No.201 弓立神社(福岡県浮羽町高見)
宮原誠一の神社見聞牒(201)
令和4年(2022年)08月25日
福岡県三潴町高三潴の弓頭神社と同じような由緒を持った神社が、福岡県浮羽町高見に弓立(ゆだち)神社として鎮座です。どうして「ゆだち」と読むのかわかりません。
景行天皇の九州征伐(九州巡狩 じゅんしゅ)と国乳別命(くにちわけ)が神社創立の由来と記載されているのです。
しかし、景行天皇の九州征伐(九州巡狩)はありえません。日本書記の作為です。
妻郡(八女郡)、三井郡、竹野郡、生葉郡、そして、下座郡(下朝倉) 一帯は大幡主ご一統の地なのです。景行天皇の九州巡狩の地ではありえません。国乳別命とは無縁の地です。
弓立神社の社殿の造りの趣が弓頭神社と似ていて、賀茂神社と思えるのです。社殿の造りが、赤色(朱赤)の柱に白壁です。
似たような神社が近くにあります。
正八幡神社
福岡県うきは市浮羽町西隈上618
賀茂神社
福岡県うきは市浮羽町山北字宮ノ下2090
杷木神社
福岡県朝倉市杷木町池田字上村546
主祭神は豊玉彦、別名、豊開津彦(とよあきつひこ)=豊秋津彦ではありません。
主祭神は女神で、鴨玉依姫(天照女神)なのです。よって、賀茂神社でも下賀茂神社となります。鴨玉依姫と賀茂建角身命(大幡主)を祀ります。
賀茂別雷神社 [かもわけいかづちじんじゃ]
(通称「上賀茂神社」)
祭神 崇神天皇 (大幡主)
賀茂御祖神社 [かもみおやじんじゃ]
(通称「下鴨神社」)
祭神 東殿:鴨玉依姫命(天照女神)
. 西殿:賀茂建角身命(大幡主)
「高見」は豊玉彦に因む地名です。深見(深水)も同様です。
景行天皇筑紫の熊襲親征の時、18年、この地に至り、日鷹見上に登り、霊畤(れいじ)を設け、御弓を大石の上に立て、天神地祇を祭り、国乳別皇子を筑紫に対する重鎮となす。大石の地名は、これが起原だと云う。
後191年、大臣武内宿禰来たりて、深遠なる聖旨を奉体し、霊畤に磐境神籠(いわさかひもろぎ)を造り、古例にならい弓を大石に立て地祇を鎮祭し、更に景行天皇を奉祀し、国家鎮護霊域となして、弓立大明神と尊号し、弓立神社の起源となり、と云う。
景行天皇と武内宿禰とは親子の隔たり程度の年齢差で、由緒のように120年の開きもありません。武内宿禰が生葉郡大石に至り、古例にならい景行天皇を奉祀し弓立大明神と尊号し、弓立神社を創立したとは思えません。
弓立神社の由緒と祭神も、明治の合祀令のいたずらか。
明治の合祀令は、村に別々にある氏神神社を一箇所に集めるものです。一つの境内に複数の神社を集めて建築するのであれば、まだ良いのですが、一社殿に神々を合祀し、社号も変更されたら、氏神様の素性も先祖の因縁もわからなくなってしまいます。
私の氏神神社の玉垂神社は鎌倉時代から明治にかけて「柳瀬神社」と称し、正八幡様が主祭神でした。
明治の合祀令の時、「柳瀬神社」を玉垂神社に、主祭神を天照女神に戻したい旨を届けましたが、認められませんでした。そこで村は、郷社の社格を返上して村社となし、洪水対策も兼ねて遷宮を決断しました。社号は玉垂神社となったものの、祭神名は武内宿禰を強制されました。そして、斎主宮司家の伊賀守熊抱家も変えられ、詳しい由緒は途絶えました。
弓立神社 福岡県うきは市浮羽町高見925 (2018-03-18)
第一鳥居
第二鳥居
第三鳥居(社頭?)
拝殿 唐破風がありません 向拝柱は塗り替えされています
本殿右後方に木樵大明神
福岡県神社誌
祭神 景行天皇、木樵明神
由諸 景行天皇御宇12年、天皇筑紫の熊襲を親征し給い、18年この地に至り 日鷹見上に登り、霊畤を設け 御弓を大石の上に立て 天神地祇を祭り、国乳別皇子を筑紫に対する重鎮となし、以て 人心の帰すべき所を示し給いたるに始まり 大石御名の起原ここに在りと云う。
後191年 大臣武内宿禰来たりて 深遠なる聖旨を奉体し、霊畤に磐境神籠(いわさかひもろぎ)を造り 古例に倣い 復(に)た弓を大石に立て地祇を鎮祭し、更に景行天皇を奉祀し 国家鎮護霊域となして 弓立大明神と尊号したるものにして、弓立神社の起源となり。
叉その後706年円融天皇の朝 永観元年(983)3月 領主清原正高 境内に木樵翁の霊を祭り 神田25町、社家領5丁を寄附せり。
保延元年(1135)2月 地頭清原○一当社改造、木樵社を同殿に遷座す。
文治年間(1185-)領主大蔵永秀神地12町を寄せ社殿を修理せり。
筑後志(巻二 杉山正仲 小川正格 1777年)
景行天皇12年(82) 熊襲が叛いたので同18年(88) 軍旅を率いて大石郷に駐輦し給い、神籠を起こし幣帛を奉り大石の上に弓を立てて天神地祇を祀り、天下の鎮護を祈り給うた。村の名もこれから起こる。
天皇空位(191)、武内宿禰、大石郷に景行帝の残し給うた御霊跡を探り、天神地祇を祀る。社殿が出来たのもこのときである。
桓武天皇の御代、最澄が詣で、また延長年間(923-)、小野道風が参拝して大明神の額を染筆奉納。現在もその額は保存されている。
永観元年(931)、少納言清原朝臣正高卿詣でて木樵翁の節義を称し、木樵大明神と崇め殿宇と楼門を寄進した。大江匡房も承保元年(1074)に参拝して自筆大明神の額面を献じた。
しかし、天正7年(1579)、大友の家臣、柴田長門守嶺能率いる耶蘇教徒数千人の為焼き果たされてしまう。
慶應2年(1866)、「八月十八日の政変」にて、福岡藩預り(大宰府幽閉中)の三條實美公が神号を染筆奉納。
明治18年5月(1885)、拝殿修復。
明治42年4月(1909)、神饌幣帛料を供進。
第一鳥居を後方から見る
第二鳥居手前右の琴平神社 (大幡主)
第二鳥居手前左の宮地嶽神社(天照女神・大幡主)
龍の彫刻に恵方盤、神額は天照女神の型式
女千木に鰹木五本で、主祭神は女神に男神
女千木 社紋は十二菊紋
左右対の六角竹灯籠
第二鳥居の手前で琴平神社の大幡主が出迎えです。
第三鳥居の前は道路で玉垣があります。ここが本来の社頭でしようか。
拝殿の屋根には唐破風がなく、流し造りです。
向拝柱は新しい朱赤に塗り替えされています。その他は色あせが強く感じられます。
社殿の造りが、赤色(朱赤)の柱に白壁です。
弓立神社の社殿の造りの趣が弓頭神社と似ていて、賀茂神社と思えるのです。
向拝は龍の彫刻に恵方盤、菊の彫刻。拝殿の左右には対の六角竹灯籠があり、正八幡神社を思わせます。
本殿の屋根には女千木と鰹木五本、主祭神は女神で、男女神を祀ります。
一般の賀茂神社でなく、下賀茂神社となります。鴨玉依姫(天照女神)と賀茂建角身命(大幡主)を祀ります。
社紋は十二菊紋です。九州王朝関係の紋です。
由緒では、
景行天皇が筑紫の熊襲親征の時、この地に至り、日高見に登り、霊畤(れいじ)を設け、弓を大石の上に立て、天神地祇を祭り、息子の国乳別王子を筑紫の重鎮となし治めさせます。
大石の地名は、弓を大石の上に立て天神地祇を祭ったのが起原だと云う。
でも、弓頭神社の祭神でも述べたように、この時代は九州王朝時代で、景行天皇の九州征伐(九州巡狩)はありえません。日本書記の作為です。また、生葉郡は国乳別王子とは無縁の地です。
後に、大臣武内宿禰来たりて、磐境神籠(いわさかひもろぎ)を造り、古例にならい弓を大石に立て地祇を鎮祭し、景行天皇を奉祀し、弓立大明神を進号し、弓立神社の起源である、と云う。
景行天皇と武内宿禰とは親子の隔たり程度の年齢差で、由緒のように120年の開きもありません。武内宿禰が生葉郡大石に至り、古例にならい景行天皇を奉祀し弓立大明神と進号し、弓立神社を創立したとは思えません。
下賀茂神社隠しが行なわれています。
新しい由緒が上書きされ、古い伝承が途絶えると、弓立神社の由来はわかりません。
「弓立」を「ゆだち」と読むのか、読めるのか、ここに本来の姿が隠されているように思えます。
筑後志の由緒をみると、最澄、小野道風、清原朝臣正高、大江匡房、三條實美公が訪れています。地方の田園にある神社を訪れています。弓立神社は本来どういう格の神社だったのでしょうか。弓立神社の本当の創立の起源は何か大きなものがあるようです。
■近くには、鴨玉依姫を祀る神社があります
志波の宝満宮
福岡県朝倉市杷木志波字宮原5011
祭神 鴨玉依姫、大幡主(志波彦)
竃門神社 福岡県うきは市吉井町橘田81-1
祭神 鴨玉依姫
「宝満神社」の本宮は山家の宝満宮です。
山家宝満宮 福岡県筑紫野市山家2683
杷木神社
福岡県朝倉市(旧朝倉郡)杷木町池田字上村546
左殿は伊弉諾尊、伊弉冊尊、右殿は大巳貴命、武𤭖槌命の四柱の神を祀る
朝倉で伊弉諾尊・伊弉冊尊は大幡主と天照女神の置き換えです。地域性からして杷木神社の主祭神は大巳貴命の天照女神で、武𤭖槌命は別名、大幡主です。こうしてみると、杷木神社は正八幡大幡主ファミリーの神社となります。鎮座地が「池田」であり、字「上村」も気になります。池田も上村も姫姓です。
■鴨玉依姫と天葺根命
「速佐須良比咩」に似たような神様の名称に、大分県佐賀関に鎮座する早吸日女(はやすひめ)神社があります。鴨玉依姫、天照女神と異名同神です。
佐賀関の豊予海峡の向かいに佐田岬があり、佐田大神の名に因みます。
佐田大神(大幡主)は若い頃の名前は天葺根命(あめのふきねのみこと)と申します。
素戔鳴尊(大幡主)は天照大神への乱行のお詫びに宝剣を献上するため、天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)を製作されます。その天叢雲剣の献上の使者となられたのが、若き天葺根命です。天葺根命は佐賀県小城市一帯に多く祀られています。
※佐田大神、天葺根命、素戔鳴尊は、大幡主が一人三役をされています。
山家の鴨玉依姫と下朝倉の佐田の佐田大神の出会いが、「赤糸伝説」の起源になっています。この神話が奈良では大神(三輪)神社の三輪山伝説に引き継がれ、事代主と活玉依姫の出会い神話に、後に大分では嫗嶽(うばだけ)大菩薩伝説に引き継がれています。
三輪山伝説
神代の頃、美しい活玉依姫のもとに夜な夜な通う男があったが、その素性を知りたいと一夜衣の裾に糸を刺して、翌日、これを頼りに尋ねて行くと、大和の国、三輪神社に入った。そこで、この婿君は三輪の神様即大物主であることがわかった。
嫗嶽大菩薩伝説
藤原(堀川)伊周の娘のもとに、身元の知れぬ男が毎夜通ってきて、娘は子供を身ごもってしまった。母に唆されて娘が男の狩衣に糸を通した針を刺し、その後を付けると、男は祖母山の麓の岩穴へと入っていく。娘が姿を見せるように請うと、男はついに大蛇の本身を現す。そして、狩衣に刺したと思った針は、大蛇の喉元に刺さっており、大蛇は、生まれてくる子供は男児で、武芸で九州二島に並ぶ者はないであろうと告げ、息絶える。
やがて生まれた子は、大蛇が言うとおりの男児で、祖父から名を取って大太と名付けられた。成長が早く7歳で元服し、手足があかぎれでひび割れていたため「あかがり大太」と呼ばれたという。これが後の大神惟基である。
■笹竜胆紋は五三桐紋の隠し紋で正八幡大幡主の神紋
大幡主(国常立神)の紋章は亀甲、五三桐、竹、笹、桔梗、篭目紋、五弁唐花紋 等ですが、五弁唐花紋・桔梗紋は五芒星の隠し紋、六弁唐花紋は六芒星の隠し紋となります。
私の実家の福岡県田主丸町柳瀬村の
柳瀬家は正八幡大幡主を奉斎する桔梗紋で、五弁花紋です。
永松家も正八幡大幡主を奉斎する二重亀甲紋です。清原朝臣永松と名乗っておられます。
篭目紋は六芒星ではありません。よって、イスラエルの「ダビデの星」とは関係ありません。大幡主の白族はアーリア人シュメール系です。大型船、航海海人族であり、保存食の発明者であり、陸上では鍛冶の技術を持ちます。
大山祗の越智族はトルコ系匈奴のヒッタイト系です。製鉄、軸組建築、石工、牧畜、野菜を持ち込みました。
大幡主と大山祗は義兄弟となり、田の神様(タノカンサー)であり、「田」は田圃の田ではありません、「二人の王」という意味です。
※大幡主と大山祗は異名同神です
福岡県朝倉寺内の美奈宜神社の社紋神紋は笹竜胆紋(ささりんどう)です。
笹竜胆紋は五三桐紋の隠し紋であり、実際に主祭神・大幡主は隠されています。表向きの主祭神は天照大神です。
天照大神で祭神表示は無難ですが、天照大神は本殿右横に境内社として祀られていますが、寺内と羽白熊鷲に天照大神は関係ありません。羽白熊鷲と系統的関係があるのは大幡主と大国主です。
また、笹竜胆紋は源頼朝の源氏の紋ですが、源頼朝が鶴岡八幡宮を祀ることと関連がありそうです。鶴岡八幡宮の祭神は応神帝八幡神ではありません。
■木樵大明神(本殿右後方)
木樵大明神の説明は「旅人のブログ」で紹介されています。
旅人のブログ
https://tabi-bito.net/yudachi-shrine-ukiha-city-fukuoka-prefecture/
弓立神社 (福岡県うきは市)2020/07/12
木樵大明神 (福岡県うきは市)2020/07/13
起原の由緒が大分県玖珠郡玖珠町の瀧神社境内にある木樵堂(きこりどう)にあります。
弓立神社が鎮座する生葉郡大石の領主であった清原正高は小松女院に慕われ、小松女院と11人の侍女は京都から九州までやって来ます。大分県の玖珠町の三日月の滝まで来た時、一人の老樵に出会い、清原正高公の消息を尋ねると、すでに結婚していることを聞かされ、絶望のあまり三日月の滝に身を投げます。不要の言葉を発した老樵も後悔し、この滝に入水自殺し、その老樵の遺骨が筑後川を流れ、筑後大石に流れ着き、清原公は弓立大明神社内に老樵を木樵大明神として祀ります。
由緒に「永観元年(931)、少納言清原朝臣正高 卿詣でて 木樵翁の節義を称し、木樵大明神と崇め殿宇と楼門を寄進した」とあります。
「旅人のブログ」さんは、木樵大明神祠前の両脇に植えられた二本のスギの木が同じ位置で、枝が同様の三本に分かれているのを見て、まるで、手のひらを広げて、木樵を守るかのようです、と感歎されています。
※三日月の滝(みかづきのたき)は大分県玖珠郡玖珠町山浦にある滝
小松女院は醍醐天皇の孫
清原正高(Wikipedia)
平安時代中期の人物。官位は豊後介。豊後清原氏の祖とされ、『船岡新宮八幡縁起』などに言及があるものの、来歴等については諸説があり。
醍醐天皇の孫で、章明親王の姫であった小松女院と通じたとして、少納言の官職を解かれて豊後国玖珠郡に左遷された。天延元年(973年)に玖珠に入った正高は、山田郷の地頭であった矢野検校藤原久兼のもとに留まり、その娘を妻として嫡子・正通(正道とも)を儲けた。後に赦されて京に戻り、山科で晩年を過ごしたとされる。また、横笛の名手であったという。
玖珠に伝わる伝承によると、正高を慕う小松女院は後に当地まで訪ねてきたが、正高に既に妻子がいると知り、三日月の滝に身を投じ、侍女11人もこれに従ったという。正高は小松女院たちの供養のために、当地に石祠を建て、また、後の正高寺の前身となる寺院を建てたとされる。
共に重要な人生の相手であれば、踏ん張って一途でないと。
普通は、人生色々、男も色々、あきらめも肝心。
あきらめて命を絶つなんて!
となりますが。
昔の人は志向力抜群だったのでしょう。
「わが胸の 燃ゆる思いに くらぶれば 煙はうすし 桜島山」 勤王の志士・平野国臣
平野国臣神社 福岡市中央区今川一丁目7番 (1999-01-26) 現在は鳥居も立っています
私も小松女院に倣って現代版恋の世界へ。
君を求めて数百里。
やっと辿りついたら、
意見と考えが合わず、
私はお払い箱。
あー悲恋とは言いません。
私には絶望は許されないのです。
ならばと、
君のあの人は、今はもういない
だのに、なぜ
何を求めて、君は行くのか、
当てもないのに。
だのに、なぜ
歯をくいしばり、君は行くのか、
そんなにしてまで
(「若者たち」から参照)


























