No.296 宮崎県高千穂(あららぎの里)神漏岐山の神々③
宮原誠一の神社見聞牒(296)
令和7年(2025年) 12月13日
槵觸神社(くしふる)がある北隣には荒立神社 (あらたて)があり、その後方の山は、古来より「神漏岐山 かむろぎやま」という。その「神漏岐」は大祓詞の始めに出てくる男の神様の名です。さらに、荒立神社が鎮座する一帯を「アララギの里」といい、その起源は「神漏岐」にあるという。
※大祓詞(おおはらえのことば)
高天原に神留(かむづま)り坐す 皇親(すめら) 神漏岐 神漏美の命以(みこともち)て 八百萬神等を神集(かむつど)へに集へ賜ひ 神議(かむはか)りに議(はか)り賜ひて 我が皇御孫命(すめみまのみこと)は 豊葦原瑞穂國を 安國(やすくに)と平らけく知ろし食(め)せと 事依(ことよ)さし奉(まつ)りき
※やよい語(カムロミ・カムロキ、オモダル・アヤカシコネ)
カムロミ 神漏美 目に見えない世界 → 天照女神
カムロキ 神漏岐 目に見える世界 → 正八幡神大幡主
オモダル 面足 産みの男根の神、多細胞 → 正八幡神大幡主
アヤカシコネ 綾惶根 産みの女陰の神、遺伝子 → 天照女神
参考 萩原継男「弓前文書は天児屋根からの伝言です」から
鬼八伝説の資料を読んでいると、
三毛沼命が高千穂入りをした際に土地の豪族で興梠氏(こうろぎ)が直ちに恭順の意を表して三毛沼命を道の途中まで出迎えた。自分達の居住地を三毛沼命に譲り渡し、自分達は現在の荒立神社のあたり(宮尾野)に移り住んだ、という。
ということは、興梠氏は天孫降臨以来の豪族となります。
興梠姓(こうろぎ)は、興梠木(こうろぎ)、興呂木(こうろき)とも称します。
神漏岐(かむろぎ) → こうろぎ → 興梠木 → 荒良木(こうろぎ) → あららぎ
荒良木(あららぎ)の里は、神漏岐(かむろぎ)に起源を持つようです。
一般に、「荒 あら」は、半島の安羅伽耶の「安羅」を指します。安羅伽耶の製鉄鍛冶は当時の先端をいっていたようです。安羅の鉄剣は周囲を圧倒したという。
「荒木」は安羅の男となります。現人神(あらひと)、ツヌガアラシトの故国とされる。
前回の記事で、神漏岐命、神漏美命を祀る神社が近くの山都町にありました。
幣立神宮 熊本県上益城郡山都町大野712
創祀 神漏岐命、神漏美命(御祖神 みやおやのかみ)
追祀 天御中主神、天照大御神(伊勢両宮)
追祀 阿蘇十二神
日本書紀神話での「天地開闢」の神は「イザナギ・イザナミ」ですが、倭の御祖神ではありません。「イザナギ・イザナミ」は新羅の神です。私は、倭の御祖神は神漏岐命、神漏美命とします。その実態は後ほどに・・・
※参照
https://mz1.mzfolklore.net/2021/12/26/鬼八伝説資料/
みやざき民俗 日向の暮らしと伝承 宮崎民俗学会
鬼八伝説資料 2021年12月26日 渡辺一弘
その中に一節があり
https://nippon.zaidan.info/seikabutsu/1998/00417/contents/003.htm
鬼八伝承をめぐって土蜘蛛と山姥 荒木博之
荒木博之氏が興梠弥寿彦氏から聞いた内容をまとめた本があり、
次のようにあります。
そして、興梠(彌寿彦)さんは「鬼八は私の先祖です」と言われる。
「私は鬼八の子孫なんですよ。興梠というのは、鬼八は土蜘蛛でここの土着民でした」
鬼八一族が移ったといわれる神漏岐山の荒立神社
荒立神社の祭神は猿田彦命と天鈿女命
荒立神社の宮司を務めるのは興梠家
https://note.com/kucky918/n/nc9722ad43d75
高千穂古伝記(興梠古文書より 其の2)
平井俊徳 2020年6月21日
≪鬼八退治≫の項を読んでいると、
筒井戸の森に住む筒井戸何某に「子は見当たらないがどうしたことか?」とお尋ねになった。「筒井戸の子は大鷹に取られてしまい、子供が減ってしまったのだ」と答えた。
三毛入野命は、「それは大変だ。その鷹はどこからくるのだ?」と聞くと、「その鷹は藤岡山に住んでおります」と答えた。三毛入野命は高陰(光陰か!?)をとり、その鷹を撃ち留められた。その際、その鷹は白い血を流した。その場所を熊白川という。
赤司八幡神社の止誉比咩縁記の天孫降臨の節で、天村雲命が天真名井の聖水を「日向高千穂の藤岳山の瑠理井(たまのい)」に遷されます。その藤岳山が「藤岡山」ではないでしょうか。そして、神代川は「熊白川」とあります。
そして、さらに、
神呂岐(こうろぎ)の姓、彦穂々出見命の後裔であるという伝えがある、と記されています。
彦穂々出見命は別名、猿田彦です。イワレビコ(神武帝)の別名も「彦火々出見」です。
さらに、神呂岐姓が鬼八の子孫と言われるので、
鬼八 = 猿田彦 = 彦穂々出見命 = イワレビコ
となります。
イワレビコは日向国を治め、近畿に進出された方です。都農神社がある宮崎県児湯郡都農町から南下して、都萬神社(西都市)、宮﨑神宮(宮﨑市)、都城、高千穂峰の狭野神社(高原町)にかけての地域となります。その中心が高千穂峰の麓の高原町(たかはる)です。
■荒立神社(あらたて じんじゃ)
元宮・荒立宮の一の鳥居「荒立宮」
荒立神社 宮崎県西臼杵郡高千穂町三田井(宮尾野)667
祭神 猿田彦命、天鈿女命
配祀 大年神、迫天満、興呂木家先祖
元宮・荒立宮
拝 殿
拝殿奥・本殿内、神紋「左三つ巴紋」
荒立(建)宮の由来記
天鈿女命(あめのうずめ)は猿田彦命に仕えられ逢初の契りを結ばれて、後方の槵觸峰(神漏岐山)から切り出したばかりの荒木で家を建てて住居とお定めになりました。後世、命を祀る社も荒木で白木作りとした事から別名「荒建宮」の社名になったとも言われる、と荒立宮の創始が語られています。
由来の大筋は、日本書紀の神代記の天孫降臨の内容そのものです。
「天の岩戸隠れ」の神話では、天鈿女命は鈿(かんざし)として、「日影のカズラ」をつけて踊られたとありますが、これからすると、日影のカズラがある所が高天原となります。ここ高千穂に日影のカズラが植わっていたでしょうか。
拝殿向拝の右手に「歳神」が祀られています
祭神(配祀)に「大年神」が記載されています。大年神は正八幡神の大幡主です。別名、天真名井に関係する天村雲命が、どうして「大年神」として祀られているのか、知りたいものです。
※祭神名とご神像が一致
明治の神社合祀令により、高千穂神社に合祀され廃社とされるが、後に復社し現在に至る。なお、当神社に伝わった神像四体は、高千穂神社に合祀された際に、高千穂神社へ移されたため、現在は高千穂神社所蔵となっている。宮崎県指定有形文化財(美術工芸品)に指定されていたが、2020年(令和2年)9月30日付で国の重要文化財に指定された。
(https://ja.wikipedia.org/wiki/荒立神社から)
神漏岐山 七福徳寿板木
この板木を心こめて力強く七つ打って御請願なされますと、荒立宮の祭神 猿田彦大神様はじめ八百萬大神様などの七つの御神徳を拝受する事が出来ます
※高天原遥拝所 宮崎県西臼杵郡高千穂町三田井
天孫降臨をした神々が高天原を遥拝したとされる場所であると伝える
高天原はどこにあるのでしょうか?
※四皇子峰(しおうじがみね)高千穂町三田井713
神武天皇とその皇兄弟 五瀬命、稲飯命、三毛入野命の四柱の降誕地
※高千穂皇神(たかちほすめがみ) 日向三代三夫婦の神
瓊瓊杵尊・木花開耶姫命、彦火火出見尊・豊玉姫命、鸕鷀草葺不合尊・玉依姫命
※十社大明神 神武天皇の皇兄・三毛入野命(みけぬの)とその妻子神9柱 三毛入野命妃神・鵜目姫(うのめひめ) 両神の御子神である高千穂太郎(たろう)、照野(てるの)、二郎(じろう)、大戸(おおと)、三郎(さぶろう)、霊社(れいしゃ)、畝見(うねみ)、浅良部(あさらべ)
荒立神社を後にして、高千穂神殿の高千穂神社に向かいます。
高千穂神社の駐車場に着いてビックリ。「わ」ナンバーのレンタカーがズラリです。外国人観光客の多さに驚きでした。
■高千穂神社
日向三代三夫婦の神(高千穂皇神)を、三毛入野命が高千穂宮に祀り、後に高千穂氏(後の三田井氏)が仕えています。明治初期まで宗社、明治4年には三田井神社として、明治28年には高千穂神社と改称。
天慶年間(938-947)に豊後国から大神惟基の長子の政次が当地に入り高知尾(高千穂)氏の養子となり高千穂氏を引き継ぐ。社伝によると同氏は当神社を高千穂18郷にわたる88社(高千穂八十八社)の総社と位置づけて崇めたという。
中世になると日向は土持氏の勢力となり、妻万(つま)宮(現・西都市の都萬神社)の管轄下にあったという。
高千穂神社 宮崎県西臼杵郡高千穂町三田井(神殿)1037
社頭「高千穂宮」
拝殿の手前には門守様がおられます
門神社 櫛磐窓命、豊磐窓命
拝殿奥
高千穂宮御由緒
当宮は初め高千穂皇神と申しあげて、この地に宮居をさだめられた天孫瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)、木花開耶姫(このはなさくやひめ)以下三代の神々をお祀りし、千百余年前の仁明・清和天皇両朝には、承和十年に従五位下,天安二年には従四位上の位を授けられたことが六国史に記されております。
神武天皇の御兄三毛入野命が御東征の途次、高千穂に帰られて日向御三代の神々をお祭りされたのが初めで、その子孫が長らく奉仕されて後には三毛入野命御夫妻と八柱の御子とを合祀して十社大明神の神名で親しまれ、古くより高千穂郷八十八社の総社として崇められてきました。
源頼朝は畠山重忠を代参として多くの宝物を奉納し、重忠手植の秩父杉は八百年を経た今も社頭高くそびえています。
文永弘安の役には勅使が見え、南北朝の頃、征西将軍懐良親王御祈願等、古記録や宝物も多数残っています。
天正年間、三田井氏が滅んで延岡領となりましたが、歴代藩主はそれぞれ社領を寄進し例祭には絶えず奉幣して明治に及びました。
大正十四年 秩父宮御成りをはじめ十数家の皇族の御参拝もあり、昭和四十六年七月一日別表神社に列せられました。
天孫降臨、神武天皇ゆかりの高千穂官は、今日では国運の隆昌と緑結び、交通安全、厄除けの神さまとして広く信仰されております
一部Wikiから
神武天皇東征後、三毛入野命が高千穂宮に帰られ、日向三代三夫婦の神(高千穂皇神)を、高千穂宮に祀られたのが初めで、後に高千穂氏(三田井氏)が仕えてきた。明治初期まで宗社、明治4年には三田井神社として県社、明治5年には高千穂神社と改め、明治6年には村社に下がった。(一方で、槵觸神社は明治6年に二上神社と改称。)
天慶年間(938-947)に豊後国から大神惟基の長子の政次(高知尾太郎政次)が当地に入り高知尾(高千穂)氏の養子となり高千穂氏を引き継ぐ。社伝によると同氏は当神社を高千穂18郷にわたる88社(高千穂八十八社)の総社と位置づけて崇めたという。
中世になると土持氏の勢力が入り、建久8年(1197)の『建久図田帳』では妻万(つま)宮(現・西都市の都萬神社)の社領中に「高知尾社八町」、地頭土持宣綱とあって、当神社は妻万宮の管轄下にあったようであるが、同じ頃、高千穂氏によって紀州の熊野信仰がもたらされたようで、その後、高知尾庄と呼ばれるようになった。
高千穂神社には田部・田尻・田崎といった神官がいた。
本殿の屋根には、外削ぎの男千木、九本の鰹木は伊勢外宮と同じです
宮崎神宮、宗像大社の鰹木は五本です
本殿向拝は四本柱の高良神社造りです
脇障子の鬼八伝説彫刻 三毛入野命が霜宮鬼八を退治する彫刻
脇社 脇社の神が本殿を守り、主祭神の神威も守ったとされる
脇社は五ヶ瀬町鞍岡の祇園神社、五ヶ瀬町宮ノ原の三ヶ所神社にありました
稲荷社として事勝国勝長狭神と大年神を祀る
本殿右手の「鎮石」
我が国で初めて伊勢神宮と高千穂宮が創建された際に用いられた「鎮石」と伝える。
鎮石は、第十一代垂仁天皇の勅命により、わが国で始めて伊勢神宮と高千穂宮が創建された際に用いられた鎮石だと伝えられています。
往古、関東の鹿島神宮社殿造営の際、高千穂宮から鎮石が贈られ、同宮神域に要石(かなめいし) として現存しています。
源頼朝公の代参として派遣された畠山重忠が手植えしたとされる秩父杉(ちちぶすぎ)
その樹齢は800年を超えるといわれる
拝殿左手の夫婦杉
拝殿左手の夫婦杉
荒立神社と四皇子社の合殿(境内摂社)
四皇子・神武天皇兄弟の四柱 五瀬命、稲永命、三毛入野命、佐野命(イワレビコ)
■三毛入野命と鬼八
三毛入野命と鬼八の存在には異論な説があるようです。
三毛入野命は、「記紀」に浪穂を踏んで常世国に渡ったとあるが、当地の伝承では、高千穂に戻り当時一帯を荒らしていた鬼神の鬼八(きはち)を退治、当地に高千穂宮を構えたと伝える。
※阿蘇市の霜神社の祭神・鬼八は大御中主命で、鬼八は正八幡神の大幡主となります。
正和2年(1313年)成立の『八幡宇佐宮御託宣集』巻2に、「高知尾(明神)」は神武天皇の御子である神八井耳命の別名で、「阿蘇(大明神)」の兄神であるとの異伝もあり。
※神八井命は正八幡神の大幡主となります。
『平家物語』巻8緒環段では、「日向国にあがめられ給へる高知尾の明神」の正体は「大蛇」で豊後緒方氏の祖神であるとしている。
※大蛇は健男霜凝日子であり、正八幡神の大幡主となります。
※百嶋神社考古学では、健男霜凝彦神と五瀬命は同一人物とします。 久住山の麓の久住神社(竹田市久住町久住)の祭神は、健男霜凝彦神、姫神ですが、健男霜凝彦神の天御中主神は大幡主、姫神は天照女神となります。
そして、彦五瀬命が追祀されます。
※久住神社に彦五瀬命を追祀する由緒
久住神社 大分県竹田市久住町久住6499
祭神 健男霜凝彦神 姫神
追祀 彦五瀬命
由緒 延喜式神名帳にある豊後国六座の中の直入郡一座小であるこの神社は、従来は往古から久住山頂の山神の姫神を斎祈した上宮と、桐迫村に農耕神・健男霜凝彦神を社祠した下宮を併祀した神社であった。 孝徳帝の大化元年(645)神武帝の皇兄彦五瀬命の心霊が紀州竈山神社から飛来して桐迫村宮田鉾の木に鎮座され、後朱雀帝の寛徳元年(1044)白丹南山城主・志賀義天が下宮の地にこれを勧請し、従来のまま、健男霜凝彦神社と尊称併祀したが、後奈良帝の天文2年(1533)平摩大明神と尊称。
後、天正14年(1586)島津兵乱以後仮宮であった頃は別に久住大明神とも尊称し奉ったが、霊元帝の寛文6年(1666)日守(現在の飛森)に遷座し、新宮を久住宮と尊称、肥後藩久住手水の氏神として崇敬され、その後、久住神社と改称、この地方一帯の人々の氏神として現在に至っている。
※五瀬命の心霊が紀州竈山神社から飛来して桐迫村宮田鉾の木に鎮座され、寛徳元年(1044)に正式に勧請されて、久住神社に追祀されます。
■鬼八伝説
荒木博之氏の「鬼八伝承をめぐって土蜘蛛と山姥」からです。
https://nippon.zaidan.info/seikabutsu/1998/00417/contents/003.htm
鬼八伝承をめぐって土蜘蛛と山姥 荒木博之
もうひとつ考えてみたいのは鬼八伝説である。鬼八については日向の高千穂地方と阿蘇地方に異なった二系統の話が伝えられている。高千穂地方に伝承されている鬼八伝説は概していうならば次のようなものである。
むかし、むかし、鬼八は山野を自在に駆け回って狩りを生業としていた異族の首魁であった。足の早さを物語るかのようこ、本当の名を「走健」といった。鬼八には阿佐羅姫という美しい妻があった。またの名を「鵜の目姫」というとあるから、鈴を張ったように目の大きなとび切りの美人であったのだろう。その阿佐羅姫に三毛沼命が横恋慕をした。命は四十四人の手勢をひきつれて鬼八を攻め、その身体をズタズタに切り離してしまった。しかし鬼八の身体は切られても切られてもすぐに元通りになってしまうので、首、胴、手足をばらばらにして別々のところへ埋めた。しかし鬼八の霊はときどき地下で目をさましてうなり、早霜を降らして農作物に害を与えるので「猪懸け祭り」を行って鬼八の霊を慰めるようになった。
鬼八には阿佐羅姫という美しい妻があった。またの名を「鵜目姫」という。
三毛入野命が鵜目姫に横恋慕し、鬼八は三毛入野命に成敗され、鵜目姫は三毛入野命の妻となり、後に、三毛入野命とその妻子神9柱は十社大明神として高千穂神社に祀られます。
鬼八の怨霊は霜を降らして農作物に害を与えるので、高千穂神社では「猪懸け祭り」を行って鬼八を慰霊し鎮めたという、哀れな鬼八さま。
これは、まるで、天照女神と神八井命と神沼河耳命との三角関係と同じです。
天照女神が鵜目姫、神八井命が鬼八の正八幡神大幡主となります。
鬼八伝説の鬼八と三毛入野命の戦いは、五瀬命(=鬼八=大幡主)と三毛入野命の一族間の争いではないか?
豊後では、鬼八は健男霜凝彦として好意的にみられていますが、日向高千穂では霜害の鬼八として悪者扱いです。三毛入野命と五瀬命は本当に兄弟なのか?
■二つの鬼八の慰霊祭
建武5年(1338)に肥後国の了観が著した「高千穂十社御縁起」では、
鬼八の祟りを鎮めるため、高千穂では乙女を捧げ、阿蘇では乙女が鎮魂の儀式を行います。
◎阿蘇霜宮の「火焚き神事」
鬼八の怨みによって六月の暑い時にも霜が降るようになった。そこで霜宮を建立して鬼八の霊を祀ることになった。鬼八は「鬼八申霜宮」として祀られ、十三歳以下の乙女が籤引きで祭事に奉仕(お添い寝という)、八月から九月(8月19日~10月16日)に及んで、毎夜、その塚の前に火を焚いて、霜害のないように祈祷を篭めるという
霜神社の長いお火焚きの間に火焚き乙女と神官の擬制的結婚が行われる。このお篭りには乙女の一人の祖母が必ず随伴するという。
さらに、霜神社の祭神は、天つ神七神とされ、古来北斗七星を祭るという伝承がある。即ち妙見信仰です。妙見神=北斗神=七夕神の大幡主です。
◎高千穂神社の「猪懸け祭り」
鬼八の霊魂を慰めるため、霜が降る頃に人身御供として16歳の乙女をささげていた。天正年間に領民思いの日之影岩井川城主甲斐宗摂により、乙女の身代わりにイノシシを供えるようになったとされる。
猪掛(ししかけ)祭(旧暦12月3日)
https://ja.wikipedia.org/wiki/高千穂神社
霜害を起こす鬼八(きはち)の慰霊のために始められたもので、かつては16歳になる生娘を生贄として捧げていたが、天正年間(1573-1593年)に、三田井氏の家臣で甲斐宗摂がこれを悪習と嘆き、高城山で巻狩を行って獲た16頭の猪(しし)を代わりに捧げ、以後、狩りで獲た猪を捧げるようになったと言う。
当日は町内3箇所の鬼八塚に氏子等が供物をするなどの慰霊祭を行った後、神社で笹振り神事を行う。笹振り神事とは、神前に1頭の猪を丸ごと供え、鬼八の魂を鎮める「鬼八眠らせ歌」を歌いながら、笹を左右に振る「笹振り神楽」を舞う。これによって鬼八は神へと昇華し、霜害を防ぐ「霜宮」に転生するという。猪掛祭は高千穂に伝わる夜神楽の原形とされ、最も古い古代祭祀の様式を伝えていると言われる。
鎮め歌「しのべや たんがん さありや さそふ まあどかや ささふり たちばな」
https://www.yukan-daily.co.jp/headline-news/news.php?id=90390
猪々掛祭一高千穂神社で古神事
神楽の原型一笹振り神楽を奉納 2021-01-16
高千穂町の高千穂神社(後藤俊彦宮司)で15日、鬼八伝説に由来する霜よけの神事、猪々掛祭(ししかけまつり)があった。氏子ら約30人が参列し、高千穂神楽の原形とされる笹振り神楽を奉納し、五穀豊穣などを祈願した。
猪々掛祭は、高千穂地方で悪行をしていた荒神の鬼八を、神武天皇の兄で同神社の祭神ミケイリヌノミコト(三毛入野命)が退治した伝説に由来する古神事。毎年、旧暦12月3日に行われている。
神事では7日に同町押方の山中で仕留められた約30キロのイノシシ1頭と、大小二つの木鉢に盛られた新穀を供えた神前で、後藤宮司らが笹振り神楽を奉納した。
三田井地区神楽保存会による太鼓と笛の音に合わせ、「しのべや たんぐああん さありやさそふ まあどかや ささふり たちばな」と唱える「鬼八眠らせ歌」を口ずさみながら両手に持った笹をゆったりと左右に振った。
高千穂神社で行われた猪々掛祭。
イノシシなどを供えた神前で笹振り神楽を奉納した
物部鎮魂法
足の裏を合わせたあぐらを組み、両手の指を組んだまま、左振り、右、前、後、中と体を振る。「ひ」で一回、「ふ」で一回、・・・「と」まで10回、力を込めて振る。
「一二三四五六七八九十」(ひふみよいむなやこと)と唱えながら、そのあとに「布瑠部由良由良止布瑠部」(ふるべゆらゆらとふるべ)と唱える。
「10回隈笹振り」神事も物部鎮魂法の一つではないか。
隈笹(くまささ)
イネ科の常緑の笹で、日本各地に自生。「熊笹」とも書きますが、正確には「隈笹」で、冬に緑の葉の縁が白色に隈取りされることから命名。ササの葉には、細菌や真菌、酵母などへの抗微生物作用があり、昔から「笹ずし」や「チマキ」に使用されている。
我が家の新緑の隈笹 2020.05.21 No.14
◎宗像の孔大寺神社の大蛇祭礼
乙女を大蛇に人身御供する祭礼が宗像の孔大寺神社(こだいし)にあります。(No.282)
孔大寺神社 福岡県宗像市池田梛野2515
「宗像大菩薩御縁起」から
※宗像大菩薩御縁起
孔大寺権現は、垂迹の時代は知れず、本地も秘密であり、大宮司意外はこれを伝えず。吉野蔵王権現と一体異名の神明なり。
この山頂に大穴あり、よって穴大寺と号す。上古の祭礼は、この穴から神明が白馬で現れたり、大蛇で現れて、半身を出して、祭礼を受けられた。古昔の祭礼は山頂の穴の口に高棚を造り、その上に生贄の乙女を据えた。
延暦21年、伝教大師が渡唐の時、ここを参詣して、法施をしてから、邪(蛇)神が現れぬようになった。それ以後、生贄は止めとなり、供養のため法華経一部の読誦が行われるようになったという。
その年の日向国でも、その役に当たり、鍾愛(かわいい)息女が生贄に備え、法華経を信仰し読誦していたところ、白髪の老翁が現れてこれを聞き、その後、蛇神が現れても害をしなくなったという。
法華経の読誦によって、大蛇神が害をしなくなって、人身御供祭礼が無くなったのは救いです。
乙女を大蛇に御供する祭礼の基本は八岐大蛇(ヤマタノオロチ)神話と似ている所があります。このような伝説は、宮崎県の高千穂神社の猪掛祭に似ています。高千穂五ヶ瀬と宗像は、古代から祭祀でつながっています。
江戸時代までは、孔大寺神社境内に千手堂なる御堂があったとされ、この御堂に千手観音菩薩が祀ってありました。この観音像は鎌倉時代の正安3年(1301年)に宗像大宮司長氏が仏師僧定盛に制作させ、孔大寺権現に安置したという。明治の神仏分離令以後、宗念寺裏山の梅谷寺に移されています。千手観音は天照女神の本地です。
孔大寺(こだいし)祭祀とは、天照女神と大幡主を祀り、天照女神は乙女役としての千手観音、大幡主は大穴大蛇役の悪者として祀られています。
記紀のヤマタノオロチ神話でも、大幡主は八岐大蛇役の悪者として扱われています。
阿蘇神話では、大幡主は鬼八に置き換えられて、悪者扱い。
国譲り神話でも、大幡主は大国主に置き換えられ、那国を天孫に譲られる弱者役です。
どうして、大幡主は悪者扱いにされるのでしょうか。倭国の礎を築かれた大幡主、しかし邪魔者扱いです。ヤマト王権は大幡主を消したくてたまらない存在なのです。
■もう一つの高千穂神社
先の大戦後まもなく、宮崎の高千穂神社で修業を積まれた宮司 森谷鉄五郎氏よって千葉県佐倉市に、高千穂神社が創建されました。千葉県佐倉市です。かの有名な佐倉惣五郎の地です。
※佐倉惣五郎(さくら そうごろう)
江戸時代前期の下総国佐倉藩領の義民として知られる人物。下総国印旛郡公津村(現在の千葉県成田市台方)の名主で、本名は木内 惣五郎(きうち)。領主堀田氏の重税に苦しむ農民のために将軍への直訴をおこない、処刑されたという義民伝説で知られる。代表的な義民として名高い。(Wikiから)
その佐倉惣五郎の記念碑と霊廟が佐賀県(旧)七山村馬川の馬川神社の境内後ろ(東)にあります。(神社は「No.291 阿蘇の神々 宮崎五ヶ瀬町鞍岡の冠八面大明神」にて紹介しています) 訪問当時は境内を廻り、記念碑を読むのに精一杯で、その写真を撮ることを忘れていました。ここ高千穂神社の件で記憶がよみがえるとは、何の導きでしょうか。佐倉市と七山馬川は大幡白族でつながっているのかもしれません。
https://hiracat.com/karatsu/manokawa-sogo-reidoh/
馬川宗吾靈堂 佐賀県唐津市七山馬川 2024.12.21
こちらの馬川神社はJR筑肥線浜崎駅の東方およそ12kmの距離、山間部を通る国道323号線を玉島川沿いに上った佐賀県唐津市七山馬川地区に鎮座されます。
馬川神社のすぐ東に隣接する境内入口には幟杭と幟竿が建立され、境内入口の石段を上がると正面には立派なフジが生えており、その奥には頭貫に龍の細工が施された方行屋根の社殿が建立されています。
祀られているのは江戸時代の義民佐倉惣五郎(本名木内惣吾郎)。佐倉藩の苛政に苦しむ農民を救う為、自分の身を犠牲にして将軍に直訴したことに感服した村人が、馬川郷の発展を願い明治22年に代表者を贈り宗吾霊の御分霊を勧請したそうです。
創建のときに植えたフジも大きく成長し、その藤棚は隣接する馬川神社の境内まで延びて「宗吾郎フジ」として親しまれ、開花の時期には多くの人で賑わうといいます。
馬川宗吾霊堂 分霊縁起 (案内板)
今を遡ること三百三拾有余年前、寛永より承応年間に亘り、佐倉藩(現在の千葉県印旛郡)国家老による暴政により、領民は極度の重税に苦しめられ、百姓一揆の様相を呈した。
この時、割元名主であった木内惣吾郎は、各名主を叫合し、佐倉代官屋敷や佐倉藩の重役に減税の願いをしたが取り上げられず、遂に意を決して四代将軍家綱公への直訴を決行、願書御取り上げの結果、直訴の積みに問われ承応三年(1653年)旧暦八月三日公津ヶ原刑場に於て惣吾郎様は磔、お子様四人は打首の惨刑に処せられ領民の為に殉せられました。
のち佐倉藩主堀田正亮公は失政を悔い宝暦二年(1752年)百回忌の折、宗吾道閑居士の法号を諡され以来木内惣吾郎は宗吾様と呼ばれるようになった。
明治になり時代の進展に伴い義民宗吾様の犠牲的大精神は日本全土に伝えられた。
この宗吾様の赤心義胆の報に接した馬川郷の人々は沈滞せる農民の意志を鼓舞し、馬川郷の発展を願い、明治二十二年(1889年)代表者を千葉県佐倉に送り、宗吾霊の分霊を勧請し、堂宇を建立して現在地に祀る。
のち農民の守護神として毎年の命日(旧八月三日)には部落民こぞって盛大に供養を営み今日に至る。尚、分霊の折、境内に植えた藤が百年の大木となり、藤の季節には見事な花を咲かせ、遠来からの藤見の客で賑わっている。
高千穂神社 千葉県佐倉市中志津4-16-27
(写真は「千葉まほろば神社」から https://chiba.jinja.love/?p=16422)
祭神 「日向三代」の三柱と「十社大明神」の十柱
由緒 当神社は西暦1949年10月宮崎県西臼杵郡高千穂町官幣大社高千穂神社にて、初代宮司森谷鉄五郎氏が、二十有余年の修行を積み、神のお告げにより、病める人、悩める人、農を営む者には豊穣を告げ、商を営む者には繁昌を告げ、数多くの人を助け、又九州高千穂神社に、物心、両面の援助をし、九州高千穂に於いても、数多くの人を助け、生神様と崇められ、茲に唯一の分社、下総国志津ヶ峰に、上記御祭神を祀り、建立す。
1949年10月、宮崎の高千穂神社で修業を積んだ初代宮司 森谷鉄五郎氏よって創建された宮崎 高千穂神社の分社、鳥居は天照女神の両部鳥居、神額は天照女神の型式です。
すると、鵜目姫(うのめひめ)は天照女神か?
あれ、あれ、あれー
祭神表記は宮崎の高千穂神社と同じですが、神社構造は天照女神・大幡主の二神祭祀です。
槵觸神社は本来、「二上神社」「二神神社」であり、二神祭祀だったのです。
高千穂神社も本来は「二上神社」「二神神社」であり、二神祭祀だったのでは?と思ったのです。
幣立神宮(神漏岐命・神漏美命)
槵觸神社(邇々杵命・木花開耶姫)
荒立神社(猿田彦命・天鈿女命)
高千穂神社(瓊々杵尊・木花開耶姫) (彦火々出見命・豊玉姫)
これらの高千穂(チホ郷)の神社は、倭の御祖神(伊勢両宮)の男女二神を祀る二神神社が基本なのではないか、と思うのです。
二神神社を紹介する「ヒルコのブログ」(イザナギ、イザナミの橋本のたちばなの翡翠と鬼八)の一部を紹介し、次回は「二神(二上)神社」です。
※ヒルコのブログ
https://hama-sush-jp.pro/ringo03080515/entry-12888078905.html
イザナギ、イザナミの橋本のたちばなの翡翠と鬼八 2025-02-28
祭祀をするには、十分すぎるほど良き場所。この雲の上は、とても珍しい鉱物が採れたり、資源が豊富。五瀬命の名が残る、ヒルコのイザナギ、イザナミの橋本の橘が祭祀をするには最高の場所となる。
五瀬命の名が残る五ケ瀬川も膨大なる水がある。五ケ瀬川の雲の上には、ヒルコのイザナギ、イザナミの祭祀の神域がある。雲の上で祭祀をし、太陽と月が、さんさんと降り注ぐ高天原。
桑野内の五ヶ瀬ワイナリから阿蘇岳を望む
ヒルコ一族の目の前には、阿蘇山がある。マグマがグツグツ言えば、すぐわかる位置にあり、この雲の上なら、阿蘇から狼煙があがっても、すぐわかる。
ヒルコの桑野内の地から見える阿蘇山のむこう側が筑紫。そして、福岡県宗像である。宗像には沖ノ島がある。古代から、ヒルコ一族の橋本と宗像は、祭祀で交流をしていたのだろうか。
ヒルコ一族は、遠い遠い遥か古代から、雲の上にて、近親交配にて血を守り、五瀬命の橋本のイザナギ、イザナミの祭祀をしてきた。血を守りぬくのは、必須であるから恐ろしい。 遥か古代から、アメノウズメの鈴ちゃんの時代まで『橋本』の『たちばな』の血を大切に守りぬいてきた。それは、なぜなのか。
五瀬命の名が残る五ケ瀬の橋本の橘の血。そして興呂木の血。
遥か古代から、雲の上で移動することなく定住している橋本と興呂木。
崖の雲の上で、ヒルコ一族の橋本の血を欲しがるのには、理由があるのです。
あの神域の雲の上の崖の上で、五瀬命の橋本の橘のヒルコ一族は、秘密に隠され、生存してきた。『翡翠』のような、綺麗な黄緑色の『目』をした子には『霊力』が宿る。その目を絶やしてはいけない。その血を絶やしてはいけない。
古代から昭和まで、古代から日本各地の王族の地には、天孫降臨の二上山の橋本の橘の名残りが残っているのかもしれない。霊力を持つ橋本の橘の血と目。
橋本の橘では、イザナギ、イザナミの祭祀を古代からしている。
そこには、鬼八伝説がある。宮崎県高千穂の猪かけ祭り。
『しのべや たんぐあぁん さありや さそふ まあどかや ささふり たちばな』
鬼八を鎮める唄。この呪文のような謎な唄の最後に『たちばな』とある。
高千穂と五ケ瀬は、昔昔から神様争いをしていたと、橋本の口伝にある。橋本の橘の桑野内には、御神楽がある。高千穂のししかけ祭りをする霜月。橋本の宣命状でも、霜月と書かれている。
でも、橋本の橘の翡翠の目をした娘は、なぜか高千穂には、嫁に行っていない。
霊力がある翡翠の目をした『たちばな』は、他の地には嫁っているが、真隣りの高千穂にはいない。なにより、『橋本』の『たちばな』の『翡翠の目』の娘を、高千穂に嫁入りさせなかったのかもしれない。
霊力の『たちばな』の血がなければ、祭祀はできない。御神楽も祭祀も、である。
石も翡翠も勾玉も祭祀に使うには、霊力をもつ、翡翠の目をした橋本の血が必要だったのかもしれない



































