No.142 篠栗町尾仲の老松神社の古宮は誰を祀る
宮原誠一の神社見聞牒(142)
令和2年(2020年)05月01日
福岡県篠栗町に太祖神社が若杉山(684m)頂上に上宮、麓に下宮があります。さらに、南に下がって街中の尾仲(おなか)に老松神社が鎮座です。
現在、尾仲の老松神社は菅公(菅原道真公)とその親族が祭神表記されていますが、その前の古宮の創立は古く、祭神は不明とされています。
1.篠栗町尾仲の老松神社
老松神社は菅原道真公とその親族を祀ると思われがちですが、多くの老松神社は大幡主あるいは大国主命を隠し祀る神社となっています。天満神の名の下、大幡主が消されているか、隠されて祀られているのです。篠栗町尾仲の老松神社もその神社とみました。
老松神社 福岡県糟屋郡篠栗町尾仲732
「生田森」の石碑と大楠
老松神社(福岡県神社誌)
村社 粕屋郡勢門村大字尾仲字萬乗寺
祭 神 齋世親王、三位中將英明、菅原神
由 緒
縁起書蟲付不詳、明治5年11月3日村社に定めらる。
社説に上古より生田森と稱へし鎭座の産土神なり。大同年中の頃は迫門郷の惣社なりしが、永正年中兵火の爲め焼失し、其後再建せし神社なり。
例祭日 10月25日
神饌幣帛料供進指定 昭和4年10月15日
主なる建造物 本殿、弊殿、拝殿、社務所、水屋、鳥居、七五三掛
境内坪数1066坪
氏子区域及戸数 大字尾仲一圓 104戸
境内神社
神武神社(神武天皇)
日吉神社(大山祇神)
貴船神社(高龗神,闇龗神)
曾我神社(祐成,時宗)
水神社(水波能賣神)
櫻木神社(大山祇神,木花開耶姫命)
須賀神社(素戔嗚命)
風神社(級長都彦神,級長戸邊神)
老松神社の境内由緒記
御祭神 三柱
右殿 齋世親王(人皇第60代醍醐天皇の弟君 道真公のご息女の御婿君)
主神 菅原道真公
左殿 正三位中將英明公(齋世親王の御長男)
老松神社(生田の森)の草創は古く、上古太宰府天満宮の神領地であったので、正二位菅原道真公御一門の方々が御祭神として祀られている。尚、神領地になった歴史は不詳なるも天満宮安楽寺草創日記に記載されている史実に基き、道真公は承和12年(845)6月25日、古人、清公、是善と代々学者の家として朝廷に仕えた菅原家にお生まれになった。(中略)
延喜3年(903)2月25日栄光と苦難の59歳の生涯を終えられた。
其の後、延喜19年(919) 勅命により天満宮安楽寺が建立された。さらに朝廷は延喜23年(923)4月、道真公を右大臣に復し、正暦4年(993)太政大臣の位を贈り、公の御霊を慰めることにつとめられた。
御社殿は永正12年(1515) 乙亥年に多々良朝臣弘詮が建立した。しかし、それは天正14年(1586)8月、秀吉公の九州出兵により高鳥居城(岳城)攻防の際焼失した。後、慶長9年(1604)、黒田継高候のときに再建された。
其の後再修理されて現在に至る。
明治5年11月3日 村社に列格。
昭和4年10月15日 神饌幣帛料供進社指定
希くは神明此の誠志を照覧あって国家安泰と人々の幸福を無窮に護らせ給え。
(新町区)
篠栗町指定文化財(境内表示板部分)
『筑前國續風土記 巻之十八』宝永7年(1710)『筑前國續風土記附録 巻之三十五』寛政10年(1798)『筑前國續風土記十遺 巻之四十』文久元年(1861)等の地誌には、老松神社もある尾仲村が昔は太宰府天満宮の神領であったことも伝え、老松神社が以前は老松大明神と呼ばれていたことを記載している。口伝では、境内にある神武社は戦火で焼失したものを粕屋町の老松宮のご神託によって生田森(現在地)に移されたものという。 篠栗町教育委員会
拝殿神額(クマソ物部の神額です)
老松大明神は大幡主です
「拝殿の四本柱は高良大社造り」です。開化天皇が関係します。
拝殿屋根の三階松紋(中)と剣梅鉢紋(左右)
京都北野天満宮は「星梅鉢紋」と「三階松紋」を使用されている。
稲荷神社(境内社) 右横(下)が神武神社
稲荷社の千木は男千木です。男神は田中大神(大幡主)を祀ります
稲荷の男神は田中大神、猿田彦大神となります。
この稲荷神社は神武神社より上位の位置に祀られていますが、
いつ、どこから遷宮されたのか不明です。
※伏見稲荷 京都市伏見区深草藪之内町68
祭神 宇迦之御魂大神、佐田彦大神、大宮能売大神、田中大神、四大神
宇迦之御魂大神(うかのみたまのおおかみ)下社(中央座)→ 天照女神
田中大神(たなかのおおかみ)・・・・・・・・・・・・下社摂社(最北座)→ 大幡主
佐田彦大神(さたひこのおおかみ)・・・・・・・・中社(北座)→ 猿田彦大神(彦穂々出見命)
四大神(しのおおかみ)・・・・・・・・・・・・・・・・・・中社摂社(最南座)→ 猿田彦大神
大宮能売大神(おおみやのめのおおかみ)・・上社(南座)→ 豊玉姫(田心姫)
宇迦之御魂は「多くの御魂」という意味ですが、一般に天照女神とします。
大宮能売大神は豊玉姫、佐田彦大神は猿田彦大神です。
田中大神は高良玉垂命・大幡主で、伏見稲荷の神額縁には半割り門光紋が打ってある。四大神(しのおおかみ)は四公様の猿田彦大神で、一般に稲荷神社の祭神は天照女神と大幡主を夫婦神として祀ります。
神武神社(境内社)
由緒によると、境内にある神武神社は戦火で焼失し、粕屋町の老松宮のご神託によって生田森(現在地)に移されたものという。篠栗町の老松神社は粕屋町の老松神とも関係がありそうです。
※神武神社の祭神は大幡主となります
2.老松神社の古宮は大幡主を祀る
鳥居の扁額「老松大明神」は大幡主を表します。
拝殿の神額はクマソ物部の神額形式で、大幡主と関係します。
天満神社関係であれば、拝殿向拝の屋根は唐破風になります。拝殿向拝は「流れ造り」で、四本柱は「高良大社造り」で、高良大社の祭神は大幡主です。
三階松紋は九州王朝の紋章で大幡主が代表です。
氏子の藤(とう)さんの姓は、大幡主の「藤大臣 とうのおとど」に因みます。
これらを考慮しますと、篠栗町尾仲の老松神社の古宮は大幡主を祀る老松神社です。
由緒では、「大同年中(806-809)の頃は迫門郷の惣社」とあり、神社の規模は大きく、天満神社成立以前に老松神社は存在したことになります。
延喜19年(919) 勅命により天満宮安楽寺が建立され、延喜19年(919) 勅命により太宰府天満神社が建立され、永延元年(987) 一条天皇より北野天満宮天神の号が贈られています。
その後の社殿は永正12年(1515) に多々良朝臣弘詮が建立した、とあります。
多々良朝臣(大内)弘詮は家紋からして大幡主ゆかりの氏族となり、老松神社の性格を知っていたと推察されます。
その後、太宰府天満宮の神領地であったことから、祭神の入れ替えが行われ、菅原道真公を主祭神に、右殿に齋世親王、左殿に正三位中將英明公が祭られたのでしょう。祭神の入れ替えがいつ行われたかは不明です。
本殿の右側に田中大神(大幡主)を祀る男稲荷社、その下位に神武神社が祀られています。本殿の田中大神は出されて、上位境内社・男稲荷社として祀られているのでしょう。
菅原道真公が大宰府に左遷された時、奥方は病床にあり、幼い紅姫様と熊丸君を大宰府に連れて下向されている。翌年秋に熊丸君が死亡され、その十日後に道真公が薨去(こうきょ)され、幼弱な紅姫が残されています。
紅姫は亡き父から託された密書を四国の長兄高視卿に届けるために密かに大宰府を旅立ちますが、藤原氏の刺客追手が迫り、若杉山麓に身をひそめられ、山上の若杉太祖神社に御守護を祈願されたが、刺客に探知され非業の最期を遂げられました。地元の人々は紅姫の悲運を憐れんで、祠を建立し稲荷神としてお祀りし、紅姫稲荷神社が建立されている。
当地での紅姫の死が、老松神社に菅原道真公と親族が祀られるきっかけとなったのかもしれません。
※周防大内氏(多々良朝臣弘詮)
本姓は多々良氏。姓ははじめ宿禰のちに朝臣を名乗った。百済の聖王(聖明王)の第3王子の後裔と称していた。周防国府の介を世襲した在庁官人から守護大名、そして戦国大名へと成長。家紋は「大内菱」。(Wikipedia)
家紋「大内菱」は天照女神ゆかりの花菱紋(門光紋)をアレンジしている。
多々良氏は老松神社の大幡主を庇護したと思われます。
大内菱紋 花菱紋(門光紋)
※太宰府天満宮(安楽寺)の荘園
垂仁天皇の御宇、被葬者を古墳に埋葬する時、民は殉死者として体半分を立った状態で生き埋めにされたが、野見宿禰はこれを取りやめ、人形の埴輪を代わりすることを提案している。この功により諸国の鍛地(かじち)を下賜され、この鍛地が後の天満宮領の荘園となっている。
老松神社がある尾仲(おなか)の荘園を小中庄(おなかしょう)と呼んでいます。
境内社 貴船神社 桜木神社(大山祇神・木花開耶姫命)須賀神社 風神社(級長都彦神・級長戸邊神)
3.篠栗町にも藤さんが多くおられます
「名字検索No.1名字由来net」から藤(とう)さんの地域分布を調べてみました。
https://myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E8%97%A4
藤さん福岡県糟屋郡篠栗町ランキング
和田およそ10人
尾仲およそ40人
津波黒およそ10人
田中およそ10人
篠栗およそ360人
若杉およそ10人
萩尾およそ30人
金出およそ120人
高田およそ80人
糟屋郡篠栗町の藤さんは町全体に散在されています。旧篠栗・金出・高田に多くみられます。藤(とう)さんの姓は、大幡主の「藤大臣 とうのおとど」に因みます。
高良玉垂宮神秘書
第1条(部分)
豊玉姫、御子を捨て給いて、海宮に帰り給う。彦火々出見尊は、嘆き悲しみ給うところに、豊玉姫の妹・玉依姫、竜宮よりあがり給いて、その御子を養育し給うなり。
この玉依姫は、彦波瀲武鵜草葺不合尊のために、浮気にておわします。この浮気玉依姫と甥の彦波瀲武鵜草葺不合尊と、やがて夫婦となり給う。
彦波瀲武鵜草葺不合尊は住吉大明神なり。
1条 (部分抜粋)
神功皇后の時、日本にイルキが攻めてきた。その時、筑前国四王寺の嶺に登り、祈られた折、東の空に白雲現われ、白雲たちまち四方に開き、光を放ち給い、月神現われ給う。白雲を四方に開きたるは四天王なり。四つ鉾はその中に打ち交えて見えたり。その白雲に囲まれて、若冠となって四王寺の嶺に現わられる。その所を四王寺ヶ嶺と申すなり。高良大菩薩(玉垂命)のご紋は、このことから言うなり。
異国征伐の時の幕のご紋であり、四方に光を放ち給う故に門光(もんこう)と名付けたり。(中略)
神功皇后、異国征伐のち、三男月神 底筒男尊(玉垂命)は皇后と夫妻となり給う。嫡男日神の垂迹 表筒男尊(安曇磯良)は、皇后の御妹豊姫(ゆたひめ)と夫妻なり。その御子は、大祝 日往子尊と申すなり。
311条 高良の御紋・木瓜(もっこう)のこと
神功皇后が筑前国四王寺の嶺において大鈴を榊の枝に掛け七日間、異国退治を祈られた時、東の空に白雲が現れ、四方に開け、四方に光を放ち、四王寺の嶺に降臨された。四方に開けた白雲は四天王なり。紋の中に四本の鉾を交えているのは四天王の鉾なり。これをそのままとって門光(もんこう)と名付けたり。
異国追伐の時の高良の御紋はこれなり。四方に光を放っている故、門の光と書く。
高良大菩薩(玉垂命)、四天王に従じて天降られた所を四王寺ヶ嶺と名付けたり。
当初の門光・木瓜紋 門光紋(花菱紋) 木瓜紋
第183-187条 五姓仕人
五姓仕人:丹波氏、安曇氏、前田氏、草部氏、草賀部氏
第343条 八人の神官
田尻、小祝、外湯、諸司代、印塚、福成、両福成、稲員の諸氏が記載されている。
八人の神官の屋敷を現在の地名で示すと
稲員 久留米市北野町大城稲数(後、八女郡広川町古賀)
田尻 久留米市御井町字住吉のタンジリ
小祝(安曇) 久留米市山川町本村
外湯 久留米市御井町字住吉のトノエ
諸司代 久留米市御井町打越
印塚 三瀦郡三瀦町玉満犬塚
両福成 久留米市宮ノ陣町
鵜草葺不合尊
豊玉姫は彦火々出見尊との御子(鵜草葺不合尊)を捨て竜宮(対馬)に帰られ、代わりに妹の鴨玉依姫が鵜草葺不合尊の養育を勤めておられる。やがて、鵜草葺不合尊が若く15歳ごろ、叔母の鴨玉依姫と浮気し、夫婦になられている。その時の子が嫡男日神の垂迹 表筒男尊こと安曇磯良です。
鵜草葺不合尊は住吉大明神こと大海祗(おおわたつみ)と呼ばれ、御子に住吉五神として、二人の女子、三人の男子がおられる。
花菱紋(門光紋)と剣花菱(剣唐花紋)
伊勢皇大神宮の神紋は花菱紋です。神功皇后が四王子山にお立ちになった時に、まばゆいばかりの光が周囲に散った、その時の状況を紋章にしたものです。
現在では、花菱紋といいます。これが高良神紋であり、住吉神紋です。伊勢皇大神宮の神紋は門光紋です。
門光紋以前の紋章は桐です。十六葉菊紋は後鳥羽上皇が追加されたものです。従って、天皇家の紋章は、桐、門光(花菱)の二つです。
菱紋、四つ割菱紋は門光(花菱)の略章紋となります。
三階松紋と宮地嶽神社と菅原道真公
高良大社と宮地嶽神社は同じですが、超極秘事項で一緒にできない。福岡県みやま市山川町重冨の小高い山の上に「高良神社」として、高良大社の高良玉垂命と宮地嶽神社の大幡主が鎮座されています。これを実現させたのが、菅原道真公です。
宮地嶽神社は高良大社と同一神を祀っていることを隠すために、紋章の切替えをなさっている。これが三階松紋です。
三階松紋は宮地嶽神社の神紋ですが、この神社は大幡主を隠されて、天照女神を前面に立てておられる。九州の宮地嶽神社では神殿に三階松紋が打ってありますが、宮地嶽神社でなくても神殿に三階松紋が打ってある神社を見かけます。
※菅原道真公(すがわら みちざね)
承和12年(845)-延喜3年(903)
父:菅原是善(これよし)
母:伴真成(とものまさしげ)の娘
妻(正室)島田宣来子(のぶきこ)-恩師の島田忠臣の娘
(長男)菅原高視(たかみ 876-913年)
(女子)菅原衍子(えんし)-宇多天皇女御
室(側室)宮原(百済姓)頴人(ひでひと)の娘
(男子)菅原旧風
4.菅原道真公息女・悲運の紅姫
篠栗町下町の紅姫稲荷神社
福岡県糟屋郡篠栗町篠栗(下町)4663
祭神は紅姫天王。紅姫は菅原道真公のご息女。
菅原道真公が大宰府に左遷された時、奥方は病床にあり、幼い紅姫様と熊麿君を大宰府に連れて下向されている。翌年秋に熊麿君が死亡され、その十日後に道真公が薨去(こうきょ)され、幼弱な紅姫が残されています。
紅姫は亡き父から託された密書を四国の長兄高視卿に届けるために密かに大宰府を旅立ちますが、藤原時平の刺客追手が迫り、若杉山麓に身をひそめられ、山上の若杉太祖神社に御守護を祈願されたが、刺客に探知され非業の最期を遂げられました。千余年前、地元の人々は紅姫の悲運を憐れんで、祠を建立し稲荷神として祀られ「紅姫稲荷神社」が創立されています。
昭和27年、隣接の地に日蓮宗妙紅山蓮照寺開山された折、稲荷祀の祭祀は同寺の主宰によって執り行われることになった。昭和51年、蓮照寺第二世・武内曜幸師と同寺檀信徒の協力によって紅姫稲荷社殿が造営され、祠の御神霊は拝殿に遷され、「最上位山崎紅姫天王」の尊号で祀られています。
※紅姫稲荷神社縁起 日蓮宗妙紅山蓮照寺 平成14年2月
昌泰(しょうたい)4年(901)2月1日、菅原道真公が、左大臣藤原時平の讒言(ざんげん)によって右大臣の地位から大宰権帥に左遷され、京都をご出立の折、御奥方が病床にあられて、父子の別れを悲しみ慕われる幼い紅姫様と熊麿君を不憫(ふびん)に思し召された公は、二人を伴って大宰府へ下られました。
西下の途中も、公に対する時平の圧迫は厳しく、配所では、井戸水は涸れ雨漏りのする陋屋(ろうおく)を宛てがわれ、わずかな給金で三度の食事にも事欠く日々を送られました。その上、謫居(たっきょ)の周辺には、時平の差し向けた刺客が絶えず公をねらって徘徊(はいかい)していました。
このような苦難のさなか、翌年秋に熊麿君が夭折(ようせつ)され、数月後に京都の御奥方がご他界、さらにその悲報が舞い込んだ十日後の延喜3年(903)2月25日には、持病に苦しんでおられた道真公が薨(こう)ぜられて、幼弱な紅姫様お一人が大宰府の地に取り残されました。お弔いを済まされた姫君は、亡き父君から託されていた密書を四国高知に流謫(るちゃく)中の長兄、高視卿(たかみきょう)に届けるため密かに大宰府を旅立たれました。
これを怪しんだ藤原氏は執拗に姫君を追跡しました。紅姫様は追手を避けて人里離れた若杉山麓の当地に御身をひそめられ、山上に鎮まる糟屋一の宮、若杉太祖神社に御守護を祈願されましたが、藤原氏の探索は熾烈(しれつ)をきわめ、この場所もいつしか刺客に探知され、ついにその凶刃を浴びて非業の最期を遂げられました。
今を去る千余年前の小中庄(おなかしょう)時代から、地元の人々は、紅姫様のご悲運を憐(あわ)れんで山崎の当霊地に祠を建立し、その御霊を稲荷神として世々お祀りしてきました。昭和27年、隣接の地に日蓮宗妙紅山蓮照寺開山されたご縁を以て、爾来、稲荷祀の祭祀は同寺の主宰によって懇(ねんご)ろに執り行われることになりました。昭和51年、蓮照寺第二世、武内曜幸師と同寺檀信徒の御協力によって紅姫稲荷社殿が造営された折、祠の御神霊は拝殿に遷され、「最上位山崎紅姫天王」の尊号が奉られて、そのご神徳は魏々として八方に普く、今日に及んでいます。
因みに、菅原道真公は若年の頃から天台宗を信仰され、法華経を宝典として誦されましたが、公の御息女、紅姫様ゆかりの当堂地に日蓮宗蓮照寺が開山され、妙法蓮華経によってその御霊の祭祀が営まれるに至った妙は、まさに佛縁より生じた奇跡と申す外ありません。
千余年前、紅姫を稲荷神として祀る祠が建立され、「紅姫稲荷神社」が創立されています。紅姫が稲荷神として祀られるとは以外かもしれません。
本来、稲荷神社は大幡主ファミリーを祀る神社と言えるのです。
菅原道真公のご先祖は豊玉彦(天穂日命 あめのほひ)その子・武夷鳥(たけひなどり・天夷鳥命 あめのひなどり)で,豊玉彦ファミリーの子孫です。
よって、菅原道真公の子・紅姫も稲荷社に祀られる資格があるのです。
菅原道真公の刺客との受難の旅路については、ブログNo.53 を参照。
(No.53 菅公受難の旅路と福岡県田主丸町の小川天満神社 2018-03-19)
https://hama-sush-jp.pro/kenbuncho2017/entry-12358917630.html
紅姫稲荷神社縁起への余談
紅姫稲荷神社縁起に「道真公が亡くなられ・・・お弔いを済まされた姫君は、亡き父君から託されていた密書を四国高知の高視卿に届けるため密かに大宰府を旅立たれました。」とあります。
紅姫は刺客の執拗な襲撃を承知の上であったと思われます。万が一のことを考えると、密書を届けるということは、捕らえられた時、内容を知られる危険があり、密書はあり得ないのでは、と思うのです。「伝言」ではなかったのか。その内容は?
大宰府脱出は危険であり、むしろ、大宰府に留まった方がより安全であったと思うのです。大宰府では従者も大分県九重町以来の浄妙尼も居られ、守ってくださる方がおられます。
身の危険を承知の上での大宰府脱出。余程、伝言しなければならない内容だったのでしょう。
菅公の大宰府での死亡については色んな伝説があります。死者は替え玉であったとか、菅公は薩摩に逃れて余生を過ごされた、とかあります。
紅姫の密書(伝言)は、父上の「本当のあるいは隠された死、その後の状況」についての報告ではなかったのかと思っています。

















