No.263 阿蘇の神々 小国両神社の神

 
宮原誠一の神社見聞牒(263)  
令和6年(2024年)12月03日  
令和6年(2024年)12月7日追記
 

阿蘇北谷の国造神社の祭祀線は、
国造神社・阿蘇神社・高岳が直線に並びます。高岳は鷹岳であり、大幡主の山です。阿蘇神社の北鳥居は国造神社に、南鳥居は阿蘇高岳に向いているという。要は阿蘇神社の祭祀線は大幡主を祀る祭祀線であり、国造神社と阿蘇神社は同系統であり、国造神社が阿蘇神社よりも古いということになります。

国造神社 熊本県阿蘇市一の宮町手野2110
小国両神社 熊本県阿蘇郡小国町宮原1670
二神神社 宮崎県西臼杵郡五ヶ瀬町桑野内6050

阿蘇の小国両神社は阿蘇系神社で最高格の神社です。正式名称は
宮原両神社(みやのはるりょうじんじゃ) で、国造神社と同様に高橋神(たかはし)、火宮神(ひのみや)を祀ります。
宮原両神社の祭祀線は、
宮原両神社→国造神社近くの尾篭村片隅村→阿蘇根子岳→五ヶ瀬町中山の二神神社
です。
阿蘇根子岳を通って、宮崎県五ヶ瀬町中山の二神神社に向かいます。
逆に、二神神社は阿蘇根子岳を通って宮原両神社に向かうことになります。

 

百嶋先生講演 2011年4月23日
阿蘇の国造神社の国造をクニノミヤッコなんて読んだらぺけですよ。コクゾウです。国造神社は阿蘇のお宮として別派をなしていらっしゃいます。本当は阿蘇の健磐龍(タケイワタツ)よりもこちらのほうが上なんです。阿蘇の健磐龍はずばりいって悪いことばっかりやっているんです。桁違いに阿蘇家よりも格式が高いのは国造神社のほうです。
ところが、そっち(速瓶玉)は秘密の秘密、完全に秘密化されて、その秘密化されている代表が阿蘇小国両神社です。とにかく阿蘇小国両神社は完全にフタをされています。小国の神様、阿蘇小国両神社は堂々たるお宮です。


宮原両神社の社殿は上益城郡甲佐町の甲佐神社に向かいます。

 

甲佐神社
熊本県上益城郡甲佐町大字上揚882
主祭神 八井耳玉命(ヤイミミタマ、甲佐明神)
配 祀 健磐龍命、蒲池比咩命(カマチヒメ)
    神倭磐余彦命、媛蹈鞴五十鈴媛命(ヒメタタライスズヒメ)

※八井耳玉命は速瓶玉命の別名
甲佐神社は阿蘇神社の二の宮とされ、健軍神社、郡浦神社とともに阿蘇四社とも言われますが、格付けは後世のものであり、宮原両神社が阿蘇関係では最高格の神社です。

甲佐こうさ(熊本県)日本地名大辞典
「甲佐」は、中世以来の地名、南北朝期には見える益城郡「甲佐」。地名は、阿蘇本社領の末社領で、甲佐大明神を祀る甲佐神社が鎮座することに因む地名とされる。古くは「高佐」とも書く。

国造神社を中軸(22.7度国造神社線)に、阿蘇神社と霜神社が阿蘇山を挟み、八坂神社と竜王社が平行四辺形に配置されています。『古代「火の国」の象徴「炎のピラミッド」の発見』図15(炎のピラミッドの全体図)から抽出

 

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宮原両神社の駐車場に車を着けた所が宮原祇園神社の前でした。まずは宮原祇園神社から参拝です。

宮原祇園神社
祇園神社は京都の八坂神社を御本社とし広峯神社とも称されます。
大洪水で社殿が流されたため江戸時代の元禄10年(1697)この地に再建されました。
主祭神は「素盞鳴尊」で疫病除け・悪例退散祈願の神社として尊敬されています。
七月に行われる「宮原祇園祭」は神々に疫病や災厄防止を祈願し日々の安全を願う神事で住民の組織である「宮原町内会」で運営されております。(案内板から)

 

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同じ敷地に、宮原両神社の上宮ととれる多賀神社を中に両脇に天神社と祇園神社が鎮座です。 そこから西に向かい、神門の前を通り向けて、西口の鳥居を出ます。西口の鳥居が本来の入り口です。鳥居の内側には、大きい大幡主の六角灯籠があります。

 

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左奥は西口の鳥居(横参道)、中央は神門

 

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境内から見る西口の鳥居(横参道)、手前に大幡主の六角灯籠

 

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外から見る西口の鳥居、扁額「両神社」、ここが本来の入り口

 

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正面の鳥居に向かいます

 

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宮原両神社の境内図

『古代「火の国」の象徴「炎のピラミッド」の発見』から
南阿蘇村八坂神社の田尻盛永宮司著

 

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小国両神社(宮原両神社)
熊本県阿蘇郡小国町宮原1670

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宮原両神社の正面

 

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堂々たる神門です、扁額「小国宮」

 

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拝 殿

 

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神紋「抱き鷹羽に上り藤」
藤は天照女神と大幡主の象徴木です

 

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本殿 左手は「高橋宮」、右手は「火宮」

配置からすると火宮(大幡主)が上位です。向拝は六本の柱です。現在の本殿は大正初期に山の斜面を削り移築されたもので、本来の本殿は、現在の拝殿があった所にありました。その現在の拝殿前に本来の拝殿があった。

 

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宮原両神社の由緒略記案内板


正式名称は宮原両神社(みやのはるりょうじんじゃ)で、国造神社と同様の高橋神(たかはし)と火宮神(ひのみや)と雨宮媛命を祀ります。ここ小国町宮原(みやのはる)は水と火の国です。
祭神の高橋神は水神の天照女神であり、火宮神は別名・速日神であり、「饒」を頭に付ければ、饒速日命(にぎはやひ)となり、火神の高宮の正八幡大幡主です。
社伝由緒略記によれば、雨宮媛(あめみやひめ)も祀られています。雨宮媛神は郡浦神社の主祭神の蒲智比咩(かまちひめ)と同体であり、海神の女神であるという。

 

肥後国志の由緒
高橋神は仁徳天皇御代、高橋山に鎮座す、依って高橋神の称あり。
火宮神は反正天皇御代、莚田に鎮座。
仁徳帝御宇、神童児に託して曰く、我は此の高橋山の主也、若し我を崇敬祷祭せば、国泰く民平らかに、風雨時に節(かな)い、五穀豊穣なるべしと。是に於て里人祠を建て云々。
又郷の南地獄と云ふ所有。往昔田中に水有りて湧出す。或いは火燃え上がり、沸騰熢焞たる事あり。反正帝御宇、火宮神 少女に託して曰く、我は此の地 獄田の霊気也、高橋大明神と一体分身なり。宜しく並せ祀るべしと。因って祀を建つ云々(旧社及肥後国志)


阿蘇神話では、健磐龍命は高橋神・火宮神の祖父神にあたり、国造神社(阿蘇市一の宮町手野)に祀られる速瓶玉命と雨宮媛命が父母神とされ、雨宮媛命は小国に住む神で、手野の速瓶玉命と結婚したと伝わります。
これらの神々の関係は、神社由緒略記案内板では次のようになっています。

神武天皇
 ↓
神八井耳命(かみやいみみ)
 ↓
健磐龍命(たけいわたつ 阿蘇大明神) (后・阿蘇津姫)
 ↓
速瓶玉命・雨宮媛命(阿蘇国造大神)
 ↓
高橋神・火宮神(両神社主祭神)

国造神社と同じ流れですが、速瓶玉神(はやみかたま)は火神の高宮大幡主です。「速」「瓶」は建甕槌命(大幡主)に、「玉」は許黄玉、玉垂命(天照女神)に関係します。
雨宮媛神は郡浦神社の主祭神の蒲智比咩(かまちひめ)と同体であり、海神の女神であるという。雨宮媛神は水神海神の天照女神です
祭神は、天照女神と高宮大幡主の夫婦神が重なって祀られていることになりますが、速瓶玉命は祭神としての記載がありません。速瓶玉命は「手野」の神、雨宮媛命は「小国」の神だからでしょう。

 

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正面鳥居横の大幡主の鷹の像

 

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手水舎、龍頭から水です


氏子さんは奉斎地域が広いせいか、多彩です。地区は宮原、上田、北里、西里、下城、黒渕が見れます。より目立つ氏子さんの名は、佐藤、北里、高橋、橋本でしょうか。
有名人として、北里柴三郎が、1853年(嘉永5年)現在の熊本県阿蘇郡小国町北里で代々庄屋を務める家に生まれています。

 

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拝殿の左(西)には、雨宮大明神社跡の石碑があります、台座が大幡主の六角形です

 

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本殿前には門神社(もんがみ 門守社)が国造神社と同様にあります
左(西)の門神社を櫛磐窓命(天照女神) → 日吉様
右(東)の門神社を豊磐窓命(大幡主)  → 山王様
本殿の左(西)は高橋宮(天照女神)、右(東)は火宮(大幡主)
まるで、高良玉垂神社そのものです

 

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拝殿東側から神門を望む

 

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拝殿東側の隅の動物像、牛、虎、兎、猪、猿、これらは大幡主と天照女神に関係します

 

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拝殿東側の一段高い所にあります、上宮でしょうか

 

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天神社(左手前) 多賀神社(中) 祇園神社(右奥)が鎮座です

天神社は「てん神社」です。祭神は、天照女神と大幡主が本来の祭神です。多賀神社は「たか神社」で「鷹神社」です。別名、妙見宮で、祭神は大幡主と天照女神です。祇園神社は別名、八坂神社であり、祭神は素盞鳴尊とされますが、大幡主が本来の祭神です。

 

※宮原両神社と宝くじ
境内案内板によると、宮原両神社は富くじ(宝くじ)の願かけがよいようです。
橋本順左衛門と城尾村市郎右衛門は、けやき水源の水神様と宮原両神社に「一番くじ」を願って祈り続け、成就し、宮原両神社の富くじと久住神社の富くじに大乙(一番くじ)を当てています。このことから、宮原両神社の高橋宮(天照女神)と火宮(高宮大幡主)の二祭神は「千両・万両の神様」と呼ばれるようになったという。目出度し!目出度し!
えびす神は、高橋宮(天照女神)と火宮(高宮大幡主)ではないか、と思いを馳せるのでした。

 

両神社と富くじ(境内案内板)
江戸時代の文政元年(1818年)より両神社で「富くじ」を行うことが許された。
この頃、宮原上町(現在の一番街)で造り酒屋を営む湊屋橋本順左衛門は、毎朝早起きして井川(現在のけやき水源)で手を洗い身を清め太古から湧き出る水を祀る水神様に自然の恵みを感謝した。そして小国郷の氏神である両神社へ参拝し、天下の太平と商売繁盛を祈ることを日々の勤めとしていた。
ある日の朝方、湊屋順左衛門は、けやき水源に小さな舟が流に逆らい入る夢を見た。湊に舟が入ることを吉兆と感じた、順左衛門は「富くじ」を買い、見事に大乙(一番くじ)を当てた。湊屋順左衛門の正夢の話を聞いた郷内城尾村市郎右衛門は、毎朝、一里の道をけやき水源に通い水神様と両神社に「一番くじ」を願って祈り続け心願成就し、両神社富くじと久住宮富くじに四回大乙(一番くじ)を当てたのである。
このことから、両神社の高橋宮・火宮の二祭神は「千両・万両の神様」と呼ばれるようになった。その後、富くじは年毎に盛んになり、嘉永より安政年間までの10年間に76回も行われたと古文書に記載されている。
明治維新となり、両神社の富くじは無くなったが、今も祈願者に開運招福を授けて下さるのである。  平成15年12月 小国町商工会 (境内案内板より)




五ヶ瀬町の二神神社
宮原両神社の祭祀線は、
宮原両神社→国造神社近くの尾篭村片隅村→阿蘇根子岳→五ヶ瀬町中山の二神神社
逆に、二神神社は阿蘇根子岳を通って宮原両神社に向かうことになります。
宮原両神社と二神神社は「根子岳」「根子」に関係することになります。
「根」のつく神は、天忍穂根命(大根の神)の高宮大幡主、天忍雲根命の若宮天照女神です。根子岳の「根子」は倭国の元(根)と取れます。
さらに、古代の天皇の和風諡号に「倭(日本)根子」がつく天皇が多くおられます。

 

和風諡号に「倭(日本)根子」がつく天皇
7代 孝霊天皇(大倭根子彦太瓊天皇 おおやまとねこひこふとに)
8代 孝元天皇(大倭根子彦国牽天皇 おおやまとねこひこくにくる)
9代 開化天皇(稚倭根子彦大毘毘天皇 わかやまとねこひこおおびび)
22代 清寧天皇(白髪武広国押稚日本根子天皇 しらかのたけひろくにおしわかやまとねこ)
41代 持統天皇(大倭根子天之広野日女尊 おほやまとねこあめのひろのひめ)
43代 元明天皇(日本根子天津御代豊国成姫天皇 やまとねこあまつみよとよくになりひめ)
46代 孝謙天皇(倭根子天皇 やまとねこ)
50代 桓武天皇(日本根子皇統弥照尊 やまとねこあまつひつぎいやてり)
51代 平城天皇(日本根子天推国高彦尊 やまとねこあめおしくにたかひこ)
52代 嵯峨天皇(追号)皇后は橘嘉智子(檀林皇后 橘清友の娘)
53代 淳和天皇(日本根子天高譲弥遠尊 やまとねこあめのたかゆずるいやとお)
54代 仁明天皇(日本根子天璽豊聡慧尊 やまとねこあまつみしるしとよさと)
※嵯峨天皇は平城天皇、淳和天皇とは異母兄弟。
 仁明天皇は嵯峨天皇の親王。嵯峨院(後の大覚寺)


「倭(日本)根子」がつく天皇は橘系の天皇のようです。

二神神社
宮崎県西臼杵郡五ヶ瀬町桑野内(中山)6050
祭神 神漏岐命(かむろぎ)、神漏美命(かむろみ)

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Google Map から

 

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鳥居は天照女神の両部鳥居です 扁額「二神神社」

 

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二神神社は五ヶ瀬町桑野内の中山村でも、さらに宮原の迫の丘に鎮座です。
ここでは「宮原」を「ミヤバル」とよばれています。
元は、五ヶ瀬ワイナリー(五ヶ瀬町大字桑野内4847-1)にあって、理由あって現在地に遷宮と聞いています。
「宮原」を「ミヤバル」と呼ぶ所は福岡県朝倉の寺内の宮原村があります。
五ヶ瀬町の二上山の祭祀線は
久山町皇大神宮―朝倉三奈木宮原―阿蘇高岳中岳―二上山―都農神社
八代宮原―三ヶ所神社(宮の原)―二上山―宿毛白皇山
です。




参考資料 幣立神宮(へいたてじんぐう)追記
幣立神宮の由緒を見ると
「阿蘇大宮司友成が神殿を造営し、伊勢両宮を祀り幣立社と号した」とあります。
その祭神は天御中主神と天照大神、と書かれています。
また「日の宮」といっています。
これだけで、伊勢両宮は天照女神(内宮)、大幡主(外宮)を祀ると分かります。

 

幣立神宮(へいたてじんぐう)
熊本県上益城郡山都町大野712
日の宮 (ひのみや)ともいう。

由緒 社伝によれば、神武天皇の孫である健磐龍命が、阿蘇に下向した際、この地で休憩し眺めがとても良い場所であると、幣帛を立て天神地祇を祀ったという。
その後、延喜年間(901-923年)、阿蘇大宮司友成が神殿を造営し伊勢両宮を祀り幣立社と号した。
天養元年(1144年)には、阿蘇大宮司友孝が阿蘇十二神を合祀し大野郷の総鎮守とした。

祭神
神漏岐命、神漏美命
天御中主神、天照大神
阿蘇十二神

※日の少宮(大幡主)、日の若宮(天照女神)、合わせて日の宮(ひのみや)




天照女神と如意輪観音と足一騰坐 メッセージ37
二上山神社の祭祀線を調べていたら、如意輪観音が出てきて、 福岡県嘉麻市・永泉寺の本尊の如意輪観音は朝鮮式坐りをされています。
天照女神で間違いありません。
福岡県那珂川市の現人神社の如意輪観音も朝鮮式坐りをされています。
天照女神は朝鮮半島南部の伽耶から来られていること間違いなしです。

 

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福岡県嘉麻市の永泉寺の本尊
如意輪観音(天照女神)は朝鮮式坐りをされています

 

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福岡県那珂川市の現人神社の如意輪観音

大分県安心院(あじむ)の盆地の南にアカル姫を祀る妻垣(つまがき)神社、別名の一柱騰宮(あしひとつあがりのみや)があります。古事記では「足一騰宮」、日本書紀では「一柱騰宮」と表記されています。
足一騰坐(あしひとつあがりすわり)のご神像は天照女神でよく見かけます。ご神体は「右片足膝立て」坐像で、これが「あしひとつあがり坐像」で、「足一騰宮」の名の起源と想定しています。

妻垣神社
大分県宇佐市安心院町妻垣字大門203

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社紋は宇佐宮三巴紋、神紋は橘紋、五七桐紋(天照女神)と花菱紋(天照女神)です。橘紋は木花開耶姫=天照女神の紋章です。祭神はアカル姫(天照女神)、大幡主を祀ります。

 

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安心院三山 鹿子岳(左)、共鑰山(中)、龍王山(右) 香春三山と同じ印象です

 

妻垣神社と大祖神社(福岡県糸島市志摩芥屋)類似性
妻垣神社の本殿の鬼板には橘紋、別の箇所には花菱紋があります。
糸島市志摩芥屋の大門の大祖神社も同様の構造です。
更に共通なのは、大祖神社の近くに綿積神社、妻垣神社のすぐ側の南西に龍王山とその頂上に海神社があります。両神社に関わっておられるのが正八幡大幡主で、大祖神社の近くに塩土神社があります。両神社は神南備山の御神山を持っておられ、妻垣神社は共鑰山、大祖神社は「朕の山」となります。
さらに、妻垣神社は字大門に鎮座します。大祖神社の鎮座地は字久保地ですが、芥屋大門(大字芥屋大門崎)にあります。大門神窟には大門神社があり綿積大神を祀ります。「大門」の地名が共通しています。「大門おおと」の地名は天照女神と大幡主を祀る神社によくあります。
また、妻垣神社の主祭神はアカル姫(=天照女神)、大祖神社の主祭神は天照女神です。
このように、両神社には共通点が多くあります。No.155 156

妻垣神社、大祖神社共に橘紋があり、橘紋は木花開耶姫(=天照女神)、その娘さんの古計牟須姫(こけむすひめ)の紋章です。木花開耶姫は大日女(おおひるめ)、古計牟須姫は若日女(わかひるめ)となります。
芥屋の大祖神社(天照女神)の祭祀線は可也山(伽耶山)を通り細石神社(さざれいし)となります。細石神社の祭神は磐長姫、木花開耶姫ですが、磐長姫も木花開耶姫も天照女神の置き換えです。さらに、大祖神社(天照女神)の社殿は東の塩土神社(大幡主)に向かいます。 また、大祖神社の海岸にある大門神社(天照女神)の鳥居は宗像の沖ノ島の沖津宮(祭神は大幡主)に向かいます。No.149

大祖神社 福岡県糸島市志摩芥屋675
祭神 天照皇大神
   伊邪那岐大神、伊邪那美大神
   ※天照皇大神=天照女神

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芥屋の大門神社(大門神窟)
祭神 綿積大神
   大戸之道尊と大苫之邊尊
   ※綿積大神=天照女神

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この鳥居は宗像沖津宮の遙拝所となっています

男神でも足一騰(あしひとつあがり)坐像に近いご神体を持っておられる神社があります。福岡県久留米市の荒霊神社と徳満神社の荒五郎水神(大幡主)です。左足を台座から下へ伸ばしておられる。

 

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荒霊神社(左)、徳満神社(右)の荒五郎水神(大幡主)のご神像


※鎮国寺 福岡県宗像市吉田966

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宗像大社の元神宮寺で、五仏堂は本地堂といわれ、宗像三神の本地仏の他、織幡(おりはた)明神、許斐(このみ)権現の本地仏を祀ります。
宗像三神に織幡(おりはた)大明神と許斐権現(このみ)を加えて宗像五社という。
宗像五社の本地仏は、第一宮(大日如来)、第二宮(釈迦如来)、第三宮(薬師如来)、織幡宮(如意輪観音)、許斐宮(このみ・阿弥陀如来)です。
(鎮国寺資料)

第一宮(大日如来)垂迹は天照女神
第二宮(釈迦如来)垂迹は大幡主
第三宮(薬師如来)垂迹は大幡主
織幡宮(如意輪観音)垂迹は天照女神
許斐宮(阿弥陀如来)垂迹は大幡主

これからしても、宗像大社は天照女神、大幡主(高宮)を祭神とすることが想定できます。
天照女神の本地仏は他に、十一面観音、千手観音、聖観音があります。 No.254




覚え書きメモ帳20 百嶋神社考古学 2024-11-18
私は百嶋神社考古学の門下生ではありません。
神社考古学の開祖の百嶋由一郎先生を知ったのは、亡くなられた後でした。
神社考古学に触れた時は、その新しい所見に感銘しましたが、
当初から、ずーっと、以下の点について問題意識を持っていました。

1.彦火火出見命の母親が記載されていない。
2.万幡豊秋津姫、栲幡千々姫、邇邇芸命の母親が記載されていない。
3.事代主の出自が全くない。
4.誉田別王(応神帝)の出自が明確でない。
5.八幡神が不明朗。
6.伊勢神宮が不明朗。
7.伊勢外宮様が天鈿女命とされる根拠が不明。
8.稲荷神が曖昧。
9.天御中主神が白山姫であり、女神であることの不思議、男神では。

神社訪問と探求は、絶えず上記の問題解決を意識しながらの訪問でした。
伝え聞くところによると、百嶋先生は、本当の事を教えてくれた宮司の手前、その事を公表することはありません。この事を配慮して資料を利用するようにと、聞き及んでいます。

ですから、百嶋資料は本当のことは隠されていると、自覚して追求しなければならないのです。 だから、上記のことも、全てを明らかに公表することができなかった項目と考えたがよく、明確な姿が想定されると、既存の資料とは矛盾を来すところが発生すると見たほうがよいと思えるのです。現在、見かける百嶋神代系図は完璧ではないのです。わざと未完にされているのです。

2022年の10月から、私のブログは、以前の記事から大きく脱線することは、その記事の中で述べています。最近の内容は、特にひどく反れていると、百嶋神社考古学を勉強されている方は思われていると思います。当たり前です。上記の理由から、百嶋神代系図は当初から完璧ではないのです。完璧と思いこんでいたら、新しい発見に結びつくものに出合っても進展はなく、調査したことを百嶋学と照合しているだけになります。
百嶋学を参考に神社研究をする方は、百嶋先生が本当の事を公表できなかった箇所を配慮しつつ、自力で発見したことで埋めて頂きたいのです。