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No.294 熊本県(旧)知保郷の幣立神宮①

 
宮原誠一の神社見聞牒(294)
令和7年(2025年)12月01日
 

宮崎県高千穂方面へ再訪問です。
訪問の準備はしていましたが、なかなか訪問の機会がなく、意を決して、11月13日に設定したら、娘夫婦が代行運転をしてくれるという助け舟に乗って実行となりました。もはや、私一人の遠方への単独行動は不可であり、助かりました。日帰りにて、11か所を訪問するハードな計画となりました。
まず訪れたのが、宮崎高千穂の入り口となる熊本県山都町の幣立神宮(へいたて)です。現在の所在は山都町ですが、平成の合併前は「熊本県旧阿蘇郡蘇陽町」です。和名類聚抄(和名抄)の往古では、肥後国・阿蘇郡・知保(ちほ)郷です。
「ちほ郷」が宮崎県にもありました。宮崎県にあるのは日向国・臼杵郡・智保(ちほ)郷です。現在の西臼杵郡高千穂町、五ヶ瀬町、日之影町が比定されます。

 

※和名類聚抄の日向国・臼杵郡・智保郷

肥後国・阿蘇郡の四郷
波良、知保、衣尻、阿蘇
知保(ちほ)郷は、熊本県の旧上益城郡清和村、旧阿蘇郡蘇陽町、高森町

熊本県上益城郡山都町
2005年2月、旧上益城郡矢部町、旧清和村、旧阿蘇郡蘇陽町が合併して誕生した。
幣立神宮の現在の所在は熊本県上益城郡山都町で、旧阿蘇郡蘇陽町にありました。

日向国の五郡
臼杵郡、児湯郡、那珂郡、宮埼郡、諸県郡
日向国・臼杵郡の四郷
氷上、智保、英多、列田


智保(ちほ)郷は、現在の西臼杵郡高千穂町、五ヶ瀬町、日之影町が比定される
平安期以降、日向国では荘園化が進み、智保郷は高千穂荘と呼ばれ、江戸時代まで続いた。高千穂地方を支配した豪族は三田井氏祖先(後に大神姓高千穂氏) と古代山部氏の興呂木氏とされる。三田井氏は950年頃、家系が絶え、大神惟基の長男政次を養子に迎え高千穂太郎を名乗り、高千穂荘は高千穂氏が戦国期まで支配した。

知保郷、智保郷と漢字は違えど、広域同一地域の「ちほ郷」となります、この地域は本来「高千穂」と言ったのかもしれません。好二字令により「高」を取り智保(ちほ)郷になったようです。



当日は午前11時頃までは小雨のあいにくの天気ですが、決行です。幣立神宮に着いた頃は、雨は上がりましたが、曇りの天気で、山頂部には雲がかかっています。恐らく、阿蘇山も二上山も望めそうもないとの想定でした。良き運転手に恵まれ、11ヶ所を訪問でき、最後は、午後5時前に高千穂町押方の二上神社に着き、参拝を終えて帰宅につきました。この二上神社では、神様から思わぬ歓迎の待遇を受けての感激でした。


最初の訪問神社・熊本県山都町大野の幣立神宮

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1 幣立神宮 熊本県上益城郡山都町大野712
2 二神神社 宮崎県西臼杵郡五ヶ瀬町桑野内(中山)6051
3 橋本家. 宮崎県西臼杵郡五ヶ瀬町桑野内(中山)5332
4 五ヶ瀬ワイナリ 宮崎県西臼杵郡五ヶ瀬町桑野内4847-1
5 古戸野神社 宮崎県西臼杵郡五ヶ瀬町桑野内(横通)4668
6 三ヶ所神社 宮崎県西臼杵郡五ヶ瀬町三ヶ所(宮の原)8736
7 高天原神社 宮崎県西臼杵郡高千穂町押方4332
8 槵觸神社. 宮崎県西臼杵郡高千穂町三田井713
9 天真名井. 宮崎県西臼杵郡高千穂町三田井472
10 荒立神社. 宮崎県西臼杵郡高千穂町三田井667
11 高千穂神社 宮崎県西臼杵郡高千穂町三田井1037
12 二上神社. 宮崎県西臼杵郡高千穂町押方(小谷内)2375‐1
13 芝原神社. 宮崎県西臼杵郡高千穂町押方3371-3
14 桑野内神社 宮崎県西臼杵郡五ヶ瀬町桑野内(土生)36

※芝原神社、桑野内神社は次回の訪問予定


最後の訪問神社・高千穂町押方の二上神社

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※番号は一致しません

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幣立神宮
熊本県上益城郡山都町大野712
社伝によれば、
神武天皇の孫である健磐龍命が、阿蘇に下向した際、この地で休憩し眺めがとても良い場所であると、幣帛を立て天神地祇を祀ったという。
その後、延喜年間(901-923年)、阿蘇大宮司友成が神殿を造営し伊勢両宮を祀り幣立社と号した。
天養元年(1144年)には、阿蘇大宮司友孝が阿蘇十二神を合祀し大野郷の総鎮守とした。 今の蘇陽町、清和村、高森町、五ヶ瀬町、高千穂町一帯はかつて知呆(ちほ)郷と呼ばれていました

 

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一の鳥居「幣立神宮」

 

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二の鳥居「幣立神宮」

 

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阿蘇神社の「違い鷹羽」紋の灯籠

 

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両部鳥居の二の鳥居「幣立神宮」、両部鳥居は天照女神を祀ります

 

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額縁の型式は天照女神を祀ります「高天原・幣立神宮」

 

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手水舎横の由緒板
大日本史に見える知保の高千穂嶺が当宮の所在地である。筑紫の屋根の伝承のように、神殿に落ちる雨は東西の海に注いで地球を包むので、高天原日の宮の伝承をもつ国始めの尊宮である。古来天神地祇を祭った神籬(ひもろぎ)は、日本一の巨桧(きょひ)として厳存する。
神武天皇のご発輦(はつれん)の原点で皇孫健磐龍命(たけいわたつのみこと)は勅命によって天神地祇を祭られた歴史がある。なお、祭神は神漏岐命(かむろぎのみこと)、神漏美命(かむろみのみこと)及び大宇宙大和神(おおとのちおおかみ)、天御中主大神(あめのみなかぬしおおかみ)、天照大御神(あまてらすおおみかみ)など、最高の神をお祭りしてある。

※高天原(たかまのはら)を名乗るには、天眞名井に相当する聖井泉がないといけません
天眞名井所在の神社
赤司八幡宮 福岡県久留米市北野町赤司1765 蚊田の渟名井=天眞名井
槵觸神社. 宮崎県西臼杵郡高千穂町三田井713 瑠理井(たまのい)=天眞名井
眞名井神社 京都府宮津市中野905 與佐の真名井
宝満宮竈門神社上宮 福岡県太宰府市内山883 益影の井
宗像中津宮 福岡県宗像市大島1811 天眞名井
市比賣神社 京都府京都市下京区河原町五条下ル一筋目西入 天之真名井
上津守神社 鳥取県米子市淀江町高井谷52 天の真名井
眞名井社. 島根県松江市山代町84 真名井の滝
出雲大社. 島根県出雲市大社町杵築東真名井 真名井の清水
真名井社. 和歌山県田辺市本宮町本宮 真名井(閼伽井)
. . . 熊野本宮大社の末社 祭神・天村雲命

 

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拝 殿

 

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拝殿の神額「幣立神宮」、額縁の型式は天照女神を祀ります

 

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拝殿内の旧神額「幣立社」



幣立神宮(へいたてじんぐう)
熊本県上益城郡山都町大野712
日の宮 (ひのみや)ともいう
祭神
創祀 神漏岐命、神漏美命(御祖神 みやおやのかみ)
追祀 天御中主神、天照大御神(伊勢両宮)
追祀 阿蘇十二神
由緒
社伝によれば、神武天皇の孫である健磐龍命が、阿蘇に下向した際、この地で休憩し眺めがとても良い場所であると、幣帛を立て天神地祇を祀ったという。
その後、延喜年間(901-923年)、阿蘇大宮司友成が神殿を造営し伊勢両宮を祀り幣立社と号した。
天養元年(1144年)には、阿蘇大宮司友孝が阿蘇十二神を合祀し大野郷の総鎮守とした。

 

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拝殿左横の彫刻「龍」

 

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さらに左横の彫刻「鳳凰」と「牡丹と獅子」

これらの彫刻「龍」「鳳凰」「牡丹と獅子」は天照女神と大幡主の祭祀を意味します

 

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拝殿右横の「伊勢の内宮」

 

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更に奥の拝殿右横の「伊勢の外宮(左)」と
「東の宮(右)」祭神は「日の宮」の初代神官・天児屋命(あめのこやねのみこと)

 

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伊勢の外宮

 

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拝殿左横の「」祭神・応神天皇・健磐龍命

 

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更にその左横の太神宮(水波能賣神・日子八井命)

これからすると、太神宮の祭神は、
内宮・水波能賣神=天照女神
外宮・日子八井命=正八幡神大幡主
となります。
由緒では、延喜年間(901-923年)、阿蘇大宮司友成が神殿を造営し、伊勢両宮を祀り幣立社と号した。
その祭神は「天御中主神と天照大御神」とあります。
これからすると、伊勢神宮の祭神は、
内宮・天照大御神=天照女神
外宮・豊受大御神=天御中主神=正八幡神大幡主
となります。

 

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拝殿左横はお祓い依頼者の控え室のようです

 

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控え室の額(後ろは太神宮)

 

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境内社太神宮の立て看板
幣立神宮が鎮座する地はちょうど九州の屋根(九州山地及び阿蘇山)の分水嶺にあたるため、神殿の屋根に降る雨は東は五ヶ瀬川に注ぎ太平洋へ、西は緑川へ流れ東シナ海へと通じている。 そして、幣立神宮には樹齢一万五千年と伝えられるヒノキの巨樹がそびえ、神宮周辺には、縄文の太古から生き続けているような大木がうっそうと茂っている。

 

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更に奥のヒノキの巨木

 

高天原 日の宮・幣立神宮について(熊本県観光サイトなごみ紀行)
http://kumanago.jp/benri/terakoya/?mode=104&pre_page=6
幣立神宮の春木宮司は「阿蘇開拓の主、健磐竜命は神武天皇の孫に当ります。日向国から五ヶ瀬川に沿って三田井(高千穂)、馬見原を通って草部に入られました。このとき一羽の白鳥が幣立神宮へ案内しました。命は御幣(ごへい)を立てて奉祀されたので「幣立神宮」の名が起こったといわれています。でも、それは偶然の結果といったものではありません。命はこの地が高天原(たかまがはら)・日の宮であることを知っており、阿蘇開拓に情熱を注がれたのもこの"神代の神都"の備えを固めるためです。ここに伝承の背後に秘められた歴史の真実があると思うのです」と語る。

※延岡から急流の五ヶ瀬川に沿って登って高千穂に入るのは容易ではありません。九州西岸の八代市宮原氷川から氷川を登り、緑川美里に出て幣立、馬見原へのルートが現実的と思うのですが。

 

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※やよい語(カムロミ・カムロキ、オモダル・アヤカシコネ)
カムロミ 目に見えない世界
カムロキ 目に見える世界
オモダル 産みの男根の神、多細胞
アヤカシコネ 産みの女陰の神、遺伝子
参考 萩原継男「弓前文書は天児屋根からの伝言です」から


※日の少宮(大幡主)、日の若宮(天照女神)、合わせて日の宮(ひのみや)
幣立神宮の由緒を見ると「阿蘇大宮司友成が神殿を造営し、伊勢両宮を祀り幣立社と号した」とあります。その祭神は天御中主神と天照大御神、と書かれています。また「日の宮」といっています。これだけで、伊勢両宮は天照女神(内宮)、大幡主(外宮)を祀るとわかります。




太神宮の祭神・天御中主神と天照大御神
幣立神宮の由緒では、延喜年間(901-923年)、阿蘇大宮司友成が神殿を造営し、伊勢両宮を祀り幣立社と号した。その祭神は「天御中主神と天照大御神」とあります。
これからすると、伊勢神宮の祭神は、
内宮・天照大御神=天照女神=大日孁尊(おおひるめ)→ 日女(ひるめ)
外宮・豊受大御神=天御中主神=正八幡神大幡主 → 日子(ひるこ) → 蛭子(えびす)
となります。

天御中主神は、幣立神宮では男神となります。
天御中主神を祀る有名な神社が熊本県八代市に八代神社(妙見宮)としてあります。妙見宮の本宮と言われています。



八代神社(妙見宮)
熊本県八代市妙見町405
祭神 天之御中主神、国常立尊

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妙見由来 妙見神は聖なる北極星・北斗七星の象徴なり。
百済滅亡により百済王族が九州亡命の折、霊符神(妙見神)を奉斎し、天武天皇白鳳9年(680年) 八代郡土北郷(白木山)八千把村竹原の津に上陸し、宇城市小川町南海東(小園)に霊符神社を創立。
その3年後、火の君の世話により白鳳11年(682年)益城郡小熊(隅)野村千代松峯(白木平)に移り、さらに約90年後の758年、八代市妙見町2151-6に遷座。これが現在の霊符神社である。その時、孝謙天皇天平宝字2年(758)、八代妙見神上宮が八代郡横嶽ノ峯に鎮座。桓武天皇の延暦14年(795)、国司桧前(ひのくま)中納言政丸により三室山横嶽に社殿創建。
妙見神を八代に持ち込んだのは、百済滅亡時の百済王族と言える。



さらに、妙見宮の妙見神とは、本来、天照女神を指します。天照女神は菊理姫・白山姫です。 北辰とは北極星のことで、北辰の神は天照女神(天照皇大神)です。
北斗とは北斗七星のことで、北斗の神は大幡主(豊受大御神)です。
現在は、北斗の神が妙見神で、妙見菩薩とは七曜の星(北斗七星)となっています。つまり、妙見神は大幡主となっています。いつから逆転したのでしょうか?

熊本県の八代神社(妙見宮)の祭神は天之御中主神、国常立尊となっていて、天之御中主神は天照女神(北辰)、国常立尊は大幡主(北斗)です。この神社では天之御中主神は女神です。いつから、天之御中主神は男神に変わったのでしょう?




天真名井(あめのまない)と天の川
北斗七星は七夕星であり、高天原には天眞名井があります。
天眞名井があり、これから流れる川を天の川として扱い、七夕神を祀る神社があります。
福岡県宗像大社の大島の中津宮です。
さらに、七夕神に関連して,妙見神の由来が姫許曽神社にあります。

ここ大島の中津宮では、天孫降臨と天眞名井で、天照女神と大幡主がかかわり、
七夕神では、織女神が天照女神に、牽牛神が大幡主として関係します。
宗像辺津宮の本来の祭神が、天照女神と大幡主(高宮)であることを考えると、
天御祖神(あまつみおやのかみ)はイザナギ・イザナミではなく、天照女神と大幡主が御祖神となります。

宗像大社中津宮 福岡県宗像市大島1811

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天真名井(あめのまない)と天の川

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中津宮の天の川

 

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中津宮の天真名井(あめのまない)

 

福岡県北野町の赤司八幡神社の止誉比咩縁記
天孫降臨の時、天忍石(あめのおしほい)長井の水を持降り、天牟羅雲命(あめのむらくものみこと)を使い、その元(はじめ)の水を日向の高千穂藤岳山の神代川瑠理井(たまのい)と筑紫の道中の神代川蚊田の渟名井に遷す。天祖の神の教を言壽鎮曰(ことぶきよざして)、道主貴に進供(そなえまつり)き。これにより、御井の縣の名が起こりけり。
又、丹波の與佐の真名井石井(いわい)に移し鎮め、以て豊食神の饌水(とよけのかみのみけのみず)に献(たてまつ)りぬ。



天孫降臨の折、天忍石(あめのおしほい)長井の水を持降り、筑紫の蚊田の渟名井(ぬない)に遷された方が天牟羅雲命(あめのむらくものみこと、別表記の天村雲命)です。「天忍石長井」は「天眞名井」、「蚊田の渟名井」は「潟の渟名井」とも表記されます。
蚊田の渟名井は現在では益影井(ますかげのい)と称し、福岡県北野町の大城小学校の校庭南隅に廃井として保存されています。
天村雲命は正八幡大幡主で、別名、天忍穂根命(あめのおしほね)で、大根(おおね)の神です。

大島中津宮の天の川と織女神社と牽牛神社
天真名井を水源とする天の川をはさんで、織女神社と牽牛神社が対面鎮座です。

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織女神社(左)、右は牽牛神社への階段



福岡県小郡市大崎に七夕神社(媛社神社)として、佐賀県鳥栖市に姫古曽神社(ひめこそ)として、七夕神が祀られています。姫古曽神社と小郡市大崎の媛社神社(ひめこそ七夕神社)の関係が肥前風土記(730年頃)の記述にあります。(No.211) ※小郡市の七夕神社の古名が媛社神社

 

肥前風土記
この郷の中に川があり、名を山途川(やまぢ)という。その源は郡の北の山から出て、御井の大川と合流する。(今の媛社郷の東を流れる山下川に千歳川と合流する)
昔、この川の西に荒ぶる神がいて、路行く人の多くが殺害され、死ぬ者が半分、死を免れる者が半分であった。そこで、この神が祟る理由を尋ねると、「今筑前国宗像郡の珂是古(かぜこ)にわが社を祭らせ、もしこの願いがかなうなら凶暴な心はおこさない」とあった。珂是古は幡を手に持ち祈祷し、「誠にわが祀りを欲するならば、この幡は風のままに飛んで行き、わが願う神のもとに落ちよ」といい、そこで幡を放した。すると、その幡は飛んで往き、御原の郡の姫社の杜に落ちた。(今の三井郡大崎なり)
また、旗は帰って行って姫方の地に落ちた。
その夜、珂是古が寝ていると夢に機織りの道具が舞うのを見て、これが女神様であることを知った。そこで社を立てて祭ると旅人は無事に通れるようになった。これ姫社神社のことなり。
※朝鮮語で「社 やしろ」のことを「こそ」といった



七夕神社、姫古曽神社の創立に、筑前国宗像郡の珂是古(かぜこ) がかかわっています。
この肥前風土記の記述が云わんとすることは、鳥栖市姫方の荒ぶる神が、ここに私(大幡主)を祀り、御原郡大崎の姫社神社に織女神(天照女神)を祀れと頼んでいるのです。
鳥栖市の姫古曽神社の古宮は天照女神(織女神)を主祭神に大幡主を祀ります。
珂是古が幡を飛ばした所は鳥栖JCTの南西の所でした。(山下川のそばの墓地)
幡が飛んだ先が小郡市大崎の媛社神社であり、戻り幡の地が姫方の姫古曽神社付近と鳥栖市幡崎の幡崎神社の宮総代から説明を受けました。
筑前国宗像郡の珂是古は大島中津宮の七夕神社とも関係するのでしょう

福岡県筑前町では、草場川を天の川に見たて、下高場の太神宮は七夕織女神(天照女神)を、小隈の元大神宮は七夕牽牛神(大幡主)を祀ります。

大幡主を祀る神社には、臥牛の銅像あるいは石造が置いてあります。神社は天満宮とも重なり、
天満宮の菅原道真公と牛が、縁があるようにされます。
筑後地方の古い天満宮は大幡主を祀る高良社が、後に天満宮に置き換わりました。それで、菅原道真公と牛が関係するように見られますが、牛は、本来、大幡主の象徴です。
大幡主は七夕牽牛神であり、牛馬の守護神の荒神様でもあるのです。(No.252)

小郡市の七夕神社 福岡県小郡市大崎1

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一の鳥居は「媛社神社」、二の鳥居は「磐船神社・棚機神社」



姫古曽神社 佐賀県鳥栖市姫方町189

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七夕神社の別名・姫古曽神社
福岡県小郡市大崎の七夕神社は媛社神社(ひめこそ神社)です。
佐賀県鳥栖市の七夕神社は姫古曽神社(ひめこそ神社)です。
漢字は違いますが、「ひめこそ」が共通です。
「ひめこそ神社」として有名な神社が大分国東半島の周防灘に「比売語曽社」としてあります。

 

比売語曽社
大分県東国東郡姫島村5118
祭神 比売語曽神
祭神の比売語曽神について、『日本書紀』では、垂仁天皇の時代に、意富加羅国(おおからのくに。現在の朝鮮半島南部にあった)の王子の都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)が、白石から生まれた童女(阿加流比売神)に求婚すると、美女は消え失せ、都怒我阿羅斯等が追いかけると日本に渡り、摂津及び姫島に至って比売語曽社の神となったと伝えている。このうち、姫島の比売語曽社が当社であり、摂津の比売語曽社は大阪府東成区の比売許曽神社であるとされる(ただし、後者については異説あり)。
また、比売語曽神については他に、三上氏の系図には天津彦根命の娘の比売許曽命(息長大姫刀自命)、新羅王の子天之日矛の妻、新羅王波沙寝錦の妃、大己貴命の女である下照姫命、辛国息長大姫大目命、真野の長者の娘の玉依姫(般若姫)などの諸説がある。また、宇佐神宮の祭神のうちの比売大神を比売語曽神とする説もある。Wiki


同様の由来が、福岡県香春町の現人神社にあります。

 

現人神社 福岡県田川郡香春町採銅所1797
祭神 都怒我阿羅斯等命 追祀 原田五郎義種尊
由緒 第一の大神は意富加羅国(おおから大伽耶)の王子で、垂仁天皇の時代に新羅の姫神(比咩語曾神)の後を慕ってこの地に御鎮座しました。
第二の大神は筑前三笠城主原田次郎種直公13代の子孫で、香春岳城主でしたが、永禄4年(1561)豊後大友義鎮に攻められ討ち死にしました。没後、この里に疱瘡、疫痢が流行した時、神霊のお告げ「今より阿羅斯等神の許に鎮まり猿を使いとして万民を救う」があり、現人大神と合祀しました。それ以後、この地方に流行の疱瘡が治りました。
往古より武運長久、疱瘡又は小児に多い「ちり」と言う病を守護する大神で、綿布の「くくり様」は諸病退除のお守りです。


「古事記」では、天之日矛命と阿加流比売で語られています。
鳥栖市小郡市の七夕神社としての「姫こそ神社」の祭神は、市杵島姫(天照女神)と正八幡神(大幡主)で、豊前の「ひめこそ神社」の祭神は、都怒我阿羅斯等(天之日矛)と阿加流比売神(天照女神)です。
福岡県香春町の香春神社、現人神社、古宮八幡神社の祭神からは、
阿加流比売=豊比咩=息長大姫大目命=天照女神、
都怒我阿羅斯等=正八幡神大幡主となります。(No.242・243・244)

要は、大伽耶の都怒我阿羅斯等(大幡主)と阿加流比売(天照女神)の物語に行き着くのです。

 

香春(かわら)とは
香春は高良であり、香春神社は高良神社です。
高良玉垂神社の祭神は、天照女神(玉垂大神)と八幡神大幡主(高良大神)となります。
高良神社は甲羅神社、高羅神社とも書きます。甲羅は亀、高羅は鷹とヤタガラスに関係します。香春岳の廻りに展開する神社群は水沼の君(みぬまのきみ)が深く関わっています。


すると、大伽耶の都怒我阿羅斯等(大幡主)と阿加流比売(天照女神)の物語は、加羅伽耶の金首露王と王妃の許(ほ)黄玉に関係します。(No.250)

 

金官伽耶
大伽耶高霊郡の背後にある伽耶山の女神である「正見母主」と天神「夷毗訶 イビガ」とから二人の兄弟が生まれ、兄(悩窒朱日)が大伽耶の始祖となり、弟(悩窒青裔)が金官伽耶の始祖となる金首露王(しゅろおう)です。
首露王の王妃が許(ほ)黄玉で、48年にインドアユタ国から船に乗って伽耶に至り、首露王の妻になります。許氏のルーツはインドのアショカ王の家系であり、その時にアユタ国から石塔と鉄物を持参したという。許黄玉は息子十人と二女を生み、長男は金海金氏(金官伽耶)となり、二人の息子は許氏を名乗り、金海許氏の祖先となり。(Wiki)

「駕洛国記」によると、許黄玉は48年16歳で結婚し、49年太子の居登王が生まれたという。許黄玉の船で一緒について来た兄のアユタ国王子「宝玉仙人(長遊和尚)」は首露王に仕えるのではなく、洛東江を遡った伽耶山を修行の場所とします。首露王には十男二女の子供がいたが、宝玉仙人はその中の七人の王子を呼んで伽耶山中にて修験者の生活を一緒に送った。その七人はこの地で成仏し、それを知った首露王がここに「七仏寺」を建立したという。伽耶山に海印寺ができたのはずっと後の時代です。
許氏を名乗った一人の息子は長遊和尚の養子になったという。また、娘の妙見王女も、この地で修行に励んで「妙見信仰」の祖になったと伝えられている。

海印寺
住所:大韓民国 慶尚南道 陜川郡 伽倻面 海印寺キル 122
山号 伽耶山
本尊 毘盧遮那仏
創建 802年(新羅哀荘王3年)
開基 順応、理貞



大伽耶(金官伽耶)の話からすると、大伽耶には許黄玉の兄の宝玉仙人(長遊和尚)、その養子の許氏王子と妙見信仰の祖になった妙見王女の許黄玉の二人の子供がいることになります。
「ひめこそ神社」の伝承から、
長遊和尚が高木大神、その養子の王子が都怒我阿羅斯等の大幡主、妙見王女が阿加流比売の天照女神と想定するのです。この大幡主と天照女神が大伽耶高霊(高天原)から九州に降臨されたのが、天孫降臨ならぬ天族降臨ではないのか、と思うのです。そこが日本でいう「高天原」となります。
長遊和尚(宝玉仙人)も福岡県糸島のある神社におられた形跡があるのです。


話を元に戻して、
「ひめこそ神社」の「こそ」は「古曽」「社」「語曽」が使用されていますが、本来の文字は「許曽」ではないのかと。


※「許曽」がつく神社
比売許曽神社
大阪府大阪市東成区東小橋3丁目8-14
主祭神 下照比売命(=天照女神)
社伝では、垂仁天皇2年7月に愛来目山(あくめやま、現・天王寺区小橋町一帯の高台)に下照比売命を祀り、「高津天神」と称したことに始まると伝えられる。顕宗天皇の時代に社殿が造営されたという。
※高津姫は瀧津姫であり、天照女神です。

許曽志神社
島根県松江市古曽志町松尾466
祭神 猿田毘古命(=大幡主)、天宇受賣命(=天照女神)

波牟許曽(はむこそ)神社
大阪府東大阪市長瀬町1丁目10-9
祭神 天照皇太神
927年に編集された延喜式神名帳に東大阪市は彊刀神社・波牟許曽神社の他枚岡神社等、16社が記載される。諸本には共にハムコソと呼んでいる。
伴信友(神明帳考証)に《蛇草》と書いて今如何に唱うのか知らねど波牟久佐(ハムクサ)とか波美久佐とか唱えるべき也。云々と考証して河内誌に記載す。
所在地についても地名から社名が出来たと説明している。

波牟は蛇を指し、許曽は社なので、要するに蛇の社です。

蛇神は天照女神です。姫許曽神社は天照女神を祀る神社となります。
大伽耶の妙見王女を天照女神とみるのです。
「許」は許黄玉・天照女神、「曽」は大幡主と解します。




足一騰(一柱騰)坐像(あしひとつあがり)
福岡県久留米草野町矢作の日吉神社では、
祭神を「大幡主、天照女神」とする「御魂神社」がありました。
日吉神社の合祀神殿には三柱の神が鎮座です。
三神を見ると、草野家の家紋、「十二日足紋」が台座に打たれています。ということは、この神社の建立には草野家が係わったとみることができます。(No.287)

 

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中央が大山咋神、左の大幡主の服は黒色で、下の着は赤であり、身分が高いことがうかがえます。右が天照女神であり、朝鮮式の坐り方で「片足膝立て」坐像(足一騰坐法)をされています。
この生活習慣から、天照女神は大伽耶の妙見王女と推察するのです。