってきます。(No.215)
現人神社本殿後の馬頭観音堂
本殿後の観音堂
如意輪観音は朝鮮式坐りをされています。天照女神で間違いありません。天照女神は朝鮮半島南部の伽耶から来られていること間違いなしです。
足一騰坐(あしひとつあがりすわり)のご神像は天照女神でよく見かけます。ご神体は「右片足膝立て」坐像で、これが「あしひとつあがり坐像」で、「足一騰宮」の名の起源と想定しています。
■瀬高町の荒仁神社
福岡県瀬高町堀切に荒仁(あらひと)神社があり、玉垂神社と並んで鎮座です。
那珂川市の現人神社の祭神は大幡主です。瀬高町の荒仁神社の祭神も大幡主で、隣は天照女神の玉垂神社です。
瀬高町の堀切集落の氏子さんは、宮司以下ほぼ「河野 かわの」姓で、家紋は剣方喰紋(けんかたばみ)です。境内には大三島神社、天照女神を祀る若宮神社、天鈿女命を祀る天御前社、荒仁神社等の物部関係神社が鎮座です。
堀切集落は現在の地名表記では「瀬高町河内かわち」です。その前は、「河原内こうらうち」と言いました。高良大社が鎮座する高良山の南麓も同様に「高良内こうらうち」と言います。「河原内こうらうち」が短縮されて「河内かわち」となったのでしょうか。
玉垂神社と荒仁神社の両神社は南向きですが、玉垂神社は南から、荒仁神社は西から境内に入ります。(No.112)
瀬高の玉垂神社
福岡県みやま市瀬高町河内(堀切)1139
延久2年(1074年)、後三条天皇の御代に建立
祭神は武内宿祢(中)、脇神・春日大神(右)、住吉大神(左)
とあり、祭神表記は柳瀬の玉垂神社と同じです
紋章からすると、天照女神と大幡主を祀ります
玉垂神社の楼門の屋根には五三桐紋、
拝殿には五七桐紋、幔幕は五七桐紋、
本殿の屋根には五七桐紋、幔幕は五三桐紋、
本殿向拝の四本柱は高良玉垂神社の格式です。
荒仁神社は福岡県神社誌に記載がありません。
神社を概観する限りでは、「隅切角に角三字」紋は大山祗流河野氏の紋章であり、大山祗神社系なのです。
地元社伝由緒では、祭神は河野氏の先祖「河野四郎通信みちのぶ」あるいは「河野の祖神を祭祀」とあります。神社の東に河野四郎通信の奥津宮の荒仁神社があり、河野通信が祀られています。
荒仁神社(奥津城)
祭神 河野四郎通信
荒仁神社
鳥居は西向きで、扁額には「荒仁神社」とあります
由緒案内板がありました。
荒仁宮(あらひとぐう)
文治3年(1187)河野四郎通信(みちのぶ)を祭神として後鳥羽天皇勧請により建立されたと云われています。
伝説によると(南北朝動乱の時)伊豫国得能弥三郎の嫡子河野伊豫守が筑紫に下向し堀切村に築城した。その子孫の河野出雲守道弘が後柏原天皇御代大永年間(1521-)に祖神を祭祀したという。
伊豫水軍を率い、源氏方として河野四郎通信は息子の通貫と共に堀切の庄に来ましたが病にたおれ死去(文治3年)。その後家運も衰え路傍の墓となりました。
ある時、墓の傍を武士が馬で通り掛かり、家来に古びた墓を馬鹿にし笑い過ぎた時、この墓がたちまち鳴動して殺気が起こり人馬とも息絶えました。それより殺気が絶えず、その地に宮を建て、その霊を祀り、四郎大明神と号し、後に荒仁社と改めました。
南校区まちづくり協議会
社説では、文治3年(1187年)河野通信は、源平争乱に源氏方として伊豫水軍を率い、息子の通貫と共に堀切の庄に来ましたが、病にたおれ死去。その後、後鳥羽天皇により建立されたと云われています。
しかし、河野通信の存命は1156年-1222年であり、文治3年(1187)に祭神として祀られることはありません。
※河野四郎通信
河野通信は承久3年(1221)の承久の乱で後鳥羽上皇方につき、朝廷方が敗北すると通政と共に領地へ戻り、高縄山城に籠もって反抗を続けたが、翌年に幕府方に居城を攻められ降伏。捕虜となって陸奥国江刺に流罪となり、通政は処分され、所領の多くは没収されます。
河野通信は配流後出家し、江刺郡稲瀬(現在の岩手県北上市稲瀬町)にある国見山極楽寺で貞応元年(1222)に死去、享年68。河野本家はひとり幕府方に付いた子の河野通久によって辛うじて存続することとなります。(Wikiから)
文治3年(1187)後鳥羽天皇によって河野通信が祭祀されたとありますが、この時、大幡主を祭神とする荒仁神社が創祀されたとみます。
南北朝動乱の時、伊豫国得能弥三郎の嫡子・河野伊豫守が筑紫に下向し、堀切村に築城。その子孫の河野出雲守道弘が、大永年間(1521-)に祖神(河野通信)を追祀したとみます。
■香春町採銅所の現人神社(お申様)
当初、都怒我阿羅斯等(ツヌガアラシト)が祀られていましたが、中世になって香春岳城の城主であった原田五郎義種(はらだよしたね)が合祀されました。神社由緒から、ツヌガアラシトは意富加羅国(おおからくに:朝鮮半島南部の大加羅=大伽耶)の王子であるという。(No.243)
香春の現人神社
福岡県田川郡香春町採銅所1797
祭神 都怒我阿羅斯等命
追祀 原田五郎義種尊
一の鳥居 扁額「現人神社」、猿田彦大神石塔、由緒案内板
由緒(神社案内)
第一産の大神は意富加羅国(おおから大伽耶) の王子で、垂仁天皇の時代に新羅の姫神(比咩語曾神) の後を慕って、この地に御鎮座しました。
大伽耶王子は大幡主です。姫神(比咩語曾神)を「新羅の姫神」と言っておられますが、姫許曾神は天照女神であり、大伽耶姫です。
荒神様は、福岡県一帯では、「荒人」「荒仁」「現仁」「現人」「あらひと」の名が付く神社に所々出てきます。
福岡県那珂川市に現人(あらひと)神社があり、博多住吉神社の元宮であるという。
福岡県瀬高町に荒仁(あらひと)神社があり、荒仁神社社殿右横に天照女神を祀る玉垂神社が並び鎮座です。
■百嶋学からみる神功皇后の時代
百嶋メモに、西暦2001年を基準にした神功皇后の積年計算があります。その積年を引けば実年時代になります。
これからすると、神功皇后の生年は西暦227-269年で、往年42年であるという。神功皇后存命の西暦227-269年は「ヒミコ」の時代と重なります。
しかし、日本書記の神功皇后紀年代は120年の誤差があるという。皇后紀摂政69年は389年であり、(389-269=120)干支二運(60×2)のズレは意図的であるという。
佃収(つくだおさむ)著「古代史の復元」シリーズ4「四世紀の北部九州と近畿」には、皇后紀の実年代が120年ずれる理由が詳しく述べられています。
裂田神社 福岡県那珂川市安徳11
まずは、ブログ「No.95 開化天皇と神功皇后を祀る那珂川の裂田神社 2019年2月27日」から
※神功皇后の西暦2001年を基準にした積年計算
住吉大社祭事紀、三省堂皇紀年表、桜宮(仮称)由緒記をもとに計算されている。
結果は猫宮(仮称)由緒記と一致するという。
①桜宮鎮座 西暦268年(1918-1650=268)
②住吉大社創立 西暦211年(2001-1790=211)
皇后没年を住吉大社創立西暦211年とすると皇后摂政11年
摂政元年西暦201年
➂皇后摂政元年 西暦201年 摂政西暦201-269年 69年間
④没年齢100年
⑤皇后没年 西暦269年(2001-269=1732積年)
⑥皇后生年 西暦169年(2001-169=1832積年)
⑦皇后摂政終年 西暦269年-住吉大社創立西暦211年=58年の補正
⑧往年 42年=100-58
⑨皇后生年 西暦227年-269年 (実年代347-389年)
※「古代史の復元」シリーズ4「四世紀の北部九州と近畿」による、皇后紀の実年代が120年ずれる理由
「紀」の紀年は「神功紀」になると実年代と120年の誤差がある。
その誤差はどこで生じているのかを追求してきた。
これまでに判明したことを整理すると次のようになる。
a『紀』の(神功)46年条から(応神)16年までは実年代と120年の差がある。
b『紀』の紀年と実年代が合っているのは(雄略)19年(475年)である。
これを基点にして実年代を検討していけばよい。
c 検討の対象は「応神紀」「仁徳紀」「履中紀」「反正紀」「允恭紀」「安康紀」である。
d「履中紀」「反正紀」「安康紀」には年代を狂わせる要素はない。
e「允恭紀」は25年の誤差を生じている。
f「応神紀」は4年の誤差を生じている。
残るのは「仁徳紀」である。「仁徳紀」がもっとも年代を狂わせているといえる。
○『紀』の紀年で「神功紀」までに120年の誤差を生じる原因
■「応神紀」 4年
■「仁徳紀」 86年
■「允恭紀」 25年
■崩年と即位年の重なり 2年
■即位前の空位期間 3年
合計 120年
応神16年(405年)から雄略19年(475年)の71年を、「紀」の紀年は188年にしており、117年の誤差を生じている。そのうち「允恭紀」では25年を狂わせている。
『紀』の年代を大きく狂わせているのは「応神紀」と「仁徳紀」である。
その原因として、「応神紀」のほとんどは応神天皇が死去した後のことであるといえる。『記紀』は[応神紀」を応神天皇の記録であるかのように書いているが、「応神紀」には応神天皇の事績はほとんど書かれていない。「応神紀」と「仁徳紀」は同じ時代のことが書かれている。
応神天皇と仁徳天皇は同世代の人ということです。
応神天皇は正式の天皇ではありません。「記紀」によって称号が与えられた(贈)応神天皇です。仁徳天皇が正統の天皇です。だから、[応神紀」は天皇の事跡の記録がないのです。
神功皇后存命の西暦227-269年は「ヒミコ」の時代と重なります。
その原因は、応神元年(390年)から雄略19年(475年)の86年間に天皇の在位年数(期間)の206年間を封じ込めたことによります。そのため120年の無理が生じたのです。
日本書記による応神元年から雄略19年までの天皇の在位年数
・15代 応神天皇 41年
・16代 仁徳天皇 87年
・17代 履中天皇 6年
・18代 反正天皇 5年
・19代 允恭天皇 42年
・20代 安康天皇 3年
・21代 雄略天皇 19年(19年条まで)
・合計 203年(期間206年)
住吉大社祭事紀からすると、神功皇后存命の西暦227-269年は「ヒミコ」の時代と重なります。神功皇后=ヒミコ ととることもできますが、佃収(つくだおさむ)氏によれば、皇后紀の実年代が120年ずれており、神功皇后紀は西暦347-389年になるという。
考古学トピックス 2011年3月24日
※爾波移(にはや=ニギハヤヒ) 千熊長彦(ちくまながひこ=大幡主)
百済年紀からすると、ニギハヤヒは神功皇后時代の人となるのです。
ニギハヤヒはヒミコの時代の人ではなくなるのです。
この120年ずれを、どちらの時代に当てればいいのでしょうか?
香春の現人神社の由緒からすると、ツヌガアラシトは垂仁天皇の時代の人であり、崇神帝となります。「垂仁天皇の時代の人」を無視すれば、ツヌガアラシトは大幡主となります。
ツヌガアラシトの日本列島入りの伝説は、「スサノオとアカル姫」の伝説と重なり、ツヌガアラシトは大幡主となります。
神武帝=大幡主 = 崇神帝=ツヌガアラシト とすれば、すべてが一致するのですが、仮説の域を出ません。
■福岡市博多の住吉神社
博多湾から那珂川に入り、博多川筋をたどっていくと櫛田神社が見え、那珂川と合流し、その先には住吉神社、さらには曰佐の住吉神社、さらにたどっていけば、住吉神社の総本宮といわれる現人神社にたどり着きます。
現人神社の祭神・都怒我阿羅斯等(現人神)を崇神帝とすると、「記紀」では、崇神帝は神功皇后時代の人であり、崇神帝が住吉神として祀られるのは、神功皇后没後となります。すると、原始の住吉神社および現人神社は、天照女神と大幡主の二神が祀られていたことになります。
そして、摂津の住吉大社には、神功皇后と崇神帝が神功皇后没後に追祀されることになります。
博多の住吉神社
福岡市博多区住吉三丁目1−51
祭神 底筒男命、中筒男命、表筒男命
神功皇后伝説は由緒に与える影響が大き過ぎて、混乱を招きます。
神功皇后の征韓の時、住吉大神の御魂は皇后と舟を守護し、凱旋後は、荒魂は長門国下関市の住吉神社に、和魂は摂津国住吉大社に鎮座されたという。どうして、下関市と摂津大阪に住吉大神が鎮座なのか、その根拠がありません。
※「住吉大社神代記」では、皇后凱旋の時、「吾が荒魂を穴門の山田村に祀れ、和魂を津守の祖である手搓が大津渟中倉之長峡の祠に祀った」とあります。
那珂川市の市ノ瀬は「若き開化天皇が住まわれていた猫城(根子城)があった」という伝説が村に残る地域です。その川下に現人神社があります。神功皇后(開化天皇)によって祀られた住吉大神とは、天照女神と大幡主の二神が現人神社の原始神様では、と思うのです。
No.306 に続きます



























