No.298 宮崎県五ヶ瀬町桑野内の二神神社⑤
宮原誠一の神社見聞牒(298)
令和7年(2025年) 12月21日
宮崎県五ヶ瀬町桑野内・仲山に二神神社が鎮座です。
元は、三ヶ所神社(五ヶ瀬町三ヶ所・宮の原)の二上大明神の外宮として桑野内・宮原の迫に鎮座でした。創立時期は不明で、二上神社は現在の五ヶ瀬ワイナリにあったという。900年前に焼失し、桑野内・宮原の迫(現在の橋本家)に移ったという。
明治4年の合祀令の時、古戸野神社 (五ヶ瀬町桑野内4668)との合祀を避けるために、五ヶ瀬町桑野内(土生椿畑)36に桑野内神社 (くわのうち)として遷座することになった。しかし、後に村の人達はこれを惜しみ、桑野内・仲山に二上神社を再び建てることになった。これが現在の二神神社であるという。
◎二神神社
宮崎県西臼杵郡五ヶ瀬町桑野内(仲山)
令和7年(2025年)11月13日
天照女神の両部鳥居があります
◎五ヶ瀬ワイナリー
宮崎県西臼杵郡五ヶ瀬町大字桑野内4847-1
二神神社が当初あった場所です。
五ヶ瀬町の二上山の祭祀線は、
久山町皇大神宮-三箇山五玉宮-朝倉三奈木宮原-阿蘇高岳中岳-二上山-諸塚山-都農神社
祭祀線は五ヶ瀬ワイナリを通りません。
雨上がり後ですので、阿蘇岳は雲にかかっているだろうと思っていましたが、やはり、雲がかかり、頂上部をわずかに現していました。
頂上部をわずかに現わす阿蘇岳、左は中岳高岳、右は根子岳
五ヶ瀬ワイナリから見るパノラマ写真
晴れた日の写真をGoogle Map から借用しました
五ヶ瀬ワイナリーから阿蘇山を望む(Google Map)
◎桑野内神社(くわのうち)
宮崎県西臼杵郡五ヶ瀬町大字桑野内(土生)36
祭神 伊弉諾尊、伊弉冊尊
(写真はごかせ観光協会HPから)
明治の遷宮以前は、桑野内・宮原の迫に「二上神社」として鎮座していました。
明治4年の合祀令の時、古戸野神社との合祀を避けるために、桑野内・宮原の迫の二上神社は五ヶ瀬町桑野内(土生椿畑)に桑野内神社として遷座。
しかし、後に村の人達はこれを惜しみ、桑野内・仲山に二上神社を再びに建てることになった。これが現在の二神神社であるという。
※土生(つちばえ)に遷宮以前の桑野内・宮原の迫の二上神社
創祀の年代は詳らかではないが、長禄四年(1460)及永正18年(1521)二月の桑野内二上社宣命状(十社文書)によって、その創建の古さがわかる。
三ヶ所・宮の原の二上大明神の外宮として桑野内・宮原の迫に鎮座であり、古くから郷民の尊崇厚く、天文六年(1537)の宝物殿再興の時は大般若経を奉安した。この般若経六百巻は応永10年(1403)より同13年(1406)の間に書写されたもので、豊後玖珠郡長野八幡に奉納されたものであった。その後、永享四年(1431) 桑野内・宮原の迫の二上大明神に移されたもので、後、内宮である宮の原・二上大明神別当観音寺に移され、現在の浄専寺に保存されている(町指定古文書一号)。
徳川時代の社殿は享保三年(1718)11月5日再興であった。その後、文化14年(1817)4月より12月にかけて豊後原浦の名匠・槙彦兵衛實光以下十三人の番匠の建築したものであったが惜しくも焼失した。
明治4年の合祀令の時、古戸野神社との合祀を避けるために、宮原の迫の二上神社は五ヶ瀬町桑野内(土生椿畑)に桑野内神社として遷座。
※長禄四年(1460)の桑野内二神社宣命状
この古文書が「高千穂神楽」が記される最古の古文書と考えられています。
仍如件 仍って件の如し(よってくだんのごとし)
そこで前記記載の通りである。書状・証文などの最後に書き記す語句。
地下 地元の人。土着の人。 他の例 →机下、閣下、殿下、陛下
机下 病院先生机下 医療業界では古くから一般的に使用されています
宣命 (せんみょう)とは、天皇の命令を漢字だけの和文体で記した文書であり、漢文体の詔勅に対していう。ここ高千穂では「祠官」の意味
桑之内宣命 → 桑之内祠官
桑之内祠官 その外 給人の事
二神大明神 御神楽 その余 祈祷 申す事
代々宣命(祠官)につき
何事をも神々に申し上げるべきものなり
よって、くだんのごとし
大神唯利 判
時は 長禄四年(1460)四月吉日
桑之内祠官 殿
◎古戸野神社(ふるどの)
宮崎県西臼杵郡五ヶ瀬町桑野内4668
令和7年(2025年)11月13日
旧称は熊野三社権現、又は王子権現という。
祭神は伊弉諾尊・伊弉冉尊・迦具土神(かぐつちのかみ)、藤原道真公を合祀。
古くは熊野三社権現と称し、明治4年に古戸野神社と改名した。
創建年代は不明。
社伝によると、吉野朝の忠臣芝原又三郎性虎(後の入道性虎)が押方村芝原から桑野内・横通に移った時、芝原に祀られていた熊野三社権現をこの地に勧請したのが初めといわれる。
古来より「火の神様」であり、氏子の家に火難が罹っているときは、神社の中で不可思議の音響が起こって、これを告げたので、氏子は社殿にお籠りして火難除け祭事を行ったとされています。芝原性虎の旧名は興梠姓(こうろぎ)。
※熊野三社権現とは、結宮(天照女神)、速玉宮(大幡主)、那智宮(天照女神、大幡主)
※「古戸野 ふるどの」と呼んでいますが、高千穂神社がある字名の神殿(こうどの)が本来の字ではないかと思うのですが。
※芝原神社
宮崎県西臼杵郡高千穂町大字押方3371-3
祭神 事解男命 伊弉冉命 速玉男命
芝原神社の創建は不明、古くは熊野三社権現と称され、1522年(大永2)、三田井右京大夫右武が再建し、明治六年芝原神社と改称さる。
■二神神社(ふたがみ じんじゃ)
桑野内・宮原の迫の二上神社は、明治4年の合祀令の時、古戸野神社との合祀を避けるために、五ヶ瀬町桑野内(土生椿畑)に桑野内神社として遷座したものの、後に村の人達はこれを惜しみ、桑野内・仲山に二上神社を再び建てることになった。これが現在の二神神社であるという。よって、鎌倉期から江戸期にかけて、二神神社は桑野内・宮原の迫の橋本家にありました。
現在の二神神社は、道路を隔てた、橋本家の南に鎮座です。
二神神社
宮崎県西臼杵郡五ヶ瀬町桑野内(仲山)
黄葉の落葉時期でした、銀杏の実も落ちています
橋本家から二神神社を望む
「桑野内・宮原の迫」の住所表記は「五ヶ瀬町大字桑野内(宮原)」となっています。
二神神社の所在地は「五ヶ瀬町大字桑野内(仲山)」となっています。
両部鳥居の背後から見る橋本家の杉林
拝 殿
拝殿のガラスに映る橋本家の杉林、自身も映っています
本 殿
(旧)二神神社(推定)から見る祭祀線
(旧)二神神社、五ヶ瀬ワイナリ、二神山男岳は祭祀線に乗ります
二神神社の社殿の向きは土生(つちばえ)の桑野内神社へ向かいます
◎二神神社前の橋本家と綾家の墓地
橋本家と綾家の墓地と家紋、背後は橋本家
興梠家の墓石と家紋
二神神社前に橋本家と綾家と興梠(こうろぎ)家の墓地があります。
墓石から家紋を調べました。
橋本家は天満宮の梅鉢紋
綾家は宮地嶽宮の三階松紋
興梠家の家紋は刻まれていませんでしたが、
床に四つ菱紋(花菱紋の略称紋)と推察しました。
天満宮の梅鉢紋は天満宮独自の神紋ではありません。梅鉢紋は、天満神社と天(てん)神社が合祀した神紋です。天(てん)神社の祭神は天照女神と大幡主です。京都北野天満宮の神紋は梅紋と三階松紋で理解できます。三階松紋の宮地嶽神社の祭神は天照女神と大幡主です。
梅鉢紋、三階松紋、花菱紋に共通するのは、天照女神の神紋です。
再度、三家の墓地から見る二神神社、右は上水道ポンプ室
■史料からみる二神神社
五ヶ瀬町史 五ヶ瀬町 編纂 1981年3月
本社(二神神社)はもと三ヶ所宮ノ原の二上大明神の外宮として、桑ノ内村宮原(みやばる)の迫村に建立されたものであって、神域は東西三十間余、南北四十間あり。
古来から郷民の尊崇が厚く、天文六年(1537)の宝物殿 お経再興の時は、郷中の有力者が是に合力して、大般若経六百巻を奉安した宮ノ原淨専寺に現存。
延享四年(1747)内藤備後守政樹が奥州岩城平から延岡藩主として入国した時、各村庄屋に命じて、各村の状況を報告させた時の桑野内庄屋後藤七郎右衛門の報告覚書によると
八十八社の内
一、二上大明神外宮南面
社人 興呂木 久次郎
祢宣 橋本 七三郎
相殿 伊弉諾尊 伊弉冊尊
宮地 東西四十八間余、南北五十間
(以下省略)
延享四年(1747) 内藤政樹(まさたつ)延岡藩主の社方覚書によると
二神神社は「三ヶ所宮ノ原の二上大明神の外宮として、桑ノ内村宮原(みやばる)の迫(さこ)村に建立された」とあり、社地は広く、東西四十八間余、南北五十間と広くあり、今の橋本家の西の杉林付近に南向きに鎮座していたのでしょう。
祭神は二上大明神
相殿に伊弉諾尊と伊弉冊尊
と、あります。
祭神の二上大明神とはいかなる神様でしょう。
伊弉諾尊(イザナギ)と伊弉冊尊(イザナミ)は相殿ですから、主祭神ではありません。
江戸時代末期の延岡藩御用学者の樋口種実の高千穂庄神跡明細記に、
「桑ノ内村 二上大明神 (宮)原村にあり 二上神社の外宮なり
ご正体 男方座一体 女方座一体 外に古神体二柱あり」
さらに、簡略で、「二上外宮原宮」といっています。
ご神体は、男女四柱あることになります。
二柱は相殿に伊弉諾尊と伊弉冊尊
主祭神の二上大明神の二柱は男女神です。
五ヶ瀬の二上山の天孫族は、この地で阿蘇山を鎮めていました。この地から見える阿蘇山のむこう側に筑紫があります。そして、その先に福岡の宗像かあります。五ヶ瀬と宗像は、古代から祭祀でつながっています。(ヒルコのブログ)
五ヶ瀬ワイナリの高台から阿蘇山・中岳を望む方向は福岡県杷木久喜宮を通り、朝倉の古処山を通り、福岡県桂川町出雲を通り、宗像の許斐山(このみやま)を通り、宗像の神湊の浜宮に達します。(No.282)
※宗像大宮司の屋敷神は貴船神社
「宗像宮略記」文化9年(1812)には、「天正年間まで田島村の惣社の南の少し東に大宮司か宅地あり。方百余間その所を御内と云。今は田となれり。その館内丑寅の隅に貴船の社二社あり。」と、大宮司宅の丑寅(北東)の隅に貴船社二社が屋敷神として祀られていました。
宗像大宮司は貴船神社の天照女神を秘祭されていた。
貴船神社 雨を司る水神
高龗神 (たかおかみ)=大幡主 .雨乞神 黒龍神
闇龗神 (くらおかみ)=天照女神 雨止神 白龍神
阿蘇中岳と朝倉の古処山は白山姫(天照女神)を祀ります。
阿蘇高岳は大幡主を祀ります。
阿蘇根子岳は、その子である根子彦を祀ります。根子彦が付く天皇がおられました。
7代 孝霊天皇(大倭根子彦太瓊天皇 オオヤマトネコヒコフトニ)
8代 孝元天皇(大倭根子彦国牽天皇 オオヤマトネコヒコクニクル)
9代 開化天皇(稚倭根子彦大毘毘天皇 ワカヤマトネコヒコオオビビ)
10代 崇神天皇(御間城入彦五十瓊殖天皇 ミマキイリヒコイニエ)=都怒我阿羅斯等
※阿蘇山とは
蘇の神を祀る山という意味。また「くまそ」の山と読めます。
蘇の神とは、楚と呉の神。
これまでの考察からすれば
二上大明神の男女二神とは、
神皇産霊神(かみむすび)の正八幡神大幡主、
天照女神(大日孁神 おおひるめ)の天照女神、
となります。
伊勢神宮の祭神は、
内宮・天照大御神=天照女神=大日孁尊(おおひるめ)→ 日女(ひるめ)
外宮・豊受大御神=大幡主 =正八幡神 → 日子(ひるこ) → 蛭子(えびす)
となります。
※蛭子神は男神になられたり、場所によっては女神にもなられます、不思議な神様です
◎稲荷の神
倉稲魂神社 福岡県小郡市松崎704
祭神:倉稲魂命(うかのみたま)
稲荷神社でありますが、社紋は宮地嶽神社の三階松紋と同じで、祭神の神名は違っても、実態は同じです。祭神・豊受姫(月姫)と豊宇賀神(大幡主) (No.272)
日本書紀神話での「天地開闢 てんちかいびゃく」の神は「イザナギ・イザナミ」ですが、倭(ヤマト)の御祖神ではありません。「イザナギ・イザナミ」は新羅の神です。その子がスサノオ命となります。「イザナギ・イザナミ」神と稲荷神社は合いません。
「No.296 宮崎県高千穂(あららぎの里)神漏岐山の神々③」で
神漏岐(かむろぎ) → こうろぎ → 興梠木 → 荒良木(こうろぎ) → あららぎ
荒良木(あららぎ)の里は、神漏岐(かむろぎ)に起源を持つようです。
一般に、「荒 あら」は、半島の安羅伽耶の「安羅」を指します。安羅伽耶の製鉄鍛冶は当時の先端をいっていたようです。安羅の鉄剣は周囲を圧倒したという。
「荒木」は安羅の男となります。現人神(あらひと)、ツヌガアラシトの故国とされる
神漏岐を現人神(あらひと)、つまり、崇神帝とすると、神漏美は五十鈴姫となります。
すると、高千穂一帯には、
近畿に行かれた崇神帝(現人神)と五十鈴姫の系統
九州に残られた神武帝(大幡主)と吾平津姫(天照女神)
の二系統の流れがあることになります。
※覚え書メモ
相良寺と吾平阿蘇神社は隣合って建っています。
相良寺 熊本県山鹿市菊鹿町相良370
本尊 千手観音(天照女神)
吾平阿蘇神社 熊本県山鹿市菊鹿町相良366
祭神 健磐龍命、阿蘇都媛神(天照女神)




























