No.194 仁徳天皇・難波から久留米市草野の若宮八幡へ里帰り

 
宮原誠一の神社見聞牒(194)
令和4年(2022年)04月08日
 

草野の若宮八幡宮(福岡県久留米市草野町吉木)は後鳥羽天皇御宇、文治3年(1187) 筑後国山本郡吉木の武井城主草野太郎永平によって、仁徳天皇を祀る摂津国上難波村の難波神社から勧請されました。仁徳天皇を祀る若宮八幡宮の勧請元宮が明示されている由緒正しい神社です。

草野永平は源平合戦の折、摂津国難波神社に祈願して功をあげ、源頼朝から筑後国在国司、押領使の両職を与えられ、その神徳に報いるため勧請され、耳納山麓にある草野家の居城・竹井城の下に創建されました。

現在、正殿に仁徳天皇、相殿に住吉宮と玉垂宮を祀っていますが、住吉大神、高良大神は昭和9年の追祀となっています。※「昭和9年の追祀」は「山本郡吉木村若宮八幡宮縁起」からすると疑義があります。

 境内神社
 草野社(草野太郎永平歴代之霊)
 小森神社(草野鎮永の霊)
 高木神社(高木大神)
 三光社

 

 

難波神社(なんばじんじゃ)
大阪府大阪市中央区博労町四丁目1-3
祭神 仁徳天皇
5世紀の初め、反正天皇が河内国丹比柴籬宮(たじひしばがきのみや 現松原市上田七丁目)に還都を行った時、同地に父仁徳天皇をしのんで創建され、仁徳天皇、倉稲魂を祀る。(丹比柴籬宮の存在を確かめる遺構や遺物は見つかっていません。)

天慶6年(943) 朱雀天皇の勅命により摂津平野郷(現天王寺区上本町)に鎮座。(仁徳天皇の宮・高津宮は上本町あたりにあったとされる)

豊臣秀吉が大坂城を築く際に、天正11年(1583) 博労町の現在の地に移転となる。当地は上難波村といわれ、社号は「上難波神社」又は「仁徳天皇社」と称していたが、明治8年(1875)「難波神社」と改められた。

 
久留米市草野町の「山本郡吉木村若宮八幡宮縁起」には次のように記されています。

「鳥羽天皇文治年間(1185-89)草野太郎永平公、仁徳天皇を祀る摂津難波本社を勧請。本社は難波大江橋(本町の農人橋)にあり。難波本社は豊臣秀吉公により上難波村に遷座す。勧請の神輿が山本郡蜷川村に至った時、暴風雨大洪水暴に遇い、仮殿を設け、神輿を翌年の11月まで奉安する」

難波神社は大阪府松原市上田から遷座し、難波大江橋(本町の農人橋)にあったようです。天正11年(1583)豊臣秀吉公の大阪城築城の折、上難波村(博労町の現在地)に遷座しています。

難波神社勧請の神輿が山本郡蜷川村に至った時、暴風雨に遭い、仮殿を設け、神輿は翌年の11月まで留まっています。そのためか、草野町吉木の若宮八幡宮と蜷川の筥崎八幡宮の古宮では同じ門光紋の丸軒瓦が使用されています。

 

山本郡吉木村若宮八幡宮縁起
筑後州草野荘之鎮坐山本郡宗社若宮八幡大神社記
當社者仁徳天皇 神霊分光而 相殿 高良大神 住吉大神 凡三柱神鎮存于一祠也老伝祢方八町社地云々
摂社亦許多在
詳蓋後鳥羽天皇文治年間草野太郎永平所勧請攝津難波本社仁徳天皇神気也
仁徳天皇本社在難波
大江橋 今曰 能人橋 地東行内云々 世伝謂古皇居跡乃仁徳天皇所都之宮宅地云々 桓武天皇延暦四乙丑年勧請于帝都平野云々 然難波本社者近世豊臣秀吉公遷于上難波村云々
至山本郡蜷川村上時 風雨大発洪水暴溢 一夜河渺瀰而川陸不分故 姑構仮殿於其地以暫奉安神輿 明年十一月遂鎮坐于當山是乃所以當社之資始資起也

 
 
久留米市蜷川の筥崎八幡神社
福岡県久留米市大橋町蜷川(字宮ノ前)1012
文治3年(1187)、草野太郎永平によって、仁徳天皇を祀る摂津国上難波村の難波神社からの勧請神輿が山本郡蜷川村に至った時、暴風雨に遭い、仮殿を設け、神輿は翌年の11月まで一年以上留まり、神輿を安置した所縁の地です。そのためか、草野町吉木の若宮八幡宮と蜷川の筥崎八幡宮の古宮では同じ門光紋の丸軒瓦が使用されていました。

この時期、蜷川村には筑後川の水神である荒霊大明神(荒五郎大明神)を祀る片淵神社が鎮座でした。
片淵神社は水神社で、「智僧2年(566年)、蜷川村発祥の頃、氏神として初めて片淵に勧請す。」とあります。古くは「荒霊宮」と称し、明治2年(1869)に片淵神社と改称し、大正元年(1912)に現在所に遷宮。

智僧2年(566)は「大化」の年号より古く、九州年号です。
荒五郎大明神は千歳川(筑後川)氾濫の元となる荒魂とされ、御神徳は水災を除き田畑の豊稔を司る農業神として尊崇されて来ました。

智僧2年(566)は、筑紫君王朝の年号「知僧」(565年-569年) に相当します。
磐井の乱が531年で、物部王権年号「殷到」(531-535)にあたり、智僧2年は磐井の子「葛子」の時代となり、九州王朝の政争混乱期です。その頃、蜷川村が発祥したと云う。

片淵神社は当初、千歳川(筑後川)の片淵にあったと云う。場所は旧浮羽郡田主丸町片ノ瀬がすぐ北に位置し、「片ノ瀬」地名の発祥の起源でしょうか。そして、大正元年(1912)に現在所に遷宮しました。

 

寛文十年(1670)「久留米藩社方開基」片淵神社
筑後国山本郡蜷川村荒五郎大明神、牛馬之守護神、祢宜号酒見次大夫と、龍宮神 智僧二年十一月廿三日ニ此界ニ上給候。荒五郎大明神を祝初候。其時酒見大学と申者祢宜仕、十一月廿三日ヲ祭礼日ニ定、祭礼仕初候。以来千百余、代々之祢宜私迄退転不仕、祭礼仕、牛馬安隠と令祈修候

寛文十年(1670)「久留米藩社方開基」久留米水天宮
当社尼御前大明神、千年川之水神ニテ御座候。左ニ荒五郎大明神、右ニ安坊大明神同殿ニ三社御座候。古之宮地は京隈梅林寺山ニ社御座候。山之下ニ御池御座候。何之代より開元建立御座候哉伝不奉承候。然処、慶安三年庚寅九月、忠類様ヘ言上仕、瀬之下宮屋敷致拝領、社再興仕候事

 

社殿は平成30年(2018)1月に改築されました、手前が筥崎八幡神社、右奥が片淵神社

 

改築前の本殿屋根の門光紋の丸軒瓦

 

蜷川の筥崎八幡宮 由緒略記
御祭神 応神天皇
合祀  高良玉垂命、住吉大明神、保食神、大鷦鷯尊
縁起
永正11年(1514) 草野城主・藤原(草野)重永、筑前筥崎宮より勧請し一町五反寄進す
当時、蜷川村の神課(氏子)20余戸
社殿の再建
1.天正年中(1580) 鹿毛大蔵入道高善
2.寛文7年(1667) 鹿毛彦兵衛尉と氏子中
3.享保元年(1716) 鹿毛彦兵衛と氏子中
4.安政5年(1859) 鹿毛九左衛門と氏子中
御神徳は開運招来、五穀豊稔、家内安全の守護神として信仰篤し
大鳥居の「敵国降伏」の扁額は醍醐天皇の御宸筆にて伏敵の名あり

 

改築前の蜷川の筥崎八幡神社

 

 

改築前の本殿屋根の門光紋の丸軒瓦

 
 
草野の若宮八幡神社
福岡県久留米市草野町吉木2611
文治3年(1187)筑後国山本郡吉木の武井城主草野太郎永平によって、仁徳天皇を祀る摂津国上難波村の難波神社から勧請されました。仁徳天皇を祀る若宮八幡宮の勧請元宮が明示されている由緒正しい神社です。

 

日田街道の第一鳥居(2022.4.5)

 

第二鳥居 手前は鳥居杉

 

第三鳥居

 

楼 門

 

左・玉垂宮(天照女神)、右・住吉宮(大幡主)

 

楼門を振り返る

 

現在の楼門の屋根改装前に屋根の棟に貼られていた門光紋の丸瓦

 

 

左横が駐車場、両側に六角灯籠、〆掛標柱石の神紋は左三巴紋

 

中腹の駐車場から脊振山を望む、左下は楼門

 

拝 殿

 

拝殿と本殿

 

本殿の屋根は流造り、波の彫刻、左三巴紋、天照女神の花菱紋

 

小森神社(草野鎮永の霊、草野家最後の城主)

 

高木神社(大幡主)

 

草野社(草野太郎永平歴代之霊)

 
 
草野家について
長寛2年(1164)、高木永経が肥前国佐賀郡高木庄から筑後国山本郡草野荘に移住し竹井城を築き、地名をとって高木氏から草野氏を名乗ったことになっています。
草野永経の子・永平は源平争乱のおり、平家と闘った軍功により御井、御原、山本三郡の三千町を賜り筑後国守護職(筑後国在国司)と押領使両職を安堵され、さらに肥前国鏡社大宮司に補任された。

弘安3年(1281)の「弘安の役」にて、草野永綱・経永父子が出陣し、勲功により唐津庄を賜り鏡神社の大宮司を兼ねている。筑後草野家が本家、肥前の松浦草野家は庶家とされ、支族に井上家、赤司家、上妻家がある。
※この井上家が、草野氏滅亡後、北野町八重亀村に来られています。

筑後草野家の分家である寿本寺(宮原家の檀家寺)の若い住職さんは「私のご先祖は唐津鏡山から浜玉吉井にかけておりました」と言われました。
古代氏族の流れは高木氏であるから、若宮八幡神社境内に高木神社(大幡主)が祀られていると理解しています。氏族の流れは時の政変により権勢者に叶うように変るもの。若宮八幡宮の氏子さんの名前を見ると高木氏の流れとは思えません。高木氏は大幡主の流れでしょう。

草野を「くさの」と読めば普通の名前ですが、これを「かやの」と読むと流れはガラリと変わります。大山祗系のご一統となります。竹野を「たけの」と読むは現代読みですが、古代は「たかの」と読み、意味は変わります。

草野から竹野にかけては、大幡主を祀る神社、大幡主・木花咲耶姫を祀る神社が並びます。大幡主・木花咲耶姫は橘族のご先祖です。草野永経は本当のご先祖を知っていたからこそ草野の拝領を望み、ご先祖の地に移ってきたのではないでしょうか。

戦国時代後期の草野家当主鎮永(家清)は、若宮八幡宮の上にあった代々の居城である竹井城に不安を感じ、天正5年(1577)新たに発心嶽城を築き乱世における草野家の拠点とされます。

天正15年(1587)、秀吉は島津討伐するため九州に出陣、その圧倒的な軍事力の前に島津氏は秀吉軍に降伏。秀吉の九州征伐に際して草野鎮永は、島津氏に味方して発心城に拠って秀吉勢を迎え撃ったが、圧倒的な秀吉軍になすべくもなく降伏、下山、善導寺に逃げ込んだ鎮永は秀吉に謀られ木塚の里で自害したという。ここに草野家本家は滅ぶことになります。

この時の家老が井上家です。井上一族は北野町金島に移住されます。
私の住む金島には多くの井上さんが居られ、神社行事保存会の役員をされ、私も一緒に参加しております。その折に井上家の事情を聞くことができました。


全国の井上さん
柳瀬玉垂神社の宮司も井上さんです。
「井上」は「井の神 伊の神 いのかみ」であり、「伊の神」奉祭一族とみています。私の想定です。 全国の井上さんを「名字由来net」でみてみました。

 

井上さん都道府県別ランキング「名字由来net」から


井上さんの多い地域 TOP5
都道府県 人数
東京都. 63,900人
大阪府. 57,400人
神奈川県 54,200人

福岡県. 52,400人
兵庫県. 49,100人
市区町村 人数
兵庫県姫路市. .7,500人
神奈川県相模原市 7,200人
東京都八王子市. 6,600人
広島県福山市 . 5,100人

福岡県久留米市. 4,900人

井上さんの比率が多い地域 TOP5
都道府県 比率

福岡県. 1.03711%
佐賀県. 0.9359%
愛媛県. 0.90802%
兵庫県. 0.90232%
京都府. 0.86638%
市区町村 比率

福岡県朝倉郡東峰村. 29.063%
東京都利島村 . . 13.823%
岡山県英田郡西粟倉村 8.552%
東京都御蔵島村. . 8.451%

奈良県宇陀郡曽爾村. 6.728%

 
福岡県久留米市に井上さんが多いのは生活から実感します。
市区町村別に井上さんの比率が多いのが福岡県朝倉郡東峰村とは驚きです。奈良県宇陀郡曽爾村(そにむら)は5位です。東峰村は小石原村と宝珠山村が平成合併したのが東峰村です。この地域は高木神社が多いので、高木系の方々が多いのではと想像しますが、井上さんが多いのです。この地域の高木神社は後のことで、英彦山神宮の大行事社の影響です。

朝倉市須川の朝闇神社の祭神は高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)とされますが、実際はそうではありません。祭神の高皇産霊尊は別名、高木大神です。朝闇神社は別名を大行事社といい、英彦山神宮からみの高木大神を祭神とする神社を大行事社といった。
朝倉市上須川の高木神社も実態は熊野神社でした。
田主丸町高木の高木神社の祭神は高皇産霊神とされますが、そうではありません。氏子さん達は橘族が大部分です。

 

大行事社
中世の英彦山は、村がその英彦山神領域の村であることの明示として、村の鎮守神として大行事社を置いていた。
祭神:高皇産霊神(高木神)
英彦山神領の末社:48大行事社
田川郡添田町、田川郡大任町、嘉麻市、久留米市田主丸町、宮若市、京都郡みやこ町、築上郡築上町、筑紫野市、朝倉郡東峰村、朝倉市など旧、英彦山神領に20数社が鎮座する。「大行事社」とされていたが、高木神を祀ることで明治以降に「高木神社」と改名された。

奈良県宇陀郡曽爾村
人口約2000人、「日本書紀」仁徳天皇紀の「素珥山」と古くから歴史に現れる。また「和名抄」には「宇陀郡漆部(ぬりべ)郷」とある。奈良時代には漆を生産する漆部造(ぬりべのみやつこ)が置かれていた。

 
 
福井神社に戻された東峰村の高木神社
福岡県朝倉郡東峰村(旧宝珠山村)福井に福井神社が鎮座されています。
その前の神社は彦山麓七大行事社の一つとされ、高木神社と称していました。
福井神社は大宝元年(701)本社の北500mにある「福の井」での奇跡に遭遇した修験道の開祖・役行者の小角によって創建されたと伝えられる。

大行事社であった時の祭神は高木大神(高皇産霊神)であり、明治に高木神社と改称され、その後、福井神社に戻されています。
福井神社の祭神は伊弉諾尊(いざなぎ)、速玉男尊(はやたまのお)、事解男尊(ことさかお)と表記されています。伊弉諾尊を伊弉冉尊(いざなみ)と取り替えますと、熊野神社となります。 福井神社の元は熊野神社だったのです。

福井神社
福岡県朝倉郡東峰村福井925-1