No.251 宮地嶽神社の祭祀線②
宮原誠一の神社見聞牒(251)
令和6年(2024年)06月09日
宮地嶽神社の祭祀線を調べると、
宮地嶽神社奥宮→波折神社→楯崎神社 が祭祀線にのります。これは、祭神が「天照女神と大幡主であること示しています。
宮地嶽神社 福岡県福津市宮司元町7
波折神社 福岡県福津市津屋崎4丁目33-1
楯崎神社 福岡県福津市渡946−1
山頂祭祀線は
在自山(あらじやま)→荒地山→安羅山→宮地山→宮地嶽神社→安羅人
現人(あらひと)、荒人(あらひと)と「あらひと」は大幡主につながるのです。
宮地嶽神社本殿、宮地山、在自山の三点の祭祀線も直線に乗ります。
宮地嶽神社祭祀線
宮地嶽神社参道は相島を通り、春秋時代の呉の首都・姑蘇(こそ江蘇省蘇州市)を通り
さらに楚国首都・郢(えい湖北省荊州市荊州区)に至ります。
宮地嶽神社祭祀線(奥宮→波折神社→楯崎神社)は韓国光州へ、韓国全羅南道の光州市付近一帯には前方後円墳が分布する。
韓国全羅南道の前方後円墳分布図
■参考資料・古代中国と日本
呉の太伯・姫氏
周の王子であった太伯は、聖人の資質を持つ末弟に王位を譲り南方の地に去り、文身断髪して後継ぎの意志のないことを示した。太伯は自ら勾呉(くご)と号し、呉の太伯と呼ばれた。お倭は呉の太伯の後裔という。
春秋時代(BC770~BC402)
江南には越と呉の強国が建つ。呉は太伯、越は禹の苗裔で、ともに「夷」であるが「華」の後裔を称した。
揚子江の南、西湖の景色で名高い杭州は絹や水銀を産する。
稚日女(わかひるめ)は、江南の呉王国の妹王女、姉王女は大日女(おおひるめ)と云う。この地は遙か東の倭国に至り中央構造線の西端に当たる。
BC473年、呉は越に滅ぼされ、BC334年、越は楚に滅ぼされた。楚国は始皇帝の秦に滅ぼされ、呉越の遺民は、揚子江以南の海岸沿いに国を構えた。
金属採取に長けた越人の一族は呉王女姉妹を奉戴し、呉越同舟で船出し倭国へ向かった。
南九州に上陸、姉の大日女姫はこの地に伴侶を得てとどまり、後に天照大神と呼ばれる女神の原型となった。妹姫の稚日女姫はミズハの女神の原型、すなわち丹生都比売神の原型となった。
※現在は、大日女=天照女神=ミズハの女神=丹生都比売
会稽の恥(かいけいのはじ)
春秋時代の越(えつ)の国王勾践(こうせん 在位前496〜前465)の父・越王允常(いんじょう)は、呉王・闔閭(こうりょ)と争い,闔閭はそのとき負った傷がもとで亡くなる。
前494年 呉王の夫差は、越の国王勾践を破り、父・闔閭の復讐をはらす。越の国王勾践は会稽山で包囲されて敗れ、生き延びるために家臣になることを約束する、屈辱的な講和を結ぶ。
越の国王勾践は、命だけは許されて国に帰り、臥薪嘗胆(がしんしょうたん)と、名臣の范蠡(はんれい)の助力を得ると共に富国強兵につとめ,前473年呉王の夫差軍を会稽山で滅ぼし,ついに夫差を自殺に追い込む。
臥薪嘗胆(がしんしょうたん)
夫差は、勾践を憎み、喪に付す間(25ケ月)復讐を忘れないよう、硬い薪の上で寝たと言われる。(臥薪)
勾践は、食事のたびに、苦い肝をなめて、夫差から受けた時の悔しさを忘れず、毎日苦い思いをして、苦節20年で夫差に打ち勝った。(嘗胆)
会稽山(かいけいざん)
中華人民共和国浙江省紹興市南部に位置する山、杭州(はんちょう)の南に会稽山
■楚国と滇(てん)国
白族(大幡主)の本願地は楚国ではないか。
楚国の国王名の通字は「熊 ゆう」です。「熊」「隈」は大幡主に関連する名称につきます。「熊襲 くまそ」は「熊楚」に由来するのではないかと。
楚国 歴代君主
1.鬻熊 2.熊麗 3.熊狂 4.熊繹 5.熊只 6.熊䵣 7.熊樊 8.熊鍚 9.熊渠 10.熊毋康
11.熊摯紅 12.熊執疵 13.熊勇 14.熊厳 15.熊相 16.熊徇 17.熊咢 18.若敖 熊儀
19.霄敖 熊坎 20.蚡冒 熊眴 21.武王 熊徹(在位BC740-BC690年)初めて王号を名乗る
22.文王 熊貲 23.堵敖 熊囏 24.成王 熊惲 25.穆王 熊商臣 26.荘王 熊侶
27.共王 熊審 28.康王 熊招 29.郟敖 熊員 30.霊王 熊囲 31.訾敖 熊比
32.平王 熊弃疾 33.昭王 熊珍 34.恵王 熊章 35.簡王 熊中 36.声王 熊当
37.悼王 熊疑 38.粛王 熊臧 39.宣王 熊良夫 40.威王 熊商
41.懐王 熊槐(BC328年 - BC299年) 42.頃襄王 熊横(BC298年 - BC263年)
43.考烈王 熊完 44.幽王 熊悍 45.哀王 熊猶 46.負芻(熊負芻)(BC227年 - BC223年)
滇(てん)国 (Wikipedia)
滇は、前漢時代の紀元前3世紀頃から、雲南省東部の滇池周辺にあった滇人による西南夷の国。中国では「滇」の字は鱒(ます)の意味も持ち、その場合は「滇魚」といったように読み方が異なる。後に雲南省の別称となり、現在の中華人民共和国においても雲南省を「滇」と略す。楚の将軍荘蹻(そうきょう) が遠征した時に、秦によって帰郷できなくなり、やむなく建国したとされる。
荘蹻(そうきょう)
史記によると、戦国時代に楚の将軍荘蹻は長江の沿岸をさかのぼり、滇池まで攻め入り平定した。帰国しようとした時、秦が楚を破って、道が塞がれて帰国出来なかった。そこで、荘蹻は滇の王となったとある。戦国時代の七雄のひとつの楚は、漢民族でなく長江文明の流れを汲む苗族の系統とされている。荘蹻はもとの楚王の末裔で苗族の系統であり、荘蹻を王と受け入れた滇国も、もとから苗族が作った国であった。現在は、雲南省や貴州省・湖南省・広西省などに住む少数民族である苗族であるが、苗族は舟を漕ぐのが得意であった。
雲南省 省都は昆明市 略称は雲、又は滇(てん) 湖南省 古代は楚の国であり、神農ともゆかりがある
楚の詩人・屈原の投身自殺
愛国詩人としても知られる屈原は、秦を信用することは危険であると主張したが、楚の懐王は秦の張儀の策略にはまり、秦との同盟に踏み切る。BC299年に同盟を結ぶために秦に赴いた懐王は幽閉され、間もなくその地で亡くなる。
BC278年、将軍白起に率いられた秦軍によって楚の都・郢(エイ)が攻撃され、都を南方に移さざるを得なくなった。(滇池への民族大移動)
このとき、楚の政治家で詩人屈原は、祖国が秦のはかりごとで衰微したことを嘆き、汨羅(べきら)の淵に投身自殺したと伝えられている。屈原は策略を王に進言していたが、聞き入れられなかった。楚の国力は秦に負けないほどの国であったが、ついに、楚はBC223年、秦に滅ぼされた。
南方に遠征していた将軍荘蹻が、滇王国の初代王で、滇(てん)池(昆明)王。
日本人の源流は湖南省湖北省の楚が源流で、楚が秦に攻め滅ぼされ、雲南省昆明へ逃れて来た。
※「粽 ちまき」は屈原の死により、姉によって作られた。
紀元前278年、中国の楚の国に屈原という人望の厚い国王の側近がいた。陰謀によって失脚。深く失望した屈原は5月5日に汨羅(べきら)江に投身自殺をした。屈原を慕った楚の国民は太鼓を打って魚を脅かし、餅を笹の葉で巻き茅で縛った粽(ちまき)を川に投げ込んで屈原の遺体が魚に食べられないようにした、という。
宇佐神宮とは何か・百嶋講演
阿蘇族は中国大陸にいた頃は黎族といっていた5000年前、黎族の一部が通称、漢民族に追われて、3000年かかって追いこめられた場所が雲南省で、そこの盈江(えいこう)にシナ城(シナ族)を作った。そこも追われて、二つのグループにわかれ、一つは櫛田神社(大幡主)のグループの大半は昆明から紅河を下ってベトナムのハノイに到着する。シナ城のグループ(阿蘇族)はメコン河を利用して南ベトナムの方に流れ込んだ、そして、二つのグループとも海南島で態勢を整えて、日本に移住しようということを打ち合わせた。
日本にきて天草・苓北に上陸した。そこにしばらくとどまった。日本にきてからは黎族とはいわず耳族(天忍穂耳)とも称した、そして、阿蘇に移動した。
※調べてみたかった場所です
2023/05/02 火曜日 15:25
中国の昆明市に六甲がありました。
六甲神社の瀬織津姫と繋がるかは??わかりませんが。
※楚と大幡主
大幡主の熊・球磨・隈 等は楚王の氏の熊(ゆう)から来ていると察します。楚の国姓は羋(び)、楚王の氏は熊(ゆう)。「楚」と「白族」が結び付く。
素戔嗚は島根県松江市八雲町熊野の熊野大社の「熊野大神櫛御気野命」で、「熊野大神」に「櫛」です。素戔嗚は大幡主そのものです。
※波に兎の彫刻について
禹帝(うてい) 越の国の人々は皆「禹」の子孫と称し、「禹」に対する祭祀活動を伝統的に行っている。呉越楚の人々が海を越えて九州に渡ってきたことの象徴ではないか?浙江省紹興市の会稽山に大禹陵がある。
宮地嶽神社奥宮の祭祀線
宮地嶽神社奥宮の祭祀線は波折神社、楯崎神社が乗ります。
さらに、楯崎神社は宗像大社と関係してきます。
■波折神社(なみおりじんじゃ)
創建は新しく、由来がはっきりしています。
昔この浦の漁夫三人が沖に出て釣りをしていたところ、大風荒波に遭い、当社の祭神に救いを祈り求めたところ、祭神は姿を表わされ、隆起する波穂の上に立ちて、波頭を御袖にあげて打ち払うと、荒波は見る間に治まり、荒波を分けて船は鼓島(こじま)に漂着。
風待ちすること三日、飢えているところ、再び先の祭神現われて飲食を与えられ、これを食し体力を得、力の限り波濤を凌ぎて、この浦に漕ぎ着けることができた。祭神の船上に現われた跡に三箇の石があり、これを漁夫たちは奉持して祭る。これより波折大神と称し奉るという。
※祭神とは、瀬織津姫(天照女神)、志賀大神(天照女神)、住吉大神(大幡主)
波折神社 福岡県福津市津屋崎4丁目33−1
社頭・一の鳥居
二の鳥居
二の鳥居後ろの大幡主の蘇鉄とシャコガイ
拝 殿
神紋「左三巴紋」は天照女神・大幡主の神紋
本殿木鼻の龍の彫刻
本殿の天照女神の鶴と獅子の彫刻
本殿向拝の四本柱は高良神社造り(大幡主・天照女神)
波折神社縁起
昔この浦の漁夫三人、沖に出て釣りせしが、大風荒波に遭い、雷鳴さえも加わり、海、大いに振動す故に漁夫、諸共に、この三神に救いを祈りし処、すなわち御姿を表し給い、隆起する波穂の上に立ち給いて、雲の如き波頭を御袖にあげて打ち払い給うと見えしが、逆巻く荒波は見る間に治まり遥かの沖に折り過ぎ、暫時、海上静かとなりし故、荒波を折って、辛うじて船は鼓島に漂着。風待ちすること三日、飢え迫りし折柄、再び先の三神現われ給い、飲食を与え給う。これを食すと覚えしが、忽ち人ここちつき、力の限り波濤を凌ぎて、この浦に漕ぎ着けたり、初め三神の船上に現われ給いし跡に、三箇の石あり、これを漁夫捧持して祭れり、これより波折大神と称し奉る。
かくて、いにしえ彼の河原崎の宮之本に祭られしより、時移り八十四代順徳天皇の承久三年此処に移し奉る。
境内末社
蛭子社・鷺大明神社(佐磯神社)・稲荷明神社・荒神社・須賀神社・六之神社・天満宮・皇大神宮・秋葉明神社・大海積神社
楯崎神社奥宮から見る鼓島(中央の小さい嶋)奥は宗像中津宮の大島
社殿右手の波の上のウサギ
社殿右手の天照女神と大幡主の藤棚
境内社・蛭子神社 祭神 西宮大神(大幡主)
境内社・六之神社(右)、皇大神宮(中)、天満宮(左)
六之神社(ろくし)祭神は義民六人士(庄屋・左兵衛、組頭・七郎兵衛、
長兵衛、甚兵衛、佐右衛門、弥右衛門)寛永17年(1640)津屋崎浦の
漁場拡張した6人が処刑され、天保5年(1834)神として祭られる。
皇大神宮は以前、上本町にあったという
境内社・天満宮
菅原道真が大宰府配流の折、嵐で津屋崎に上陸、
村人が面倒をみたお礼の蓑と笠を焼いて御神体とした
境内社・須賀神社
正徳四年(1714)に博多櫛田神社祗園社から勧請
境内社・佐磯神社(さぎじんじゃ 左 大幡主と天照女神)
唐津森社(右)は江戸時代後期から廻船業で儲けた浜ノ町
唐津屋の屋敷神を昭和18年4月、唐津屋本家が移転。
境内社・大海積神社
昭和戦前は浜ノ町海岸付近にあったのを移転
クワ(桒・桑)を持つ猿
白龍の石
■楯崎神社
神功皇后の伝説が強すぎて、由緒がはっきりしません。
祭神表示は、大己貴神(おおなむちのかみ)、少彦名神(すくなひこなのかみ)を祭神に、飛龍権現を相殿に祀る、とあります。
楯崎神社 福岡県福津市渡946−1
右手は藤棚
蘇鉄に藤棚
祭神
大己貴命(おおなむち)
少彦名命(すくなひこな)
飛龍権現を相殿に祭る
楯崎神社御縁起
それ当社は宗像宮に摂する所の七十五社の其の一にして、楯﨑神社は以下詳かに説く古宮なり。祭る所の神は、大己貴命、少彦名命なり。又、飛龍権現を以て相殿と為し三座となす。 相伝えて云う、荒洪草〼の世、草木、言い語りの時、夷の類凶暴なる鬼神、吾が北海の浜に来寇し、人民を殺略す。時に大己貴命及び妃宗像姫大神自ら神軍を率い稜威を振い、楯を立て、鼓を鳴らして夷賊を防御し、遂に誅滅し類、無きなり。
楯﨑及び加羅船等の名、蓋し此れより起る。按ずるに大己貴命は素戔嗚尊七世の孫天之冬衣神子、母刺国若比売神、此の大神、亦の名を大国主神、亦の名を葦原醜男神、亦の名を八千戈神、亦の名を顕国玉神と謂い、大三輪社に祭る。大物主命は大倭神社に祭り、之を称して大国売(主)神と謂う。故に此の大国主神は、千早振神等を追撥し而して始めて国を作る。其の子凡そ一百八十一神あり。後に天の下、皇御孫尊を避(助)け奉り、日隅宮に永隠す。即ち出雲国杵築大神なり。
※『古事記』において刺国大神の子とされる。八十神たちに殺された息子の大国主神を見て嘆き悲しみ、高天原の神産巣日神に懇願し、遣わされた𧏛貝比売・蛤貝比売と共に彼を蘇生させた。
少彦名命は神皇産霊尊の子なり。日本紀に按じて曰く、大己貴命の国を平ぐるや行きて出雲五十狭の小汀に到る。而して朝、まさに飲食せんとす。是の時、海上忽、人声の驚くありて、之を求む。すべて所見無き頃、時に一箇の小男あり。白斂皮を以て舟と為し、鷦鷯の羽を以て衣と為し、潮水に隋って浮き、大己貴命に到る。即ち掌中に取り置き、而して之を玩ぶ。則ち跳びつき噛む。其の頰の怪、其の物の色なり。遣使天神に白す。時に高皇産霊尊、之にこたえて曰く、吾が所に産児凡そ一千五百座あり。其の中の一児、最悪にして教養に順わず、指間より漏るる堕者は必ず彼なり。爰に於いて之を養うべし。此れ即ち少彦名命、是れなり。又、云う、大己貴命、少彦名命とともに勠力一心、天下を経営し、またあきらかに、蒼生及び畜産を見んがため。其の療病の方法を定め、又、鳥獣昆虫の災異の壌を為す。即ちその禁厭の法を定め、此れを以て百姓、今に至り咸、恩頼を蒙る。嘗、大己貴命、少彦名命に謂りて曰く、吾等造る所の国、豈に善成と謂や。少彦名命、対えて曰く、或は成す所あらんか、或は成さざるにあらんか。其の後、少彦名命、行きて熊野の御碕に至り、遂に常世郷に適す。今、天下諸国に温泉地あり。是の二神を祭り奉るは、この縁なり。
宗像三前大神は、天照大神と素戔鳴尊、誓って久しき後に生座の御子なり。即ち〼して曰く、田心姫命、湍津姫命、市杵島姫命は沖津宮、中津宮、辺津宮の三所に厳重に鎮座し、奇瑞、古今不変、国家鎮護の大神なり。旧事紀に案じて曰く、素戔嗚尊の児、大己貴神、先に宗像奥津宮に座す田心姫を娶りて、一男一女児、味鉏高彦根神妹、下照姫命を生む。次に辺津宮に坐す高津姫命を娶りて一男一女児、味歯八重事代主神妹、高照光姫大神命を生む。味歯八重事代主神は化して八尋の熊鰐と為り、三島溝杭女を通じて、玉依姫に生き一男一女児を生む。天日方奇日方命なり。此の命、橿原朝の御世勅して、食国大夫となりて供奉。六世の孫阿田賀田須命は、宗像朝臣等の遠き祖なり。
宗像社記に曰く、当神、異賊に対し、最初、御合戦地の〼、御楯を築き始められし処を楯崎と号す。其の御楯、石と成りて今にこれあり。軍に御勝ちあり。勝鼓を打ちたまえる処を鼓島と号す。其の鼓、石に成りて今にあり。
それ神山の峻嶺上、草木蓊蔚楯板、石と化し、今猶其の石あり。面の径二尺五寸、高さ五尺恰も削成せるが如く、東方に向きて立つ。三方石壁を築き、之を囲続す。土人之を敬畏し能く登歩する者あらんや。社の後に一岩窟の口あり。方二尺五寸、深さ一丈二尺、乃ち神霊の窟宅とする所なり。西は海岸に面して巉巌千尺、ここに萬里の冥遼に絶するに臨み、心目の寥朗を恣し、それ岸下の礒悉く龍蟠り、虎蹲り、怪異萬状、若し夫れ且夕、潮水、懸崖に〼がば、奔〼絶壁を撃ち、怒りて〼噴し、神を驚かし、魂を焇し、人を騒がす所、永吟の雅人、愛賞する所、楯石崎は即ち此れなり。
夫木集 西行法師
さかおろす楯石崎の白浪は あらしきほにもかかりけるかな
古老相伝えて曰く、往昔、息長足姫尊、将として西征の時、斯の山に登り、而して神の冥助を請わんことを祈り、御船、これに泊する処を京泊と曰う。社北、御手を洗いし処を御手水の曝布と曰う。其の側に一大巌あり。形状艨艦の如し、所謂加羅船なり。又、三嵓瀬あり、その中間は之を湯壺と曰う。温泉ありて湧出す。今廃し其の海中に多藝理瀬あり、潮汐將に盁涸の時、猶温井沸湯の勢を見る。因って之を社北の礒浜と名づけ、之を五色浜と曰う。細石、悉く五色鮮明なり。又、楢葉浜に神紋石あり。〼々、楢葉の文あり、隠れし名は、浜に起因す。鎮子と為すべし。この岸の西二町許り一岩嶋あり、形状は鼓に類し、草木なし、所謂、鼓島は凡そ、斯の山海の竒勝、言に尽すべからず、皆神明の霊蹤なり。
皇統彌照、天皇桓武天皇の御世、釋、最澄師、求法の為に將に唐国に赴かんとし当社に詣で宿願を達せんこと祈り、自ら薬師彌陀観音像を彫剋し、以て之を安置し号して楯崎寺と曰う。今俗に楯崎薬師と称する所は即ち此の新宮なり。誤って古宮を称して薬師となし、神山を称して薬師山と曰う。曽って大神の本跡を知る者なし。〼に、宗像神社の盛んなるや、末社、修造用途は葦屋新宮浜の漂涛物を充てらる。其後、勅を以て、同郡曲村田地、四拾町修造料と為す。当社亦、これを与う。又、田、貮町を寄せられ、今、社東の田字、御田及び御園と称するは古の遺名なり。又、毎年、正月七日、九月廿九日、宗像末社の神座を本社に於いて設け、神饌一百八膳を献じ、又、三月八日より同十五日に至り修法ありて、之を為す。恒例の神事宗像大宮司家、世掌礼典甚だ厳かなりと云う。
天正十五年豊臣関白、九国(州)、征伐の時、悉く神田を没収す。これより以後、神殿、傾覆し、神人、緇素、四方に散去し空しく神体佛像を岩窟中に遷し奉りて、祀らず。年ありここに於いて、元禄年中に至り、村民等、旧祠の廃絶を歎き、再造の志を企て、僅かに、一宇の祠を造立し、神佛を同檀に祀る。時に、本山派修験仙光院某なる者あり。衆力を募り而して春秋二祀を再興し、国家の為、永く擁護の神力を懇祈し、黎〼の為恢く発願し、快楽の誓いを弘め、今に一百有余年、祭典、欠さず幣帛、増加して惟れを伏す。大神園を造るの勧めあり。則ち、天下蒼生孰く其の恩光を戴かず。嗚呼、神の徳上下を徹し遐邇を隔てず、爰に感じ、爰に応じて鎮まる。国家、群生を護るや、大なり。誰か神風の余化を仰がざらんや。
摩利支神社HPの楯崎神社HPから
福岡県宗像市東郷1丁目6−16
https://marishi-jinja.jimdofree.com/
摩利支神社 福岡県宗像市東郷1丁目6−16
祭神 天之御中主大神(摩利支天) 葛城一言主神(一言主は天御中主と同一神)
創建は飛鳥時代の中期の朱鳥5年(691)、時の宗像大領の秋恵氏が、郡の中央の地の東江郷(現在の東郷)に「天之御中主大神(摩利支天)」及び「葛城一言主神」を奉齊し「摩利支神社」と称するようになったのが始まりとされる。
※天之御中主神=葛城一言主神=大幡主
摩利支天
摩利支天は、仏教の守護神である天部の一尊で日天の妃ともいわれる。摩里支菩薩、威光菩薩とも呼ばれる。仏教の摩利支天を連想しますが、ここの神社では、摩利支大神は、天之御中主のこととされる。
鶴(天照女神)の彫刻
神紋は「抱き柏葉」
本殿屋根の千木は外削ぎで鰹木三本
大己貴神=少彦名神=飛龍権現=大幡主
■覚え書メモ 大巳貴と大己貴
朝倉筑前町の大己神社は「大巳神社」の表記も併用されます。
大巳神社は大国主が主祭神ではなく、大巳の天照女神が主祭神です。
己は土(つちのと)ですから土の神になります。
大巳神=天照女神(蛇神、水神)
大己神=大幡主(土神、火神)
大巳=大蛇=大神
大巳貴神社と穴森神社も大蛇。
福岡県浮羽町にも大巳貴神社ありました。
※貴(むち)は宗廟神社の尊称です、神社の称号です。
よって、大巳貴命と呼ぶのはおかしいです、大巳命が正しい。
大巳神社=天照女神・水神、蛇神
大己神社=大幡主・土神、火神、蛇神
■楯崎神社奥の院
現在は薬師神社という、祭神は大幡主。
薬師岳一帯はヤブツバキの原生林
楯崎神社奥宮から見る鼓島(中央の小さい嶋、波折神社の由緒にある島) 奥は宗像中津宮の大島
扁額「摂社・薬師神社」薬師神社は大幡主を祀る
磐座(いわくら)の楯崎宮(薬師神社)
磐座前の鳥居は「摂社・薬師神社」とあり、薬師神社は大幡主を祀ります。
しかし、鳥居の色は朱の天照女神の鳥居です。楯崎神社の彫刻も天照女神の鶴です。
楯崎神社の祭神は
大己貴命(おおなむち)
少彦名命(すくなひこな)
とありますが、
「大己貴」は「大巳貴」であり、天照女神となります。少彦名は大幡主の置き換えです。
すると、
楯崎神社、奥の院も天照女神(瀬織津姫)が主祭神であり、大幡主と共に祀ることとなり、
この祭神は波折神社とも一致し、宮地嶽神社の祭神とも一致します。
そして、宮地嶽神社奥宮・波折神社・楯崎神社の三社は祭祀線に乗るのです。











































