No.268 日田市の石井神社は天照を祀る天神社③
宮原誠一の神社見聞牒(268)
令和7年(2025年)02月17日
石井神社 大分県日田市石井町一丁目182-1
日田盆地入り口の三隈川(筑後川)左岸(南)旧石井郷石井村に、止波宿禰(とばすくね)を祀る石井神社(いしい)が鎮座です。由緒によれば、延喜11年(911)郡司大蔵永弘公が刄連(ゆきい)郷田島村の会処宮(神祠)を石井郷剣納山(けんのう)に移し、社殿を創立したという(豊西記)。 前回の記事(No.266)の会所八幡神社の解析と今回の石井神社を考察し、会所八幡神社を天神社(てん じんじゃ)と理解しました。石井神社も基底は天神社です。
天神社(てん じんじゃ)
祭神
日天(大幡主) =大己貴(おおなむち)=土神・黒龍神
月天(天照女神)=大日孁貴(おおひるめむち)=大巳貴(おおなむち)=蛇神・白龍神
※「貴 むち」という称号は「倭国の宗廟神社」という意味であり、大日孁貴、大巳貴、道主貴(みちぬしむち)がありますが、全て、天照女神の尊称です。
■石井神社 大分県日田市石井町一丁目182-1
天照の太鼓橋に見えるのですが
扁額「石井大明神」鳥羽大明神ではありません
楼 門
楼門の屋根には「亀甲に梶」紋
拝 殿
拝殿前上部の「梶の葉」紋に書かれた石井大明神、鳥羽大明神ではありません
梶の葉は七夕に関係します、天照女神と大幡主の象徴です
壁の彫刻は「波」ばかりです
拝殿の奥、左には鬼瓦の拓本と龍の絵(天照)、右には虎の絵(大幡)
改築以前の鬼瓦の拓本、「梶の葉」が描かれています
向拝の虹梁に相当部分(右)に鯉の彫刻
左にも同様に鯉の彫刻、鯉は天照女神の象徴
手前の境内社は天神社
本殿屋根の棟には「亀甲に梶」紋、
亀甲紋は大幡主の神紋です
梶の葉
※梶(カジノキ)
バラ目・クワ科・コウゾ属・カジノキと分類され、近縁種には「楮(コウゾ)」があり、梶の木からも和紙の繊維原料を採取することができる。
乞巧奠(きっこうでん)は、織姫(織女)にちなんで、機織りや手芸、詩歌の上達を願う行事で、宮中などで行われる際に、願い事の短冊に使用したのが梶の葉であった。
「大幡主が天照大神の御手を引いて、西九州から東九州の宇佐に遷し奉ったと云う物語は、何か牽牛と織女の七夕祭のはるか以前の神話ではなかったかと想像されます。」真鍋大覚
大幡主と天照女神は七夕の牽牛と織姫の関係にあったという、それどころか、夫婦であった。
本殿の屋根には外削ぎの男千木、三本の鰹木
本殿右側の天女の彫刻、天照女神を祀る本殿によくある彫刻です、三保の天女は天照女神
本殿左側の天女の彫刻、下左は高砂、下右は牡丹の彫刻
本殿の正面
扉には「梶の葉」抜き紋、「梶の葉」は織姫の天照女神の象徴です。
神額は「石井大明神」で、額縁の形式は天照女神の神額です。鳥羽大明神ではありません。
左に虎(大幡主)の彫刻、中に力神、右に獅子(天照女神)の彫刻。
神殿内の祠も三殿です、中央に鳥羽(止波)宿禰を、左右に大幡主、天照女神を祀ります。
神額は「石井大明神」で、鳥羽大明神ではありません
力神
日本の神話の神様、天手力男神(アメノタヂカラオ)、天手力雄とも書きます。
力神というのは山車や神社仏閣の社殿の縁下や軒下などで建物を支えている神様。
石井神社の力神は力士型と邪鬼型というのだそうです
■石井神社の境内社
境内社に四社ありますが、石井神社本殿を支える神社です
本殿右横の天神社、石祠も同様に天神社
左の天神社の扉は抜き桃紋と三星紋の透かし彫りです
天神社(てん じんじゃ)の祭神
日天(大幡主) =大己貴(おおなむち)=土神・黒龍神
月天(天照女神)=大日孁貴(おおひるめむち)=大巳貴(おおなむち)=蛇神・白龍神
拝殿の左にある境内社・日月神社(につげつ神社、又は、ひつき神社)
祭神は天神社に同じ、日天(大幡主)と月天(天照女神)
拝殿の前に二本の「松の木」です
拝殿前の二本の「松の木」は、恵蘇八幡宮(福岡県朝倉市山田166)
朝倉の天満宮(福岡県朝倉市上朝倉)にもあります。
朝倉の天満宮は熊野権現と天神社も兼ねています。
恵蘇八幡宮 福岡県朝倉市山田166
拝殿前には二本の松の木です、神紋は「三巴紋」
朱の欄干は誰を祀る!
恵蘇八幡宮と会所八幡宮の神紋は「三巴紋」の同じ神紋
恵蘇八幡宮=会所八幡宮→よそ(えそ)はちまんぐう
祭神をどんな名に表記しようとも、
朝倉山田の恵蘇八幡宮と日田の会所八幡宮は同体の神社です
日佐津媛神社は天照女神を祀る上宮、
会所八幡神社は正八幡大幡主を祀る下宮となります、後に、日佐津媛を合祀
日佐津媛神社と会所八幡神社を合わせた神社が石井神社です
石井神社の拝殿左横にある境内社、日月神社の後ろの特別区にあります
扁額は「惟神」
鳥居「惟神」の奥には天満宮の石祠です
※惟神「かんながら・かむながら」
鳥居の扁額は「惟神」。
鳥居の扁額としは、珍しい宮号、神号です。
1.神道関係者であれば、「かむながら」と読まれ、「神の御心のままに」と解される。
「惟神霊幸倍坐世」(かんながら、たまちはえませ)→「神の御心のままに」
「祓え給い、清め給え、神ながら守り給い、幸え給え(さきわえたまえ)」
惟神の道(かんながらのみち)→神道の別名。随神道とも書き、「神意のまま」
2.阿蘇の神様、阿蘇家に知識のある人は、「阿蘇惟人 あそこれひと」だなと。
阿蘇氏の名前の通字は「惟」、阿蘇神に「阿蘇惟人」がおられる。
これは阿蘇氏の神社だなと思われるでしょう。
3.前二者でない人は、「これかみ」又は「いのかみ」と読める。
「いのかみ」→「伊の神」→「倭の神」→「倭国の御祖神」→ 天神様(てんじん)
鳥居の先奥には石祠です。天満宮です。
天満宮だから、祭神は菅原道真公と決めつけてはいけません。
菅原神社であれば、ほぼ、祭神は菅原道真公でいいでしょう。
天満宮には、古宮の先神の天神様がおられ、その後に菅原公が中座に祀られます。
天神社の祭神は、日天様と月天様です。抜き桃紋を持っておられます。
天神社(てん じんじゃ)の祭神
日天(大幡主) =大己貴(おおなむち)=土神・黒龍神
月天(天照女神)=大日孁貴(おおひるめむち)=大巳貴(おおなむち)=蛇神・白龍神
朝倉の天満宮は、中座に梅鉢紋の菅原道真公、左右の座に抜き桃紋の日天様と月天様です。
よい神社の例が、上朝倉の某天満宮です。
中座に(略)梅鉢紋の菅原道真公、左右座に(略)抜き桃紋の日天様と月天様です。
月天様は女神で、右足ひざ立の足一騰(あしひとつあがり)の坐像です。
朝倉の天満宮 福岡県朝倉市上朝倉
拝殿前には二本の松の木です
本殿内の神殿
■三星神社=三島神社=三光神社
「島」は「星」の意味です。
九躰神社 福岡県みやま市高田町岩津901
九躰神社ですので、久留米市山川町の高良御子神社と思われがちですが、九躰王子神社ではあません。写真は本殿正面です。写真をくまなく良くみてください。由緒の祭神名も無理に付けられた感がします。石井神社本殿正面とそっくりです。違うのは扉の透かし彫り紋(天神社)が違うだけです。
写真を撮った人の感想です。
「祭神三柱の意味をずっと考えていました。何故?夫婦なのに二柱じゃないのか?天照を両方からサンドイッチみたいに守る型にしているみたいです。」
「なるほど!だったら納得。他の神社もそうなっている型が多いです。二柱だと夫婦だとバレルから、敢えて三柱にして混乱させるのが狙いなのか、手がこんでいます」
「ほとんどの神社が、二柱祭祀なのに、春日大神を追加して三柱祭祀としています。柳瀬神社も天照女神を祭祀しているのに、主祭神に、住吉大神、春日大神の女神を配祀して分からないようにしています。旧三輪町の大巳貴神社もそうです。大幡主と天照女神を祭祀しているのに、春日大神を追加しています。」実際に春日大神を追加しても間違いありませんが、手がこんでいます。
久留米市山川町の高良御子神社は、別名、九躰王子神社です。
名前と由来書からして、九人の王子を祀る神社と思いがちです、私も昔はそうでした。が、実際は違います。確かに、本殿には九柱の神様が祀られていますが、王子(男)は三人です。
高良御子神社 福岡県久留米市山川町596-1
※参考 福津市の宮地嶽神社の祭神は天照女神と大幡主です。
安倍丞相(じょうしょう)→大幡主
息長足比売命. →天照女神(勝守大神、勝門姫、勝土姫)
勝頼大神(藤高麿)→朝日豊盛命→大幡主=明けの明星
勝村大神(藤助麿)→暮日豊盛命→天照女神(勝村姫)=宵の明星
※稲員家は坂本命の末裔
広川町郷土史研究会の稲員家文書によると、稲員氏は高良大明神の神裔を称し、延暦21年(802)草壁保只が山を降って、三井郡稲数村(現在の北野町稲数)に居住したことにより稲員(稲数)を姓としたという。
正応3年(1290)鎌倉幕府の下知により、稲員良参(よしなが)が上妻郡古賀村(現在の広川町新代)に移り館を構え田戸70町を領している。
正応5年(1292)稲員良参は、坂本命を祭り坂本宮(現在の高良坂本神社、広川町古賀区)創立し坂本命を祀っている。古賀村に坂本神社を創立する以前、すでに高良大明神が祀られていたという。さらに、天正16年(1588)から寶暦2年(1753)の165年間、稲員家は大庄屋を勤めている。
日田盆地にも三星神社(三島神社)があります。神社は小山(三隈三山)の上にあり、日田盆地が冠水した時は、三島に見えたことでしょう。
豊後国志
遙か昔、山々に囲まれた日田盆地は大きな湖であったが、東から大鷹(おおたか)が飛んで来て、湖の上を飛びまわり北に向かい去ると、突然と地震が鳴り動いて、昼間であるのに夜のように暗くなり、西の崖が崩れ裂け、水が抜けて涸渇すると、平野となって、3つの丘が向かい合うように立ち、水の痕は川として残った。その南の丘を日隈(ひのくま)、北の丘を月隈(つきくま)、西の丘を星隈(ほしくま)、川を三隈(みくま)、その地を日鷹(ひたか)といった。
豊西記(ほうせいき)
日は陽精なり、故に南にあるをもって日隈と号す。月は陰精なり、よって北にあるを月隈と称す。太白星(金星)は西に出づ、故に西にあるを名付けて星隈という。
日隈神社 大分県日田市庄手601
祭神・春日大神
月隈神社 大分県日田市丸山二丁目3
祭神・稲荷神
星隈神社 大分県日田市友田二丁目1950−1
祭神・太神宮
神名を改めて
日隈神社
祭神・天照女神(春日神)、大幡主(日天、武甕槌)
月隈神社
祭神・天照女神(月天、月姫)
星隈神社
祭神・天津甕星(富香香背男=大幡主=明けの明星)
偶然の一致か! 日隈(日天) 月隈(月姫) 星隈(甕星) の位置が、七夕星と天の川(花月川 かつきかわ)に対応するのです。
この三星神社を三隈神社とするならば
恵蘇八幡宮=会所八幡宮=石井神社=三隈神社
が成り立つのです。
佐賀県で、御神体に「三星紋」の神紋を付ける神社があります。鹿路神社(神埼市脊振町)と葛城神社(みやき町天建寺)です。
佐賀県神埼市脊振町鹿路(ろくろ)に桂木(かつらぎ)があり、一言主命を祀る鹿路(ろくろ)神社があります。葛城一族が佐賀から奈良の葛城に移動したのではないかと思わせる神社で、「この桂木には甲羅(高良)と云う地名も残っていた」と云われ、「甲羅」は天皇の后がお住まいになる集落であると云う。由来記では、神社創立は826年、村人の霊夢に大和国葛城の一言主が青衣を着て現われ、我を祀れという。夢告の地を訪ねると石上に青色の神像石があり、葛城明神として祀った。後に鹿路神社と改称。そして、村名も瀧の上村から葛城村と変えています。
鹿路神社 佐賀県神埼市脊振町鹿路253
祭神:一言主神
葛城神社 佐賀県三養基郡みやき町天建寺
祭神:一言主命・仁徳天皇他
摩利支神社 福岡県宗像市東郷一丁目6−16
祭神:天之御中主大神(摩利支天) 葛城一言主神(一言主は天御中主と同一神とされています)
創建は飛鳥時代の中期の朱鳥5年(691)、時の宗像大領の秋恵氏が、郡の中央の地の東江郷(現在の東郷)に「天之御中主大神(摩利支天)」及び「葛城一言主神」を奉齊し「摩利支神社」と称するようになったのが始まりとされる。
※天之御中主神=葛城一言主神=大幡主 となるのです。
■石井神社由緒
石井神社由緒 境内案内板
石井は古代の郷駅が置かれた土地で、この石井神社も日田では大原八幡宮に次ぐ由緒のある神社である。
大和朝廷が諸国に国造をおいたとき、鳥羽宿祢が日田国造となり、三芳の会所宮に庁を設けたと伝えられるが、後に日田郡司大蔵永弘が宿祢をこの石井神社に祀ったという。
また当社の神宝である同鉾は、嘉禄元年(1225)に津江山の住人が掘出したと古書に記したものと思われ、長さ77.5糎、幅7糎の中広銅鉾である。昭和50年3月、日田市指定有形文化財に指定されている。 日田市文化財調査委員会
鳥羽(止波)宿禰は成務天皇の御世に、日田国造に任じられ、田島村に居住し農耕を教え、住民と親しんだとあり、鳥羽(止波)宿禰が没した後、百姓はその徳を懐かしんで神祠を建て祀ったという。延喜11年(911)郡司大蔵永弘公が刄連(ゆきい)郷田島村の会処宮(神祠)を石井村に移し、社殿を創立したという(豊西記)。
※「豊後国志古蹟」では、寛平2年(890) 郡司大蔵永弘が石井村に遷した、となっている
高倉芳男氏の「会所八幡宮雑考」からです
豊後国志 古蹟 会処宮
在刃連郷田島村、豊日誌曰、成務天皇五年、乃命鳥羽宿禰、為日田国造、居干靭連、常会民庶、以教耕之事、遂名共居、曰会所宮、是也、今按其地、在田島村、蓋田島田始之義訓也、豊西記曰、足尼既卒、百姓懐其徳、立祠干此祭之、後移石井郷、今石井祠是也
仝 神祠 石井神祠
在石井郷石井村、祭日田国造止波宿祢、初在田島、
寛平二年(890) 郡主大蔵永弘 移干此、安元二年(1176)、大蔵永英再修焉
「豊後国志 会処宮」現代訳
刃連郷(ゆきいのさと)に田島村あり。
豊日誌にいわく、成務天皇五年、鳥羽宿禰(止波足尼)が日田国造となり刃連に住み、常に住民と会い見えた。そして農耕の事を教え、住居する所の名を会処宮という。今案ずるに、会処宮の地は田島村あり。「田島」のことは「田始り」のことであり、日田に初めて水田が開かれたことと解釈。
豊西記にいわく、鳥羽宿禰が没した後、百姓はその徳を懐かしんで神祠を建て祀ったという。寛平2年(890) 郡司大蔵永弘公が刄連郷田島村の会処宮(神祠)を石井村に移し、社殿を創立したという。安元2年(1176)、大蔵永英が営繕修理をおこなった。
※「農耕の事の教え」とは、稲作と解しました。さらに、畑には、ブドウ、ビワ、ウリ、カブ等の栽培を教えたのかもしれません。
豊西記(ほうせいき)
石井源大夫大いに喜悦し、帯ぶる所の宝剣を以って、大虚に向って、之れを拠つ(略)野中に落つ、依って此の山を名づけて、剣納山と号す、石井大明神の社地是れなり、石井大明神は、当郡の本たるに依って、郡内の祭祀は、石井より始まると(延喜11年(911)の項)、永享3辛亥年(1431)、石井大明神の社殿を重建(大蔵永秀の項)。
豊西説話(ほうせいせつわ) 森春樹(江戸後期)
豊後風土記に曰 昔日 磯城嶋宮御宇 天国排広庭天皇之世 日下部の君等祖 邑の阿自仕えて奉靭部 其邑の阿自玖就於 此造宅居之因 斯名曰 靭負村 後人改曰 剱編郷中有川 曰玖珠川 今謂日田川は是也(刃連郷は靭部郷ならんか)
北村の惣社会所宮は天安2丁丑年(858) 仲哀天皇 神功皇后 応神天皇を崇祭る 此社古は山上にあり 西向なり 今も山上に御拝石残れり 又同所に遠見塚御腰掛石と云あり(何人の御腰掛石なるや不詳)昔は大社にして 今の御宮より三丁程下も畑の中に楼門の跡残れり 後 今の宮地ヘ移し奉(昔は玖珠川上井手村より刃連村会所宮の前通り流れ下は中磯川に入る北川を神楽川と号く 其路を今古川通りと云)
(御宮の前すこし上の畑の中に木森あり 古しえ御祓の有りし跡なりと云)
比多国造止波宿祢の後 持統文武の御代ころ迄も 此郡を領しいたりけんか 尤 国造は既に云如く国守にひとしとあれば 任の限りあるものなるべけれど すべて制法は後の代程と委しく成たれば 成務の御代当りはさほどなくて同天皇の四年任せられて其ままに子孫玄孫ここを領したりしとも思わるるなり
国造の宅は予考るに 今の会所宮の地なるべし 其拠は同社の伝に曰 昔神功皇后 此に下り給ひ三韓退治の軍評定し給ふとて 諸の神集し給ひし地なりと云えり 此説笑ふべきに似たれ共 将に拠なきにしも非す 是を弁せんには先宿祢の宅会所宮と極て宿祢其宅に其迄存命して居たりとし(成務四年より仲哀9年迄56年になればなり)
宿祢皇后の韓国を攻給ふ御軍に加わらん其評議の為 諸の強卒を集し故 則 皇后の成り給ひしと後人の心得違か 又は例のなまさかしき人のさかしらなるか 是も又強く云ば 宿祢は都より下りし人なれば 皇后もよしみ思召て 彼の宅に人給ひしともせん 然共 何にもせよ皇后の来り給ふ謂なし
尚会所宮の地に宅を構えし拠を云は 其地に近き田嶋村に今隈町は在りし也 是上古より日田の町也 是一つの拠
又今石原坂の南の山間に倉ヶ迫と云名存在せり 是昔の官庫の跡なるべし 是二つの拠なり 又其辺に七曹子と云地名あり 是も里民の上にて号べき称に非す 是三つの証なり
尤も 是は後の代の称号なるべけれども試みに云而己
造領記巻上 森春樹 天保3年(1832)
次の天皇 志賀高穴穂宮御宇稚足彦命(成務)の五年乙亥秋九月 止波足尼を比多国造となし給ひき 宿祢は葛城国造同祖なり 宿祢ここに下り来て 会処山の西の麓に家造りて 此国を知たりき(略)皇后気長足姫尊 韓国を征給ふ時(略)三の韓国を従へなびけて還御の後 宿祢はここにかへりて民をいつくしみ深あはれみ広く恵みけるによりて 其徳をあふき貴ひて えそ山の祠とあがめ 年こと月毎怠らざりき
春樹曰(略)足尼の祖 考出し国地なれば こゝに来られしもよし 有に似たり止波と云は地名なるべし大和国に鳥羽云々地名有
豊西説話では、
鳥羽宿禰(止波足尼)の住居地を、今の会所八幡神社の地としているが、この地の近くの田嶋村に今隈町があり、古代の町なので、ここも候補の一つかと言っています。
また、「鳥羽宿祢は葛城国造同祖なり」とあります。
鳥羽宿祢は葛城国造と先祖が同じなのか?
葛城の祖は大幡主であり、葛城一言主も大幡主です。
さらに進めれば、鳥羽宿禰(止波足尼)は大幡主ということになります。
■鳥羽宿禰(止波足尼)と大原足尼
会所八幡神社がある刃連村(ゆきい)の北隣が田島村で、そこには日田の大原八幡宮があります。しかし、日田の大原八幡宮の祭神に大原足尼命は見当たりません。
ところが、福岡県苅田町新津の大原八幡神社が、文正元年(1466)、苅田町の大原八幡神社の主祭神を日田の大原八幡宮から(焼失により)勧請とあります。よって、日田の大原八幡宮は大原足尼命を祀っていることになるのです。文正元年(1466)時点での日田の大原宮の八幡神は豊国主の大幡主です。
日田の大原八幡宮略記まとめ (No.160)
白鳳九年(680)、日田市天瀬町馬原の岩松ヶ峯に八幡大神が降臨、鞍形尾神社創立
慶雲元年(704)、鞍形尾の八幡大神、求来里村の杉原元宮へ遷座
仁寿元年(851)、大蔵永弘が初代日田郡司職に任ぜられる
貞觀13年(871)、大蔵永弘が社殿を新設し、杉原元宮から神来町の元大波羅神社に遷座
延喜15年(915)、大蔵永弘が比賣大神、息長足姫命を勧請し、大波羅八幡宮(元大波羅)と称す
建久4年(1193)、大友能直が大波羅八幡宮の拝礼形態を鶴岡八幡宮の拝礼形態に改める
文正元年(1466)、苅田町大原八幡神社焼失再建に、八幡神を日田の大波羅八幡宮から勧請
寛永元年(1624)、日田藩主石川忠総が神来町の元大波羅神社を現在地の田島に遷座
明治6年(1873)、「元大波羅神社」を「元大原神社」と号す
(寛永元年(1624)以前の大原八幡神は大幡主と一貫しています)
大原八幡宮 大分県日田市田島二丁目184
祭神:誉田別命、息長足比売命、比売大神
南鳥居前の駐車場に許黄玉(天照女神)の石塔
豊の国造の大原足尼(おおはらすくね)が新津に港を造り大いに栄え、没後、塚を造り祭る。さらに、京都地方を治める物部氏が祖先神として、港の正面の恩塚山に改葬し氏神として祭る。大原足尼を物部の祖・天火明命(饒速日)の10世の孫としています。
福岡県神社誌では、文正元年(1466)、苅田町の大原八幡神社の主祭神(誉田別命)は日田の大原八幡宮からの(焼失により)勧請とありますが、文正元年(1466)時点で、日田の大原八幡宮の祭神・誉田別命八幡神はまだ存在しません。苅田町の大原八幡神社の主祭神は大原足尼命であり、日田の大原八幡宮の祭神に大原足尼命が祀られていたことになります。
さらに、境内社の大々式稲荷神社にも大幡主、饒速日命、大原足尼命です。(No.157)
大原八幡神社 福岡県京都郡苅田町新津1427
祭神:大原足尼命 追祀:饒速日命、応神天皇、仲哀天皇、神功皇后
由緒 大原足尼命が神功皇后の御代、豊前・豊後の国造として、民を安じ徳望あり、特にこのころ新津に港を造り公私船舶往還の港となり大いに栄える。命が亡くなれると住民は、この徳を慕い大字新津字祖父墓の地に命の塚を造り祭る。
日田の石井神社では、鳥羽宿禰(止波足尼)は農業で住民に貢献し、慕われ、没後、石井大明神として祀られています。一方、苅田町の大原八幡神社では、大原足尼は海運で住民に貢献し、慕われ、没後、大原足尼命として祀られています。
由緒の年代は、古代の年代ですから、あまり信用できませんが、物部の祖・天火明命(饒速日)は正八幡神の大幡主で、日田大原八幡宮の祭神と一致します。しかも、大幡主は稲荷の神であり、航海の神であり、働き方としても一致します。
日田の石井神社、神来町の元大波羅神社は大蔵永弘公が創立しています。
大蔵永弘公が祀る神は同一と想定します。
これらから
※鳥羽宿禰(止波足尼)=大原足尼=正八幡大幡主 となるのです。














































