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No. 297 日向国智保郷(高千穂)の二上神社④

 
宮原誠一の神社見聞牒(297)
令和7年(2025年)12月19日
 

前回 No.296 からの疑問点

1.槵觸神社は「二上神社」とも呼ばれており、明治6年(1871年)に「二上神社」を正式社名としたが、明治43年に「槵觸神社」に戻した、という。槵觸神社は本来「二上神社」であり、二神祭祀だったのです。槵觸神社の創祀は不詳ですが、槵觸山の中腹に鎮座し槵觸山を神体山とするため、長く本殿を持たなかったという。江戸時代の元禄7年(1694年)に社殿が造営されています。

古来より、高千穂神社の春祭りに対して、槵觸神社は秋祭りを行う、とあり、地理的位置から上宮下宮の関係がうかがえる。本殿の屋根には、外削ぎの男千木、九本の鰹木は伊勢外宮と同格です。槵觸神社は本殿が無くて、槵觸山(藤岳山)を御神体とする自然崇拝であったため、高千穂神社はその外宮ではなかったのかと思うのです。

この関係は、隣の五ヶ瀬町桑野内の「二上山」を御神体とし「二上神社」を外宮とする関係によく似ているのです。槵觸山は「神漏岐山と神漏美山」の二神として、五ヶ瀬の二上山は「男岳と女岳」の二神として、二上神社(二神神社) 外宮を形成していたのではないでしょうか。


2.高千穂宮御由緒に「高千穂皇神(日向三代神)を祀るを初めとす」とあり、創立時の社号が不明です。「高千穂宮」でしょうか。後に「十社宮」と称しています。明治4年には三田井神社として、明治28年には高千穂神社と改称、とあります。
高千穂神社は「高千穂皇神」祭祀でなく、二神祭祀ではないでしょうか。それは、この高千穂神社から分社された千葉県佐倉市の高千穂神社でみることができます。


3.高千穂神社由緒によると、神武天皇東征の途中、三毛入野命は高千穂に帰られて日向三代の神々を祀られたのが初め、とありますが、日本書紀では、三毛入野命は「浪穂を踏んで常世国(海の彼方の国)に渡った」とあります。

一方、五瀬命は浪速国での長髄彦との交戦中に長髄彦の放った矢に当たって負傷。紀国の男之水門に着いた所で傷が悪化し、紀国竈山で亡くなり、竈山に墓が築かれたという(竈山神社)。(Wikiから) 五瀬命の神霊は紀州竈山神社から飛来して久住の桐迫村宮田鉾の木に鎮座され、寛徳元年(1044)に正式に勧請されて、久住神社に追祀されます。

稲飯命は熊野に進んで行くときに暴風に遭い、「我が先祖は天神、母は海神であるのに、どうして我を陸に苦しめ、また海に苦しめるのか」と言って剣を抜いて海に入って行き、「鋤持(さいもち)の神」になったとする。


4.高千穂神社異伝 鬼八(きはち)退治について、文治5年(1189年)の縁起書『十社旭大明神記』には、神武天皇の皇子「正市伊」が「きはちふし」という鬼を退治し、その後、正市伊とその子孫等が十社大明神として祀られたという異伝を載せている。(Wikiから)


こうしてみると、三毛入野命の存在は怪しいです。三毛入野命は高千穂に帰られて鬼八を討伐されたのでしょうか?
宗像大社の宗像大菩薩御縁起では、「その年の日向国でも、生贄の役に当たり、鍾愛(かわいい)息女が生贄に備え、法華経を信仰し読誦していたところ、白髪の老翁が現れてこれを聞き、その後、大蛇神が現れても害をしなくなったという。」霜宮鬼八供養でなく、大蛇神供養になっています。宗像縁起からすると、高千穂神社の霜宮鬼八の「猪掛(ししかけ)祭」ではないことになります。別神の鉱害鬼八の猪掛祭が行われていることになります。

すると、かつて、日向国智保郷(高千穂)では、高千穂町(町中)に二上神社(仮称)と隣の五ヶ瀬町(町境)に二上神社が存在したことになります。




東西の二上神社
高千穂町と五ヶ瀬町の町境界に、高千穂の神奈備として「男岳と女岳」の二つの峰をもった二上山がそびえています。それぞれの峰に二神を祀るという。ここでも、古昔は、二上山(ふたがみやま)が御神体の自然信仰であったという。そして、霊山・二上山から分祀した二上神社が東西の二ヶ所に「二上神社」と「三ヶ所神社」として鎮座します。

 

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三ヶ所神社
宮崎県西臼杵郡五ヶ瀬町三ヶ所(宮の原)8736
二上神社
宮崎県西臼杵郡高千穂町押方(小谷内)2375‐1
中登神社
宮崎県西臼杵郡五ヶ瀬町三ヶ所(坂狩)



山中に二上大明神の祭祀場があったが、山が深く冬は雪が多いため、氏子の話し合いで東と西の山麓に降ろして祀り、醍醐天皇の御代・昌泰元年(898年)に、現在の地に創立されたと伝えられる。
二上大明神は北東(押方)の二上神社、南西の中登神社(ちゅうのぼり)に分立後、中登神社の御霊は五ヶ瀬町内の数社を統合合併して、新たに造られた三ケ所神社へ遷宮された。(「二上神社」HPから)

 

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「二上神社」HPトップ画面 宮司・甲斐重寛 https://www.hutagami.com/ 参照

 

 

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国見ヶ丘南展望台から二上山を望む (Google Map)

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三ヶ所神社(さんがしょじんじゃ)
醍醐天皇の御代・昌泰元年(898年)に、氏子の話し合いで東と西の山麓に降ろして祀り、現在の地に創立されたと伝えられる。南西の五ヶ瀬町の二上大明神は中登神社(ちゅうのぼり)として創立。後に、五ヶ瀬町内の数社を統合合併して、新たに造られた現在の三ケ所神社へ遷宮された。現在の本殿は文政元年(1818年)に改築。
中登神社は、当初、三ヶ所神社の境内にあったとされ、1587年に現在地(坂狩)に遷宮されました。

三ヶ所神社
宮崎県西臼杵郡五ヶ瀬町三ヶ所(宮の原)8736
祭神 伊弉諾尊、伊弉冊尊
合祀 猿田彦命、藤原道真公

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一の鳥居「三ヶ所神社」

 

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二の鳥居
天照女神の両部鳥居がなくて残念です
合祀と遷宮を行った時、両部鳥居の概念が無くなったのかもしれません
幣立神宮、桑野内仲山の二神神社、押方小谷内の二上神社、桑野内神社、三ヶ所の中登神社には両部鳥居がありました

 

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参道右側には金明孟宗竹が密生しています
金明孟宗竹が密生しているのは高良大社があり、大善寺玉垂宮にも生えています。
ここの三ヶ所神社の基本は高良神社だったのか?

 

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二の鳥居を後ろから望む

 

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金明孟宗竹に二種類があるそうです。
古昔から境内に数本の金明孟宗竹が自生しており、本格的な竹林にするため、日本竹笹の会会長の指導を受けられたと。大字三ヶ所長迫(坂本)にあったものも移植されたそうです。

 

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金明孟宗竹 左・高良大社(鏡山神社) 右・大善寺玉垂宮

 

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階段を登り切った所に門神社です、豊磐窓命(左)、櫛磐窓命(右)
門神社がある神社も高良神社構造です

 

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拝殿。右横には旧本殿があります、二回遷座の上、この場所に落ち着きました

 

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旧本殿
現在の本殿は文政元年(1818年)に改築。その際、旧本殿は岩神鏡山大明神(岩神)の境内の欅(ケヤキ)の巨木と交換され岩神神社(岩神)に移った。明治44年(1911年)の合祀令で、岩神神社は三ヶ所神社に合祀され、神様不在の建物となり、廻渕天神社として再び三ヶ所神社に移された。向拝の柱は四本柱の高良神社構造です。

 

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本殿も向拝の柱は四本柱の高良神社構造です

 

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文政元年(1818年)に改築で、名工といわれる豊後の宮大工棟梁、牧彦兵衛らが招かれ、見事な彫刻が施された三間流れ造りの社殿が建立されました。
脇障子の中国司馬遷の史記物語「潁川に耳を洗う」と、正面の海馬2体の彫刻は、全国でも三社にしかないといわれる。その他、九州では希少といわれる数々の彫刻があります。

 

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本殿の右側
上段は龍の彫刻、下段は鶴と松の彫刻、右の鳥は何鳥?

 

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本殿の左側 脇社あり

 

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本殿の右側の脇障子の表裏の彫刻
中国司馬遷の史記物語「潁川(えいせん)に耳を洗う」を題材

 

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本殿左側の脇社と三面壁の彫刻の説明
脇社の神が本殿を守り、主祭神の神威も守ったとされる
脇社は五ヶ瀬町鞍岡の祇園神社、高千穂町の高千穂神社にありました

 

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中登神社
宮崎県西臼杵郡五ヶ瀬町三ヶ所(坂狩)
祭神 伊弉諾尊、伊弉冉尊

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ごかせ観光協会 (写真) https://www.town.gokase.miyazaki.jp/

中登神社の創建は、平安時代末期と伝えられています。当初は、三ヶ所神社の境内にあったとされますが、1587年に現在地に遷座されました。荒踊りは、16世紀に坂本城主の坂本山城守正次が近江国坂本から伝えたとされています。

中登神社には両部鳥居があります。こちらが二神神社の本宮みたいに感じます。
後の祭祀線をふれますが、中登神社は二神山の男岳と祭祀線を結びます。




二上神社(ふたがみ じんじゃ)
神社社頭に着いたのは午後五時前でした。212段の急な階段を一気に登りあがった時は五時を過ぎて薄暗くなっていました。宮司様は帰りの支度中でした。
小谷内(こだにうち)村を通過する時は道幅が狭く、対向車があれば離合できません。午後五時前でしたので、参拝者はないだろうと思って、ここも一気に通過です。
途中に離合場所があれば安心と思いました。登り車は離合場所で一旦停車し、警笛を鳴らし離合待ちであることを下り車に知らせます。警笛の反応がなければ進みます。その逆も同様です。日田の山間部の神社では、この処置がとられていました。

 

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御神体 二上山(ふたがみやま)

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写真向かって右が男岳、左が女岳。見る位置によってその姿を一変させる不思議な山です。一番綺麗に見えるのは高千穂町の運動公園付近です。南西の方角に見えます。
「二上神社」HP 宮司・甲斐重寛 https://www.hutagami.com/ 参照

このことを知っておれば、高千穂町運動公園に行ったのですが、当時は雲がかかっていました。このHPを事前に見ておればと思いましたが、親切な案内です。



二上神社
宮崎県西臼杵郡高千穂町押方(小谷内)2375‐1
祭神 伊弉諾尊、伊弉冉尊
相殿 彦火火出見尊、天満天神

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ヘアピンカーブを曲がると、いきなり社頭です。右の道は社殿まで車で登れます

 

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天照女神の両部鳥居、一の鳥居「二上神社」

 

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一の鳥居を後ろから望む

 

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地杉の吉野杉が植えられています、挿し木のクローン杉ではありません
商業目的で植えられた挿し木のクローン杉は根が張りません

 

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両脇に門神社です、櫛磐窓命(左)、豊磐窓命(右)
212段の急な階段を一気に登ります

 

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急な階段を登った所に拝殿です、
登り終わって、「ひーっ」と息切れのシンドイ思い、歳を感じます

 

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社殿全体を撮ろうと後ろに下がった時、急に風が吹き出し、大木の杉の枝にあった雨が水滴となっていきなり、にわか雨かと思える程に落ちてきました。神様の歓迎の儀式です。「ありがたや」 こんな経験はよくあります。無風であったのが、急に風が10秒程吹き出す現象には、よく遭遇します。

 

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二上神社由緒
二上神社は二上山を御神体として伊弉諾尊(いざなぎのみこと)、伊弉冉尊(いざなみのみこと)を御祭神として祀る神社です。
高千穂の神奈備山(かんなびさん)、神宿る山として信仰されている二上山は高千穂町と五ヶ瀬町の境界に位置し、南西の男嶽、北東の女嶽からなり、当社は女嶽北東に鎮座する。

古来より霊山として信仰のある二上山の山中に二上大明神の祭祀場があったが、山が深く冬は雪が多いため、氏子の話し合いで東と西の山麓に降ろして祀り、醍醐天皇の御代昌泰元年(898年)に現在の地に創立されたと伝えられ、千百二十年の歴史がある。

二上神社は元は一つであったが、898年の遷宮以来分社され、別宮が造られた。北東の二上神社、南西の中登神社(ちゅうのぼりじんじゃ)に分かれた。
その後、中登神社の御霊は、五ヶ瀬町内の数社を統合合併して新たに造られた三ケ所神社へ遷された。

また、高千穂町大字押方に嶽宮神社(たけみやじんじゃ)、五ヶ瀬町大字桑野内に桑野内神社(くわのうちじんじゃ)が創建され、現在に至っているが、現在はそれぞれ独立した神社として運営されていて直接的な関りは無くなっている。(HPから)

 

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暗くてよく彫刻が見えません、残念です

 

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祓い所(左)、二上稲荷神社(中)、神輿庫(右)

 

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昭和30年代、大改修が行われ拝殿を脇によけ、新たに現在の拝殿が作られました。その折、本殿は1メートル程持ち上げ奥にずらして、新しい拝殿とのバランスが保たれています。脇に寄せられた旧拝殿は現在二上稲荷神社として残っています。(HPから)




二上山の祭祀線
二上山の祭祀線は男岳から女岳を通り、高千穂神社を通り、高千穂小学校に向かい、きれいな直線上に乗ります。この線上には、二上神社も三ヶ所神社も乗りません。
高千穂小学校・天真名井(瑠理井 たまのい)・槵觸山(藤岳山)のラインは祭祀線となります。

槵觸山とその南隣の山(高天原遥拝所)を二上山(神漏岐山と神漏美山)とすれば、
高千穂神社は槵觸山 (二上山)をご神体とする外宮と
男岳女岳の二上山をご神体とする外宮の
二面性を持つものと考えられます。

古昔、高千穂神社は「二上神社」だったかもしれません
高千穂神社は「高千穂皇神」祭祀でなく、二神祭祀ではないでしょうか。それは、この高千穂神社から分社された千葉県佐倉市の高千穂神社でみることができます。

高千穂神社
宮崎県西臼杵郡高千穂町三田井1037

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高千穂神社 千葉県佐倉市中志津4-16-27
(写真は「千葉まほろば神社」から https://chiba.jinja.love/?p=16422)

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1949年10月、宮崎の高千穂神社で修業を積んだ初代宮司 森谷鉄五郎氏よって創建された宮崎 高千穂神社の分社、鳥居は天照女神の両部鳥居、神額は天照女神の型式です。
 


押方小谷内の二上神社の社殿は女岳に向かい、女岳から男岳への遥拝型式になっています。
宮ノ原の三ヶ所神社の社殿の向きは祭祀線にありません。合併と遷宮を行った建立の時、祭祀線は考慮されなかったのでしょう。
中登神社・中登岳・二上山男岳は直線上に乗りますが、中登神社の社殿の向きは祭祀線にありません。

これらから、中登神社と三ヶ所神社は二上山男岳と関係があり、二上神社は女岳と強い関係があり、高千穂神社は二上山の男岳女岳と強い関係があります。しかし、分祀の場合、神霊の力は場所に関係なく平等ですので、優劣はありません。

 

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※現在高千穂町の三田井の中心部に高千穂小学校があり、その昔、その場所に高千穂宮が在ったと言われています。(二上神社HPから)

高千穂小学校・高千穂神社・二上山女岳男岳の祭祀線

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高千穂小学校・天真名井(瑠理井 たまのい)・槵觸山(藤岳山)の祭祀線

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これらの祭祀線から考えられること、
神漏岐命(かむろぎ)と神漏美命(かむろみ)について、

神漏岐命は神皇産霊神(かみむすび)の正八幡神の大幡主、
神漏美命は天照女神(大日孁神 おおひるめ)、
その子が彦火々出見命(ひこほほでみ)となります。

または、
神漏岐命は高皇産霊神(たかむすび)の高木大神、
神漏美命は天照女神(大日孁神 おおひるめ)、
その子が瓊瓊杵尊(ににぎ)となります。

造化三神は天御中主神(あめのみなかぬし)・高皇産霊神・神皇産霊神であり、天御中主神は北辰神(北極星)の天照女神でしたが、後に入れ替えられて、天御中主神は北斗神(北斗七星)の大幡主になります。

 

※No.294 北辰の神と北斗の神
妙見宮の妙見神とは、本来、天照女神を指します。天照女神は菊理姫・白山姫です。
北辰とは北極星のことで、北辰の神は天照女神(天照皇大神)です。
北斗とは北斗七星のことで、北斗の神は大幡主(豊受大御神)です。
現在は、北斗の神が妙見神で、妙見菩薩とは七曜の星(北斗七星)となっています。つまり、妙見神は大幡主となっています。いつからか入れ替わっています。


日本書紀神話での「天地開闢」の神は「イザナギ・イザナミ」ですが、倭(ヤマト)の御祖神ではありません。「イザナギ・イザナミ」は新羅の神です。私は、倭の御祖神は神漏岐命・神漏美命とします。

高千穂の神々は、
神漏岐命の正八幡神の大幡主、
神漏美命の天照女神(大日孁神)、
その子の彦火々出見命
の可能性が強いと言えます。

そして、高千穂神社は、本来「二上神社」だった。



※ 2026-02-27 追記
Excite blog 地図を楽しむ・古代史の謎
信じますか? 高千穂ライン
2012-02-18

伊藤まさこ氏ブログ「地図を楽しむ・古代史の謎」にて
高千穂神社の祭祀線が卓見に語られています。
高千穂神社-草部吉見神社-阿蘇高岳
高千穂神社-阿蘇中岳火口-高良大社
この祭祀線が直線に乗る、とあります。
この考察は、高千穂神、高良神、草部吉見神、阿蘇神が同系統であると推察しました。
私の主張と一致します。驚いています。

 

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