宮原誠一の神社見聞牒(103)
平成31年(2019年)04月05日
No.103 二人の夫と共に大日孁貴を祀る大神社
大日孁貴(オオヒルメムチ)を祀る神社が北筑後(筑後川北部)にあります。
福岡県の筑後川北部には大日孁貴を祀る大神宮が多く鎮座されています。
その一つである天神社(てん じんじゃ)の紹介です。
菅公を祀る天神社(てんじん しゃ)ではありません。天神社と田神社(でんじんじゃ)が同一の神社もあります。
その大日孁貴を祀る天神社の境内社に古宮「大神社 おおかみやしろ」があります。大日孁貴と夫の大幡主を夫婦で祀ります。
後の本宮を「鷂天神社 はいたか てん神社」といいます。大日孁貴と夫の高木大神を夫婦で祀ります。
大日孁貴が既婚者、しかも、二人の夫の結婚歴があるうえ、二人の間に皇子がそれぞれ誕生されている。「そんなバカな!」と言われる方が多いことでしょう。
日本で最高の女神・大日孁貴の神様を愚弄するのか、とお叱りを受けそうです。
しかし、ヒミコ様が大日孁貴の時代は皇女だったのです。恋する一女性だったのです。
後に「天照大神」となられます。
瓊々杵尊(ににぎのみこと)が大日孁貴と高木大神の皇子であり、故に、天孫降臨の主役であり、三種の神器を授けられた皇子であった、としたら、天孫降臨の神話が現実を帯びます。
彦火々手見命(ひこほほでみのみこと)が大日孁貴と大幡主の皇子であり、故に、伊勢の外宮に夫婦神として、内宮の母の近くで祀られている、としたら、伊勢神宮の見方が相当変わることでしょう。それ故、彦火々手見命の別名が「天照国照彦天火明櫛玉饒速日命(あまてるくにてるひこ あめのほあかり くしたま にぎはやひ)」といい、母親の「天照大神」の名に因む「天照国照彦」なのです。父親の大幡主は、さらに北の伊勢松阪の櫛田川の辺の櫛田神社に祀られています。伊勢の五十鈴川、宮川、櫛田川の流域は大幡主の聖域でした。大幡主の子・豊玉彦は天照大神を祀る聖地として五十鈴川の聖域をお譲りになられました。
百嶋神社考古学では、「ヒミコ」について
卑弥呼(ヒミコ)=大日孁貴(オオヒルメムチ)=天照大神(アマテラスオオミカミ)
と同一人物とします。
百嶋学を受け入れ難い方、『魏志』倭人伝を絶対視する方は、この卑弥呼の関係は受け入れがたいものでしょう。
「ヒミコ」様は、若き青年期は大日孁貴(オオヒルメムチ)といい、倭国大乱以後は卑弥呼(ヒミコ)女王といい、神様になられては天照大神(アマテラスオオミカミ)となられたのです。
鷂天神社 福岡県朝倉市上浦230
境内社・大神社
祭神:高皇産霊命(たかみむすびのみこと)
大日孁貴命(おおひるめむちのみこと)
由緒:元和年中(1681)、隼鷹神社(小郡市力武)より勧請
境内社 大神社(埴安命=大幡主=神皇産霊神・大日孁貴尊)
祭神は高皇産霊命(高木大神)と大日孁貴命(天照大神)です。
本殿の奥には大神社が鎮座です。祭神は埴安命と大日孁貴尊です。埴安命は正八幡・大幡主となります。こちらが古宮となります。今の本社は1681年江戸時代初期、福岡県小郡市力武の隼鷹神社の祭神・高皇産霊神を勧請した比較的新しい神社となります。
境内の標柱(石)には氏子名「高良」が刻まれています。
氏子が高良姓で、祭神が高皇産霊命の天神社であるという。参道の横には藤が植えてあります。下浦には王子神社があります。私は最近まで、この組み合わせが理解できませんでした。氏子が高良姓で、古宮の大神社、下浦の王子神社の組み合わせであれば、スジが通るのです。勧請すべき祭神、高皇産霊神と神皇産霊神を取り違いされたのか?それとも高皇産霊神を勧請せざるをえない歴史的背景があったのか。今となっては、それは分りません。
高皇産霊神と神皇産霊神(かみむすびのかみ)は一字違いです。良く取り違いされることがあります。日本書記の「大国主の国譲り」紀でも、高皇産霊神と神皇産霊神を取り違えて、高皇産霊神が記載されている個所があります。神皇産霊神は正八幡・大幡主です。
本来、この天神社は神皇産霊神(大幡主)と大日孁貴尊を祀る神社が正しい姿と思っています。古宮の大神社(おおかみやしろ)が本来の姿でしょう。
博多の櫛田神社は大幡主と天照大神と素戔嗚尊を祀ります。
本殿の右奥が大神社です。(祭神、埴安命=大幡主と大日孁貴尊)
寄進者名に「高良」姓が刻まれています。
本殿右奥の大神社(祭神、埴安命=大幡主と大日孁貴尊)
鷂天神社 由緒板
祭神 高皇産霊命(たかみむすびのみこと)
大日孁貴命(おおひるめむちのみこと)
上浦の鎮守社は高天神社と称して祀られてきたが、平成10年(1998)に宗教法人規則変更承認申請をして社名を改めた。神殿正面の神額「鷂天神社」に起因するもので、神額の裏には「天保七年上浦戸数47戸」とあった。
御社の創立を記す資料が今はなく、古事を知る事はできないが、現存する資料から社名の変遷を追うと、年代で古いものは拝殿正面の石燈籠に刻まれた寛政四年であるが、社名は刻まれていない。次に古いものは、文政六年に御神体近くに奉納された神鏡に「隼鷹天神宮」と刻まれており、その次は天保七年で現在の神殿の再建工事の折、奉納されていた棟札に「拝高天神社」とある。明治に入ると馬田村役場の神社明細帳に「高天神社」の社名が残されている。
今ここに、鳥居再建工事並びに社殿修復工事を奉納して上浦の鎮守社の益々の弥栄を祈念する。
平成21年10月吉日 氏子中
上浦総戸数 115戸
郷土史馬田 高天神社
鷂天神社は本上浦の古屋敷に鎮座されていたが、現在地の上上浦230に遷宮されたのは不明である。しかし、神殿の正面額の裏には上浦戸数47戸、天保7年(1836)となっている。また井上伝左エ門が石燈籠一対を境内に奉納しているが、その年は寛政4年(1792)となっているので遷宮されたのは、その頃ではないだろうか。鷂天神社が本上浦から上上浦に遷宮されたので、その跡地に若天神社を祭っていたが、昭和3年(1928)には上上浦の高天神社横に遷宮された。
若天神社創建の記録に御神体が書きとめてあったが、若天神社は高天神社と同じで奉寄進慶応2年(1866)寅10月吉日とある。
鷂天神社から高天神社と社名が変更になったのも、はっきりしない。境内にある鳥居には鷂天神社となっている。大正15年(1926) に社務所(6坪)を新築し、村社に昇格した。
昭和3年(1928)御大典記念事業として、神殿のわら葺きを銅板に張り替え、また神社の修理をおこなった。
福岡県神社誌では、若天神社は明治43年7月、本上浦の古屋敷から上上浦の境内に遷宮、大正元年11月、同一祭神につき本社に合祀合霊とあります。
鷂天神社の「鷂」は「はいたか」と読みます。
鷂は読みにくく、書きづらいので「拝高」を当て字にすることがあります。
また略して、「高天神社」と書くこともあります。本当は「鷹天神社」です。
鷂(はいたか)は鷹の一種で、鳩ほどの大きさです。
何故、鷂天神社と名付けられたかといいますと、高木大神の神使が鷂だからです。
「疾き鷹」が語源であり、それが転じて「ハイタカ」になったといいます。
福岡県神社誌
隼鷹神社 福岡県小郡市横隈(力武)164-1
祭神 高皇産霊神(高木大神)
高良玉垂宮神秘書における彦火々出見尊と塩土の翁と天照大神
「No.4 3人の豊姫ともう一人の玉依姫」3.乙宮の祭神・豊比咩神社の祭神・豊玉姫」から「神秘書における彦火々出見命の竜宮物語」を再掲します。
神秘書 兄・彦火々出見尊 弟・彦ソソリノ尊
古事記 兄・火照命(海幸彦) 弟・火遠理命・彦穂々手見命(山幸彦)
日本書記 兄・火闌降命(海幸彦) 弟・彦火々出見尊(山幸彦)
高良玉垂宮神秘書 第1条
(前略) 天照大神の御子、四人おわします。三人は、天照大神より四代まで継ぎ給う。正哉吾勝々速日天忍穂耳尊、その御弟は天津彦々火瓊々杵尊、その御弟は彦火々出見尊、その御弟を彦ソソリノ尊と申し奉る。この彦ソソリノ尊は神代を継ぎ給わざる故に海の遠くへ参らせ給うなり。
ある時、彦火々出見尊が弟彦ソソリノ尊に釣針を借り給いて、兄の彦火々出見尊は海原に出給いて、釣針を海に入れ給う。アカメクチというもの、この釣針を食い切る。御弟彦ソソリノ尊の持ち伝えの釣針なれば、兄の彦火々出見尊、呆然と呆れて立ち給う所に、塩土の翁と云う者、着たり曰く。我皇子にて、御身の御徳を忘れず。今現れ来たりなり。その御礼を申さんとて、メナシカゴ(目無籠)と云う者に、彦火々出見尊を連れ奉り、海中に招き入れれば、ほどなく竜宮界に着き給われる。
これまでの事の次第を竜王に申し給えば、応えていわく、この世界に三年間逗留されれば、その間に願いを達して申すと云いければ、彦火々出見尊そのとおりに致す、と仰せられる。(以下省略)
「神秘書」では、古事記で語られる山幸彦と海幸彦の神話に登場する人物が異なっていますが、話の筋は概ね同じです。恐らく、この「神秘書」の話が神話の原典でしょう。
天照大神には三人の御子がおられ、天忍穂耳尊、瓊々杵尊、彦火々出見尊と述べています。天忍穂耳尊は実子でなく、養子になります。
また、彦火々出見尊は塩土の翁(大幡主)の皇子と述べています。「塩土の翁」は大幡主です。大幡主は別名、神皇産霊神(かみむすびのかみ)であり、博多櫛田神社の主祭神です。「皇子」とあれば、妃は天照大神(ひみこ)となります。大幡主と天照大神との間の皇子が彦火々出見尊と言っているのです。驚くべき記述です。「記紀」では絶対記載できない出来事です。
伊勢外宮の神殿は外削ぎの男千木、鰹木9本で、主祭神は男性神となりますが、その主祭神が大幡主と天照大神との間の皇子・彦火々出見尊とみています。
そして、彦火々出見尊の妃が天鈿女命で、私たちが言っている「伊勢外宮様」となります。
すると、伊勢外宮には、彦火々出見尊と天鈿女命、伊勢外宮様は夫婦で祀られていることになります。驚くべき展開です。
豊受大神宮(伊勢外宮)
また、神功皇后は安曇磯良を玄孫大臣と呼び、安曇磯良の祖父の彦火々出見尊は天照大神の皇子となることが高良玉垂宮神秘書 第1条に続きます。
高良玉垂宮神秘書 第1条
嫡男日神の垂迹 表筒男尊(安曇磯良)の大臣公をいかがすべきと仰せられれば、皇后やがてのたまう。添も天照大神の「ひまご」にておわします間柄、玄孫大臣物部大連と申し奉るべしとおおせけり。玄孫大臣と書いては、ひまご大臣と読めり。
安曇磯良は天照大神(大日孁貴・ヒミコ)の「ひまご」といっているのです。
持統天皇と藤原不比等は列島の支配を強めるために、ニギハヤヒ(彦火々出見尊)と瀬織津姫(天鈿女命その他)は邪魔とされました。瓊々杵尊皇統にとって、ニギハヤヒ系統(物部)は「記紀」のストーリーからみれば煙たい存在でした。
そのために「記紀」では、ニギハヤヒ(彦火々出見尊=猿田彦)を「猿」に、天鈿女命を「猿女」と猿夫婦に貶(おとし)めました。さらに、伊勢外宮様(天鈿女命)を裸の踊り子までに仕立てました。
ひどいものです。
瓊々杵尊と高木大神と天照大神
彦火々出見命(山幸彦)は大幡主と「ヒミコ」の間の皇子で、正しくは、天津日高彦火々出見尊と言う。
瓊々杵尊(ににぎのみこと)は高木大神と「ヒミコ」の間の皇子で、略しなければ天津日高彦瓊々杵尊と言う。
「天津日高彦」は二人の共通の名になっています。天津神「とてつもなく尊い皇子」という意味です。「日 火 ひ」は「とてつもなく尊い」という意味で、その高貴性がさらに高いというのです。最高の讃辞です。
「氷川」「肥の川=菊池川」「火の川」は「とてつもなく尊い川」となります。
「ヒミコ」は姫氏「帥升」と高木叔母との皇女となります。姫氏「帥升」と神玉依姫との皇子が神武天皇です。よって、「ヒミコ」と神武天皇は異母姉弟の関係になります。
「穂、火、ほ」の字を神名に使用する一族は、天照大神と高木大神の流れに見られます。高木大神は「許(ほ)氏」の流れであり、「ほ」の字を使用します。
ヒミコ女王の誕生
「神武の失政」と倭国大乱については、「No.11 くらおかみの神を祀る八龍神社」に概略を述べています。
ことは素戔嗚尊が、わが姉・神俣姫(かみまたひめ)の処遇に腹を立てたのが発端です。
神俣姫は阿蘇の神様・神沼河耳命の妃であり、その間に天忍穂耳命の子がいました。
神沼河耳命には兄の神八井耳命がおられました。
当時、神武天皇の皇后は金山彦の姫・吾平津姫です。神武天皇は皇后・吾平津姫を神沼河耳命に下賜され、間に生まれた子が建磐龍であり、吾平津姫は名を蒲池姫に変えられます。
神沼河耳命は天皇家並の扱いとなります。そして、神俣姫は離縁され、丹生津姫と改められます。元々、天王(てんのう)と云われた素戔嗚、神武天皇と同等の天子の資格を持つ出自の素戔嗚は姉・神俣姫の処遇に激怒されます。
素戔嗚の激怒を知った天忍穂耳命の妻であり素戔嗚の娘である瀛津世襲足姫は、夫に神沼河耳との親子を離縁して、兄・神八井耳命の養子になることを勧められます。結果、天忍穂耳命は阿蘇の惣領を弟の建磐龍(阿蘇神社)に譲られます。そして、名を彦八井耳とされます。
「神武の失政」と言われる出来ごとです。
この状況下、父・素戔嗚、伯母・神俣姫の姿を見かねた息子・長髄彦がいました。
素戔嗚と同様に怒りは心頭に達した。倭国大乱の前兆です。倭国大乱のきっかけです。
神武天皇は皇后の扱いで失態され、倭国大乱を招かれました。
さらに、息子の懿徳天皇は后・天豊津姫(阿蘇津姫)に逃げられ、阿蘇津姫は健磐龍命の妃となられます。
神武天皇はその責任を取り、息子の懿徳天皇と共にヒミコの臣下となられ、男弟として仕えられました。ヒミコ女王の誕生です。
糸島でのことです。そのことが魏志倭人伝に書かれています。
倭国大乱時、天皇家姫氏ご一統様は南九州に避難され、その避難された地名が姫城(ひめぎ)で残っています。魏志倭人伝は、その南九州姫城一帯を「邪馬壹国」としています。邪馬壹国は一つの国の名前でなく、ヒミコ女王の連合国の総称です。邪馬壹国(ヤマイコク)は「神の島国」という意味になります。
ヘブライ語で、キ、イは「島」で、伊(倭)国=島国と解釈しました。
参考までに、「ヤ」は「神」、「ヤマト」は「神の民」となります。
「邪馬壹国」を「邪馬台国」として「やまと国」と読めば、「神の民の国」となります。要するに、「神国」日本ともなります。古代から日本は「神の国」だったのです。「神国日本」は中世に始まったものではありません。
南九州の姫城
宮崎県都城市姫城町(市役所付近)
鹿児島県霧島市隼人町姫城 国分姫城
熊本県八代郡氷川町宮原の野津 八代市泉町下岳の白木平
やまいこく(邪馬壹国)=やまとこく(邪馬台国)=やまだこく → 山田
「やまい」「やまと」「やまだ」は全て同義語です。「神の島」「神の民」という意味になります。
「山田」は山の中の田んぼ、という意味ではありません。福岡県朝倉市の山田は那珂川市山田の地名の移動となります。
また、唱歌「山田の案山子」は「神の民の子孫」ということになります。案山子の神話上の話は省略します。「No.13 事代主・恵比須神・西宮大明神(6)」「No.35 事代主を祀る桂川町内山田の天神社」をご覧ください。
瓊々杵尊が大日孁貴(ヒミコ)と高木大神の皇子であり、それ故にヒミコの三種の神器を授けられた皇子であり、天孫降臨の主役となります。その舞台の地を魏志倭人伝から推察しますと、南九州の霧島山を中心とした高原(たかはる)、霧島の一帯ではないでしょうか。
日本書記は大日孁貴、天忍穂耳尊、瓊々杵尊の家族関係をチョッピリ誤魔化しています。
天忍穂耳尊は瓊々杵尊の親でなく、大日孁貴の養子となります。
福岡県糸島地方には天降神社(あもり神社)が多くあり、主祭神が瓊々杵尊となっています。この天降神社名は瓊々杵尊と天孫降臨を結びつけるイメージを与えますが、正しくはありません。シュメールに因むアモリ神社です。(ブログ「球磨の『アモリ』について 2019-02-14 ひろっぷ」をご覧ください。) 瓊々杵尊の活動舞台は南九州です。木花咲耶姫にとって最初の旦那様ですが、神格は木花咲耶姫が上です。後に離婚され、豊玉彦と一緒になられ、その子孫は南九州に広まり福岡県筑後地方に移動し橘族として根を張ることになります。
木花開耶姫の本名(日本書記)は吾田鹿葦津姫(あた かやつひめ)です。
吾田葦津媛(あた かやつひめ)とも書きます。
「吾田の伽耶姫となります」金官伽耶のカヤです。
「吾田」は薩摩国阿多郡(現鹿児島県南さつま市金峰町)となります。瓊々杵尊との出会いの場所です。
「記紀」の天孫降臨神話では、瓊々杵尊は笠沙の岬で美しい娘と出会います。
娘は大山祗の子で名を神阿多都比売、別名を木花之佐久夜毘売といった。瓊々杵尊が求婚すると父に訊ねるようにと言われます。そこで父の大山祗をたずねると大変喜び、姉の石長比売とともに差し出した。しかし、石長比売はとても醜かったので、瓊々杵尊は石長比売を送り返し、木花之佐久夜毘売だけと結婚した。
全くフザケタ話です。
磐長姫も木花咲耶姫も美しい女神です。木花咲耶姫は別名「かぐやひめ」ともいわれます。
瓊々杵尊は高木大神の息子であれば、高木大神は大伽耶国で、金官伽耶国(大山祗)の分家となります。「分家の息子に本家の大事な二人娘を差し出す」という表現は、分家が本家を中傷するようなものです。神格は木花咲耶姫が瓊々杵尊より上です。
「記紀」の瓊々杵尊天孫降臨神話もひどい話です。
ここで、木花咲耶姫の実際の姉は罔象女神(みずはのめのかみ)です。
磐長姫は罔象女神の置き換えとなります。
「記紀」の天孫降臨神話での瓊々杵尊と磐長姫・木花咲耶姫姉妹の出会いは、姉の「罔象女神」を消すことが目的であったと言われています。罔象女神は娘・天鈿女命と共に物部の象徴女神であり春日様だからです。
磐長姫→罔象女神=醜(みにく)い姉とは、これもひどい話です。
罔象女神は春日様と言われるように、輝く美しい女神です。
魏志倭人伝のヒミコ女王の邪馬壹国の長官「伊支馬 いきめ」は生馬(いきめ・いくめ)・往馬(いこま)こと大国主命となります。副官は「卑奴母離 ひなもり」です。
よって、大国主命の和名は「伊久米 いくめ」となります。クマソ物部の総頭領です。
倭人伝松野連系図とは合いませんが、長官「いくめ」副官「なしめ」と想定します。
副官「なしめ」は景初2年(238) 遣使の夷守大夫の難升米です。
当ブログ「No.18 荒神と金神、建南方の乱の結末」「No.64 伊都国長官爾支(山幸彦)、投馬国長官彌彌(海幸彦)」を参照

















