宮原誠一の神社見聞牒(155)
令和2年(2020年)10月07日
No.155 宇佐市安心院の妻垣神社(一柱騰宮)とアカル姫
安心院(あじむ)の盆地の北に「三女神社」、南にアカル姫を祀る妻垣(つまがき)神社(一柱騰宮)があります。妻垣神社は共鑰山(ともかぎやま)の麓にありますが、すぐ側の南西に龍王山があり、その頂上の海神社があり、アカル姫の弟・豊玉彦とその姫君・豊玉姫(田心姫)を祀ります。
アカル姫は正八幡大幡主とイザナミノミコトを両親とする姫君です。
安心院盆地を東に山越えしますと、佐田発祥の地とされ、大山咋神を祀る佐田神社があります。ここで、市杵島姫を母とする大山咋神が誕生されたと言います。市杵島姫と天忍穂耳命を両親とするご子息が大山咋神です。その市杵島姫はアカル姫とスサノオ尊を両親とする姫君となります。
魏志倭人伝のヒミコの時代に、伊都国(いつこく)の長官を「爾支 にき」といい、投馬国(つまこく)の長官が「弥弥 みみ」とあります。伊都国は今の糸島地方であり、長官の爾支(にき)は彦火々出見尊(山幸彦・饒速日 にぎはやひ)でした。投馬国は今の宇佐地方であり、長官の弥弥(みみ)は天忍穂耳命(海幸彦・勝速日 かつはやひ)でした。
よって、天忍穂耳命・市杵島姫と大山咋神の親子にとって、安心院は思い出の地です。
田心姫と市杵島姫を祀るのが「二女神社」ですが、後に鴨玉依姫を追祀して「三女神社」となります。鴨玉依姫は豊後を中心とした方で、別名・早吸日女(はやすひめ)です。
大山咋神と鴨玉依姫の朝倉での出会いは、赤糸の神話で語られ、その子息が後の(贈)崇神天皇です。
アカル姫を祀る妻垣神社は安心院の中心的神社で、その古宮は一柱騰宮(あしひとつあがりのみや)とされます。
「あしひとつあがりのみや」は、古事記では「足一騰宮」、日本書紀では「一柱騰宮」と表記されています。意味は、一つ柱で宮殿の奥を高く跳ね騰(あ)げ支え、深見川の淵に建て掛けた宮殿、という意味です。「足一騰宮」「一柱騰宮」の本当の読みは「あしひとつあげのみや」と思っています。その模式図が百嶋メモに残されています。
一柱騰宮は三期の変遷があり、
一期は深見川の瀬に建て掛けた一つ柱で建物の奥を高く跳ね騰(あ)げ支えた宮殿
二期は深見川から岡に上がった宮殿
三期は現在の妻垣神社
となります。
現在の神社由緒での「騰宮」表記は、古事記の「足一騰宮」となっています。以前は「一柱騰宮」の表示でした。
一期の一柱騰宮
二期の一柱騰宮
三期の一柱騰宮(妻垣神社)
ところで、現在の妻垣神社の祭神表示は比咩大神(玉依姫命)・八幡大神(応神天皇)・神功皇后です。アカル姫の名はすっかり消されています。
妻垣神社と宇佐神宮とは関連があり、本来の主祭神は両社共にアカル姫ですが、現在の宇佐神宮の祭神は少々変っています。
現宇佐神宮の祭神は第一宮(応神帝)、第二宮(宗像三女神)、第三宮(神功皇后)となっていて、(贈)応神天皇が主祭神です。中央殿の比咩大神(宗像三女神)は主祭神ではないのです。
中央殿の祭神・比咩大神は、アカル姫、鴨玉依姫、宗像三女神と時代的に変遷しています。
左右殿の(贈)応神天皇と神功皇后は大分八幡宮から勧請されました。
境内を廻り社殿を見ながら、古代の妻垣神社(足一騰宮)と現在の妻垣神社を解説していきます。かくも、神社とは、時の権力の介入を受け変遷するものかと驚きます。
古事記の「足一騰宮」となっていますが、以前は日本書紀の「一柱騰宮」でした
鹿子岳(左) 妻垣神社入り口(中奥) 共鑰山(右)
鹿子岳(左) 共鑰山(中) 龍王山(右)
妻垣神社 大分県宇佐市安心院町妻垣字大門203
第一鳥居
三箇所の鳥居の扁額は全て「八幡宮」となっています、「妻垣神社」ではありません。
この「八幡宮」は(贈)応神天皇(誉田別命八幡神)の「八幡」ではありません。
宇佐宮八幡大神の正八幡大幡主、宇佐宮八幡比咩の耀姫(アカルヒメ)の「八幡神 やわたのかみ」です。
アカル姫は正八幡大幡主とイザナミノミコトを両親とする姫君です。
扁額は「八幡宮」
第二鳥居
奥の右手が境内入り口の南門があります
平成3年(1991)9月、台風19号により倒壊、平成13年再建されました。
妻垣神社の社頭
妻垣神社の南門 右に由緒案内があります、以前の正門は西門でした
拝殿 両脇の灯籠には橘紋が打ってあります
社紋・神紋は宇佐神宮左三巴紋で、尾は少し流れています、一般の左三巴紋ではありません。
鎌倉の鶴岡八幡宮は京都男山の石清水八幡宮(豊玉彦)からの勧請で、二期宇佐神宮からの勧請ではありません。石清水八幡宮の八幡神は「はちまんのかみ」でなく、「やわたのかみ」です。
本殿の鬼板には橘紋、屋根の棟には五七桐紋(左右)と花菱紋(中)が打ってあります
妻垣神社由緒(案内板)
妻垣神社由緒(案内板)
鎮座地 大分県宇佐市安心院町妻垣字大門203番地
祭神 比咩大神(玉依姫命)・八幡大神(応神天皇)・神功皇后
元宮
足一騰宮(あしひとつあがりのみや) この妻垣の地は、わが国最古の歴史書「古事記」にも「日本書記」にも神武天皇がこの地に立ち寄られたことが記されています。神武東征のおり、宇佐国造の祖、宇佐津彦命と宇佐津姫命の兄妹がお迎えし、足一騰宮を建てて歓待申し上げたのです。
比咩大神
神武天皇がこの地に滞在なさったおり天皇みずから祭祀を行われ、母后玉依姫命を、ここ共鑰(ともかぎ)山(別名-妻垣山)にお祀りし、そこを「足一騰宮」と名付けられました。このことより当社の主祭神は玉依姫命であり、比咩大神という神名で人々に称えられました。また天平5年(733)、比咩大神は宇佐宮二之御殿に祀られます。このことより当社は、宇佐宮二之御殿の元宮ともいわれています。
八幡大神
宇佐宮の「八幡宇佐宮御託宣集」によれば天平神護元年(765)、八幡大神こと八幡大菩薩はこの地に神幸し比咩大神と語り合われた、とあります。八幡大菩薩が御託宣を下し、勅使石川朝臣豊成に命じて神殿を共鑰山麓に創建させ、比咩大神と八幡大神をお祀りしたのが、妻垣神社のはじまりであります。
神功皇后
天長年間(824~834)に宇佐宮三之御殿より神功皇后を勧請し、お祀り申し上げました。以来、当社は比咩大神、八幡大神、神功皇后の三柱の神を祀って八幡社と号し、宇佐宮八ヶ社の一社となっております。
嘉暦3年(1328)、足利尊氏は武運の再興を願って宇佐宮に参籠し、当社で流鏑馬の神事をとり行いました。
天正9年(1581)、豊後大友軍の兵火によって社殿、神宮寺のすべてを焼失しましたが、その後、中津城主黒田長政公によって社殿が再建されました。
明治12年(1879)9月17日、当社は縣社に列せられ、宇佐両院の宗社として今日に至っております。
宇佐宮八ヶ社
宇佐神宮が現在地に鎮座するまでに八ヶ所の地を経たといい、宇佐八ヶ社と呼ばれています。①「田笛神社」豊後高田市犬田、②「鷹居八幡社」宇佐市上田、③「乙咩社」宇佐市下乙女宮本、④「大根川神社」宇佐市富山、⑤「酒井泉社」宇佐市辛島、⑥「郡瀬社」宇佐市樋田字瀬社、⑦「妻垣神社」宇佐市安心院妻垣、⑧「小山田社」宇佐市小向野
乙咩神社(おとめ)、酒井泉神社、郡瀬神社(ごうぜ)は辛島氏の創建です。
宇佐神宮の変遷
妻垣神社は宇佐神宮と一体ですから、現宇佐神宮の由緒と重なります
宇佐神宮の変遷は三期に分けられます。
(一期) 宇佐神宮亀山の本当の主祭神(中央)はアカル姫です。
(二期) 八幡神は(贈)応神天皇(誉田別命)、比咩大神は鴨玉依姫です。
(三期) 筑前大分宮の(贈)応神天皇・神功皇后と宗像三女神です。
現宇佐神宮は第一宮(応神帝)、第二宮(三女神)、第三宮(神功皇后)となっていて、(贈)応神天皇が偉いようになっていますが、宗像三女神のほうが格上です。
中央殿の祭神・比咩大神は、アカル姫、鴨玉依姫、宗像三女神と時代変遷をしています。
神社由緒による妻垣神社の祭神と始まり
■比咩大神について
神武天皇がこの地に滞在なさったおり母玉依姫命を共鑰山に祀り、ここを「足一騰宮」と名付けられた。当社の主祭神は玉依姫命で、神名は比咩大神という。天平5年(733)、比咩大神は宇佐宮二之御殿に祀られ、当社は、宇佐宮二之御殿の元宮と云われている。
■八幡大神について
天平神護元年(765)、八幡大神はこの地に神幸し比咩大神と語り合われた。八幡大神は御託宣を下し、勅使石川朝臣豊成に命じて神殿を共鑰山麓に創建させ、比咩大神と八幡大神を祀ったのが、妻垣神社のはじまりであると云う。
■現在の妻垣神社について
天長年間(824~834)に宇佐宮三之御殿より神功皇后を勧請し、妻垣神社は比咩大神、八幡大神、神功皇后の三柱の神を祀って八幡社と号す、とあります。
妻垣神社の現在の祭神
天平神護元年(765)、神武天皇の母玉依姫命と八幡大神を共鑰山麓に祀ったのが妻垣神社のはじまりであると云う。現在の三期の妻垣神社です。
「神武天皇の母玉依姫命」とありますのは、「(贈)崇神天皇の母・鴨玉依姫命」が本当の姿です。(贈)崇神天皇の神武天皇僭称が行われています。
また、八幡大神の具体的な記述がありませんが、(贈)応神天皇とされています。
「八幡大神はこの地に神幸し比咩大神と語り合われた」の由緒は、(贈)応神天皇と神玉依姫が語り合われたことになります。随分と世代差があります。鴨玉依姫であれば(贈)応神天皇は孫に当たります。
私には、正八幡大幡主と娘のアカル姫が父娘で語り合われた、の方が親しみがあります。
が、妻垣神社表記の祭神は比咩大神(玉依姫命)・八幡大神(応神天皇)・神功皇后です。
素戔嗚尊が櫛稲田姫と暮らす場所を求め、出雲の根之堅洲国の須賀の地を称えた歌
「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠に 八重垣作る その八重垣を」
私は妻垣神社(安心院盆地)に立って、この歌は本来、安心院を舞台にした素戔嗚尊とアカル姫の歌ではないか、と錯覚にとらわれました。
ヒミコ・アカル姫の時代、宇佐地方は投馬国(つまこく)と呼ばれました。「つま」の国の長官が「弥弥 みみ」で、天忍穂耳命(海幸彦・勝速日 かつはやひ)です。天忍穂耳命・市杵島姫と大山咋神の親子にとって、安心院は思い出の地です。その足跡が東隣の「佐田」です。
また、ヤマトタケルが詠んだとされる望郷の歌(原文)。
「やまとは くにのまほろば たたなづく 青がき 山ごもれる 大和しうるわし」
またも、これは安心院盆地に立ちて、安心院を称える素戔嗚尊とアカル姫の歌ではないか、と錯覚にとらわれました。その変形した歌。
「安心院(あじむ)は 国の真秀(まほろ)ば 畳(たた)なづく青垣 山籠れる 麗し院内」
※「まほろば」は、「素晴らしい場所」「住みやすい場所」という意味の日本の古語。
「たたなづく」とは、山並みが幾重にも重なって続く様子。
「倭(やまと)は国の真秀(まほろ)ば 畳なづく青垣 山籠れる 倭し麗し」
本当の八幡神
妻垣の大門の地(現在地)は、アカル姫とスサノオ尊の住まいの地であり、市杵島姫の生誕の地です。宇佐神宮の亀山はアカル姫の霊廟です。
アカル姫が日本に渡って来られたルートは、朝鮮半島から但馬国(兵庫県)を経由し、大分県は国東半島近くの姫島に入られ、その後、国東半島を経て宇佐の奥地へと進み、安心院の妻垣に来られています。スサノオ尊も同様にアカル姫を追いかけて来られています。
宇佐宮八幡比咩は耀姫(アカルヒメ)で、亀山の祭神です。
宇佐宮八幡大神は正八幡大幡主で、御許山の大元神社(上宮)の祭神です。
八幡神の由来は、八幡大神の正八幡大幡主、八幡比咩の耀姫に基づくということです。
その宇佐八幡宮の由来は、すっかり、(贈)応神天皇(誉田別命)、鴨玉依姫、(贈)崇神天皇に取って変ってしまいました。宇佐地方・豊後は鴨玉依姫、(贈)崇神天皇の領域となります。さらに、時代が進むと、(贈)崇神天皇、その父の大山咋神の流れの大神氏(おおが)の支配地となります。
神武天皇僭称の(贈)崇神天皇の東征
神社由緒のごとく、「神武天皇が東征のおり、この地に立ち寄られ、宇佐国造の祖、宇佐津彦命と宇佐津姫命の兄妹がお迎えし、足一騰宮を建てて歓待申し上げた」とあります。
また、「記紀」では、神武天皇は宮崎県北高千穂から東征に出られて、奈良県橿原で天皇に即位されたことになっています。
日本書紀の「神武東征」は、本当は「崇神東征」です。
神武東征は『記紀』の創作神話です。
『記紀』でいう神武東征とは
神武天皇と大幡主を中心とした日本列島巡行視察
神武天皇に対する長髄彦の乱(倭国大乱)
椎根津彦を中心とした九州王朝神霊東遷
の話が混合された物語となっています。
神武天皇と宇佐津彦では世代が違い過ぎます。(贈)崇神天皇と宇佐津彦は同世代の方です。
宇佐津彦は生目入彦(いくめいりひこ)で(贈)垂仁天皇です。
宇佐津姫は「百姫」で、天種子・景行天皇の妃となられます。
よって、由緒は
「(贈)崇神天皇が東征のおり、この地に立ち寄られ、宇佐国造の祖、宇佐津彦命と宇佐津姫命の兄妹がお迎えし、足一騰宮にて歓待申し上げた」
が正しいでしょう。
足一騰宮を建てて歓待したのではありません。すでに在った足一騰宮殿で(贈)崇神天皇を歓待したのです。
字数制限のため、二編に分けて続きます。


















