No.200 由緒不明な福岡県三潴の弓頭神社
宮原誠一の神社見聞牒(200)
令和4年(2022年)08月17日
ブログ「No.61 水沼君と水沼別君の祖・国乳別命」2018年5月21・25日 にて、福岡県久留米市三潴町高三潴の弓頭神社の祭神について、結論に至らず、そのままになっていました。
今回は、今までの概要を述べ結論に至ります。
現況の神社の祭神を否定し、自論の祭神を述べるのは心苦しく、神社関係の方々に不快感と迷惑を与えるのではないか、と思うのですが、ここは心を鬼にして、この自論を展開するのが、このブログの目的です。心の反駁を抑えて頂き、冷静に配慮願いたいのです。
弓頭神社 福岡県久留米市三潴町高三潴521
弓頭神社の由来記では、水沼別(みぬまわけ)の始祖、国乳別(くにちわけ)皇子を主祭神とする。
景行天皇の皇子国乳別皇子が「古式に則り、弓矢楯矛を賜り下向し賜い、高三潴の地にご在所を定め給いて、久しく筑紫地方を治め給へり」に由来し、この高三潴は、水沼君累代の政治の地であり、古代行政文化の中心として繁栄した処です。
また、古伝説に「神功皇后征韓の砌(みぎり)、弓大将なるが故に、弓頭大明神と称(とな)え奉られる由」との説の二節があります。
※水沼君の本拠地は北野町大城
北野町大城の赤司八幡宮の水沼姓宮崎宮司は、水沼君の末裔といわれるが、水沼君の出自は不明といわれる。「私たちは古代先祖からずーっと大城にいました」と言われる。本拠地は大城であり、三潴郡は本拠地ではないと言われる。
■弓頭大明神
神功皇后新羅征討の折の弓大将こと弓頭大明神については、「記紀」にも、止誉比咩神社本跡縁記にも、高良玉垂宮神秘書及び高良玉垂宮縁起にも記載されていません。
日本書記の成務天皇紀は「楯矛を賜いて、その表(しるし)とする」と記載され、弓矢にはふれていなくて、弓頭神社の「弓頭」の名称は弓矢に根拠を置いていません。よって、弓頭大明神・弓頭神社の創立、名称の根拠ははっきりしません。
また、郷土史家の冨松俊雄氏によれば、「もともと弓頭神社の祭神については分からなくなっていたのが、明治の初め頃に神官を兼務していた船曳鉄門(ふなびきかねと)によって国乳別命と唱えられたものだ」という。その前の祭神名は「御縣神」社号「御縣社」とされたという。
三潴町高三潴の弓頭神社の祭神については、はっきりしないのが実情です。
船曳鉄門(ふなびきかねと)
1824-1895年、幕末-明治時代の国学者でもあり、安芸国嚴島神社宮司・筑前香椎・筑後高良神社権宮司を歴任する。明治28年(1895)没、72才。
船曳家は久留米市大石町の大石神社の代々の祀官であった。大石神社は、江戸期には「大石太神宮」「大石神社」と称していたが、代々この神社の祠官であつた船曳鉄門が明治になって自論から社名を改称し「伊勢天照御祖神社」と唱えた。伊勢天照御祖神社の元宮は久留米市北野町今寺の四柱神社です。
もともと弓頭神社の祭神は分からなくなっていた。明治の初めごろに弓頭神社神官を兼務し大善寺の僧侶でもあり郷土史家の船曳鉄門によって国乳別命と唱えられた。彼は縁起書を著わし、高三瀦地域にある三ヶ所の山陵を御子から三代のものと比定している。
寛文十年(1670年)「久留米藩社方開基」によれば、船曳鉄門の先祖の船曳上野は「当大明神は神功皇后新羅征討の折、弓大将たるによって、ご帰朝御、弓頭大明神と号す」と記し、弓頭大明神が国乳別命とは記されていません。
さらに、船曳鉄門の著書「海北道考証抄録」では、「神功皇后征韓の御時、弓軍の督将にて彼地に渡航ましますより弓頭大神と称し奉れる由見ゆ、これは後世文字に因って府会せる俗説也」と言ってます。船曳鉄門自ら、神功皇后征韓時の弓軍督将説は否定し、こじつけに近い論説で、祭神は国乳別命と唱えています。
さらに、寛延2年(1749)久留米藩への書上げ書(寛延記)では、末社に「矢五郎」が記載されています。「矢五郎」を末社に持つ筑後地方の神社は、景行帝(大足彦・天種子)と関係はありません。
昭和19年の福岡県神社誌・弓頭神社では次のようにあります。
創立不詳
日本書記 成務天皇紀 大足彦 忍代別天皇 次妃・襲武媛の生まれ、国乳別皇子と国背別皇子、豊戸別皇子。その兄、国乳別皇子は、これ水沼別君の始祖なり云々。
国造を任命する時には必ず楯矛を授けて証とすると成務天皇紀にあり。
この皇子、始封の時、弓矢楯矛を賜りて当地を鎮め給えるより弓頭の社号起これり。
又、征韓の時、弓箭の督将なるが故に、この社号ありと云えり。
■熊野速玉神社
弓頭神社の本殿右手奥に熊野速玉神社が境内社として鎮座。
明治31年(1898)に大阪大成館作成弓頭神社の銅版図をみると、弓頭神社の南に熊野速玉神社が描かれていて、この神社が明治の合祀令により移転したという。もとは、五十町古墳の上に熊野速玉神社は鎮座していたが、移転した時、石室の残骸で「郷社弓頭神社」の記念碑は造られたと社伝にあります。
熊野速玉神社の祭神は正八幡大幡主です。出雲の熊野速玉神社の祭神から、祇園社のスサノヲ尊とよく勘違いされます。
その左に天満宮が鎮座します。
さらに、弓頭神社の社殿は大幡主の趣があちこちに残されています。
拝殿向拝屋根の唐破風、隋神門では、表に龍の彫刻、裏に菊の彫刻が施されています。
かつて、その古宮は大幡主関連の神社ではなかったのか、と想定できるのです。
境内社・熊野速玉神社
そして、この弓頭神社の特徴は、社殿の造りが、赤色(朱赤)の柱に白壁です。
この社殿の造りは九州では「賀茂神社」となります。
弓頭神社 福岡県久留米市三潴町高三潴521
本殿の屋根には外削ぎの男千木、五本の鰹木で主祭神は男神
■賀茂神社の祭神
京都の本社では上下の賀茂神社がありますが、九州では一社の賀茂神社です。
祭神は次の三柱となります。
賀茂別雷命(かもわけいかづち)
鴨玉依媛命(かもたまよりひめ)
賀茂建角身命(かもたけつぬみ)
賀茂別雷命は崇神帝で、神武天皇僭称の崇神天皇です。記紀によって贈られて天皇です。その母は鴨玉依姫となります。
賀茂別雷命は崇神天皇で、神武天皇ではありません。それを隠すため、母は「玉依姫」とされます。神武天皇の母は神玉依姫です。崇神天皇の母は鴨玉依姫です。
加茂神社の「加茂」の由来は鴨玉依姫の「鴨」から来ています。
賀茂神社は古代の賀茂氏の氏神を祀る神社で、古くは「賀茂大神」と称し、祭事の葵祭は有名。この賀茂神社から勧請を受けた神社が、「加茂神社」「賀茂神社」「鴨神社」と称し日本各地に約300社あります。
本当の賀茂神社の祭神の配祀は次のようになっています。
賀茂別雷神社 [かもわけいかづち]
(通称「上賀茂神社」)
祭神 崇神天皇 (大幡主)
賀茂御祖神社 [かもみおや]
(通称「下鴨神社」)
祭神 東殿:鴨玉依姫命(天照女神)
. 西殿:賀茂建角身命(大幡主)
賀茂神社の祭神は一般の由来記が示す神武天皇とその母・玉依姫ではなく、大幡主(ワニ)と天照女神(カモ)です。それ故にカモ神社と称します。
賀茂神社
福岡県うきは市浮羽町山北字宮ノ下2090
うきは市浮羽町山北の賀茂神社も社殿の造りが、赤色(朱赤)の柱に白壁です
正八幡神社 福岡県うきは市浮羽町西隈上618
祭神 正八幡大幡主
※三潴の弓頭神社、山北の賀茂神社、西隈上の正八幡神社の社殿の造りは、天照女神と大幡主を祭神とする造りです
■弓頭神社の祭神
ご神体は石像です。
賀茂神社の祭神・賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)と想定しました。
弓頭大明神は神功皇后新羅征討の折の弓大将とされていますが、神功皇后の時代でなく、卑弥呼女王の倭国大乱時代の弓大将と考えています。大幡主は神功皇后の時代でなく卑弥呼女王の倭国大乱時代の将軍格伊支馬(イキメ)の人です。
■景行天皇の九州征伐(九州巡狩)
景行帝の九州征伐(九州巡狩 じゅんしゅ)のルートは実に不思議です。
豊の国(福岡県京都郡)を出発し、宮崎、鹿児島、熊本と周り、最期は筑紫の浮羽で終わり、どこかの都に帰ります。記述が不自然です。また、景行帝の九州巡狩記事については、『古事記』に記載がなく、『日本書紀』のみに詳細に記載があることもまた不思議なことだ。
景行帝の九州巡狩のルートは誰かの移動の事跡を参考に創作されたのではないか、と思っています。このルートは、大幡主ご一統の移動と考えればよいのではないか。最期は福岡県北筑後東部の杷木・浮羽に落ち着き、それから朝倉郡に展開します。そうすると、浮羽郡、朝倉郡に埴安大神(大幡主)の神社が多く分布するのが理解できるのです。
九州征伐(巡狩)ルート(従来説)
従来は、巡狩ルートを次のように解釈してきた。出発地の周芳は山口県防府市である。目的地の日向国は宮崎県である。景行帝は京(行橋市)に上陸して宮崎県へ向かった。「碩田国に到る」とある。碩田(おおきた)は大分市であり、景行帝は行橋市から大分市へ向かい、大分市から日向国(宮崎県)へ行ったと解釈した。従来の巡狩ルートは次図のようになっている。
景行の九州遠征行路図
古田武彦氏『盗まれた神話』(朝日新聞社)より
注目すべきは、熊本県球磨盆地を通り過ぎているのです。当時、熊の郡(人吉)は何もありません。また、山鹿菊池盆地も通り過ぎているのです、ここには、景行帝由緒の山鹿灯籠祭の大宮神社があります。大宮神社の由緒はウソでしょうか。
景行帝の纒向日代宮が、日本書記のように近畿奈良にあったとは思えない。ヤマトタケルは九州北部にいました。景行帝、ヤマトタケルの活動の地域は北部九州、豊前の北部です。
そもそも、景行天皇は日本書記によって天皇を与えられた贈景行天皇(大足彦)です。
10. 崇神天皇(すじん)御間城入彦
11. 垂仁天皇(すいにん)活目入彦=宇佐津彦
12. 景行天皇(けいこう)大足彦
13. 成務天皇(せいむ)若足彦
14. 仲哀天皇(ちゅうあい)足仲彦
これらの天皇も日本書記によって「天皇」を与えられた贈天皇で、本拠地は豊前の北部です。豊前王権です。これらの天皇の年代は、孝霊天皇、孝元天皇、開化天皇の九州王朝年代と重なります。九州王朝の元で景行天皇の九州征伐(九州巡狩)はありえません。日本書記の作為です。









