宮原誠一の神社見聞牒(097)
平成31年(2019年)03月13日
No.97 仁徳天皇の皇位継承争いの地・那珂川の乙子神社
仁徳天皇と宇道稚郎子(うじのわきいらつこ)の兄弟皇子は日本書記によると概略、次のような皇位継承の出来事があります。日本書記でいう、応神天皇の三皇子の大山守皇子・仁徳天皇・宇道稚郎子の兄弟の話です。
応神天皇には大山守皇子・仁徳天皇・宇道稚郎子の皇子が異母兄弟でおられる。
応神天皇は宇道稚郎子を太子に定める。
これを不満として大山守皇子は太子を殺そうとするが逆に殺される。
大山守皇子は宇道稚郎子を殺そうとして宇道へ行き、宇道川を渡ろうとして船に乗ると、船頭に化けていた太子が船を傾けて大山守皇子を川の中へ落し、大山守皇子は溺死する。太子の宇道稚郎子は仁徳天皇に天皇位を譲ろうとする。仁徳天皇の方も即位を辞退し、空位が3年続いたという。宇道稚郎子はついに自殺までして天皇位を仁徳天皇に譲る。
日本書記では「宇道稚郎子」は「菟道稚郎子」という表記ですが、ここでは、現地表記に従い「宇道稚郎子」と表記します。
大山守皇子をはずしての話です。
仁徳天皇(大鷦鷯尊 おほさざきのみこと)と宇道稚郎子は確かに異母兄弟です。
しかし、応神天皇を親とする異母兄弟ではありません。
応神天皇と仁徳天皇は同世代の人です。
二人の皇子の出来事も近畿地方の話ではありません。
仁徳天皇と宇道稚郎子は開化天皇を父とする異母兄弟です。
話の舞台も近畿地方でなく、北部九州(福岡県北部から脊振南部の佐賀県)の話です。
仁徳天皇は、この時はまだ「大鷦鷯尊」ですが、便宜上「仁徳天皇」と記述します。
宇道稚郎子も「稚郎子」と簡略記述することがあります。
日本書記がいう「仁徳天皇が兄、稚郎子は弟」でなく、本当は、稚郎子が兄で、仁徳天皇は弟となります。
よって、長子の稚郎子が太子になってもよいのですが、稚郎子は太子の座を仁徳天皇に譲ろうとします。それは何故か?
稚郎子は開化天皇と正妻の子ではなかったからです。
仁徳天皇は開化天皇と神功皇后との皇子で、大鷦鷯尊です。正妻の子です。
それでは、稚郎子の母は誰か?
それは豊姫(ゆたひめ)です。
豊姫は「No.94 淀姫を祀る那珂川の伏見宮は伏見稲荷大社の元宮か」で述べましたように、伏見神社(本宮)の主祭神です。豊姫は開化天皇の乳母であり、二人の間の子が稚郎子だったのです。開化天皇にとって長子です。
稚郎子は開化天皇と正妻の子ではないが、春宮(はるのみや 東宮)と呼ばれ、確かに太子です。仁徳天皇は弟であるが、母は神功皇后で正妻の子です。
まとめ
宇道稚郎子 兄 稚郎子皇子 春宮(東宮) 父開化天皇・母豊姫
仁徳天皇 弟 大鷦鷯尊 若宮 父開化天皇・母神功皇后
現実として、天皇位を兄弟で譲り合いして、願い叶わず自殺してまで皇位を譲るでしょうか。
日本書記仁徳紀では、仁徳天皇の都について、「難波に都し、これを高津宮という」とある。そして「宮垣室屋には漆喰を塗らず、垂木や柱は飾らず、屋根の茅も切り揃えず、人民に負担を掛けないようにした」とあり、また、三年経っても人民の家からは炊事の煙が立たたず、五穀は稔らず、百姓は窮乏していると見られた。そのため二年は課役を止められた。その結果、民は大いに富むようになり、民は仁徳天皇を「聖帝」と称したという。
仁徳天皇は聖徳にして聖帝で通っている。
仁徳天皇は葛城襲津彦の娘・磐之媛を皇后にされている。葛城襲津彦は肥前国三根郡葛木の人であり、天皇は肥前(佐賀県)の女を皇后にしている。仁徳天皇はやはり北部九州の人です。
仁徳天皇は(仁徳)元年に「難波に都す」とあり、天皇が河内に東遷される前の「難波の高津宮」は奴国(那)の高津、即ち、那珂川の高津神社となります。裂田神社の南の山手になります。
応神紀では阿直伎を太子菟道稚郎子の師にしたとある。阿直伎や王仁(わに)は筑紫、肥前に来ておられる。吉野ヶ里歴史公園の北、佐賀県神埼市神埼町志波屋(竹原)823に王仁神社が鎮座です。稚郎子も北部九州の人です。
稚郎子にしても、太子を奪おうとする大山守皇子を暗殺まがいで殺害している。
やはり、稚郎子は自殺したのではなく、皇位争奪に関して殺害されたのではないだろうか、と見るのです。
仁徳天皇は聖帝で通っている。故に、仁徳天皇は殺人まがいの皇位継承の争いがあってはいけないのです。稚郎子は自殺までして皇位を仁徳天皇に譲る形式を日本書記はとったのです。
1.開化天皇と豊姫
豊姫(ゆたひめ)は、鵜草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)と阿蘇の奈留多姫命との間に生まれた姫君で、後に安曇磯良の妃となられます。
豊姫は開化天皇とは系図上での縁者で、神功皇后とは義姉妹となりますが、豊姫は神功皇后よりかなりの歳上です。神功皇后は最高位であり、姉妹関係では皇后が年下でも「お姉様」となるのです。我が家の伝承では「高良のお姉様」即ち「高良姫」と云われました。豊姫は開化天皇の乳母であり、開化天皇の子・宇道稚郎子を出産されることにより、開化天皇の配偶者となられます。その後、安曇磯良の妃となられるのです。
豊姫は兄に「川上タケル」がおられますが、川上タケルが佐賀の大和町川上におられる時、クマソの統領となって反旗を起こし、ヤマトタケルに佐賀県背振の広滝(廣瀧神社)で成敗され降服しますが、命は助けられます。その逆賊の妹の豊姫は忠臣となって、15歳年上の異母兄の安曇磯良と一緒になって天皇家を助けられます。
豊姫はクマソ族であり、逆臣・川上タケルの妹であることが辛かったことでしょう。それは母の奈留多姫も同様です。
神功皇后崩御後、佐賀県大和町川上の與止日女神社に、豊姫は河上大明神として鎮座されます。また、福岡県糸島の志摩半島の二見ヶ浦にある夫婦岩は安曇磯良と豊姫を祀るものです。
高良玉垂宮神秘書 第1条
仁徳天皇時、神功皇后、崩御され、高良明神、豊姫(ゆたひめ)、玄孫大臣安曇磯良、その子、大祝日往子尊、武内大臣は皇宮をともに出られる。
武内大臣は、因幡国へ・・・・
豊姫と玄孫大臣は、肥前国川上に留まりて、豊姫は河上大明神となりたまう。高良大明神、甥の大祝日往子尊は九月十三日に高良の山に遷幸あり。
神功皇后が存命の時、皇宮にて三種神祇の取り扱いを協議された。玉璽は、高良大明神が預かり給い、宝剣は、神功皇后が持たれ、内侍は、玄孫大臣が預かり給うなり。大祝は本名字「鏡山」と申すなり。大祝は職についての名なり。
高良玉垂宮神秘書 第6条
安曇磯良は、筑前国にては志賀、日立国にては鹿島大明神、大和国にては春日大明神と申すなり。
高良玉垂宮神秘書 第7条
皇后の御妹に二人おわします。一人は宝満大菩薩、一人は河上大明神になりたまう。これ豊姫のことなり。
高良玉垂宮神秘書 第142、237条
高良大菩薩は神功皇后崩御のあと、住み慣れた皇居を出で、甥にあたる日往子尊を連れて、小船で下り、やがて筑後においでになり、まず久留米市大善寺に着岸。ここで御船を新造して大舟で漕ぎだし、大川市酒見に上陸。風浪の宮九九社大権現を祀り、さらに有明海に出て、こんどは大牟田市黒崎に上陸、ここからまっすぐ北に陸行して山門郡瀬高イチカウラ、八女郡人形原を経て高良山に登り、八葉の石畳を築いて地主神たる高樹神を退け、ついに、この高良山に鎮座になった。ときに仁徳天皇の御宇9月13日のことであったという。
高良大菩薩(開花天皇)は日往子尊を甥とよんでいる。
日往子尊は安曇磯良と豊姫の子です。
開花天皇は安曇磯良・豊姫を家族同様に扱っておられます。
開花天皇は豊姫からして約25歳の年下です。親子程の違いがあります。
系図からして、開花天皇と安曇磯良・豊姫が義兄姉の姻戚になられたのは、豊姫が開花天皇の乳母となられ、開花天皇の若き日の配偶者となることにより、安曇磯良・豊姫は義兄姉になられたのです。
豊姫は高良の神の配偶神である
高良の神は朝鮮半島へ出征して凱旋して帰って来た(高良山雑考・古賀寿)
また、安曇磯良を玄孫大臣と呼ぶ説明が高良玉垂宮神秘書 第1条に記されています。
高良玉垂宮神秘書 第1条
嫡男日神の垂迹 表筒男尊(安曇磯良)の大臣公をいかがすべきと仰せられれば、皇后やがてのたまう。添も天照大神の「ひまご」にておわします間柄、玄孫大臣物部大連と申し奉るべしとおおせけり。玄孫大臣と書いては、ひまご大臣と読めり。
安曇磯良は天照大神(大日霊貴・ヒミコ)の「ひまご」といっているのです。
天皇家・姫氏の流れとなります。大変な出自です。
大幡主と豊姫(天照女神)を祀る夫婦岩 福岡県糸島市の志摩半島の二見ヶ浦
「豊姫を開化天皇の乳母とし配偶者とした系図」を見ていただくと、開花天皇と安曇磯良・豊姫の家族関係がよく分ります。
そして、豊姫は神功皇后の義姉となり、(鴨)玉依姫は義叔母になります。また、日往子尊は開花天皇の甥になります。それで、開花天皇、神功皇后、安曇磯良・豊姫、その子・日往子は家族同然に皇宮に住めるようになるのです。
高良玉垂宮神秘書で「(鴨)玉依姫、豊姫が神功皇后の妹」とあるのは、立場上の問題であり、神功皇后は皇后として女性で最高の地位にあり、二人の姫君は立場上、臣下となられる故、年上でも「妹」となります。
このように、豊姫(ゆたひめ)は、開化天皇の配偶者であり、神功皇后の妹として重要な地位に就かれるのです。
豊姫を開化天皇の乳母とし配偶者とした系図
2.宇道稚郎子を祀る那珂川の乙子神社
那珂川の山田の伏見神社本宮の対岸(左岸・西)に井尻があり、そこに乙子(おとこ)神社が鎮座です。祭神は宇道稚郎子、埴安神、大山祇神です。埴安神は大幡主です。
(近くの氏子さんにお聞きしたのですが、ここ那珂川市の山田が「山田」地名発祥の地だそうです。福岡県朝倉市の山田の地名は、ここ那珂川の山田が移動していった、と言われました。山田の地名は多く、他に有名なのは、審神者神社の福岡県久山町山田、福岡県桂川町内山田の天神社があります。)
乙子神社の鳥居をくぐって境内に入ると湛誉(たんよ)上人を祀る君命社(くんめいしゃ)があります。御堂には湛誉上人像、観音如来の立像、座像の3基が安置され、これらの仏像は金色に輝いています。
君命社の左奥の石段を上った所に乙子神社が鎮座です。
脊振山寺を守護する神とされ、この社殿の所が院使寺の跡であるといわれています。
君命社の後の小山に古墳があり、湛誉上人の墓であるという。
院使寺は「井尻」の地名の由来となっている。(元は「居尻」→「井尻」となる)
乙子神社 福岡県那珂川市別所(井尻)488
拝殿天井下に「波乗りうさぎ」の彫刻があります。
祭神に埴安神(大幡主)と大山祇神が祀られているということは、この神社の古宮が田(でん)神社だったのでしょう。祭神の大幡主と大山祇を合わせて「田の神様 タノカンサー」と言います。ご神体は「石」ひとつです。
乙子神社、伏見神社(本宮)、裂田神社はラインに乗っています。この三社は関連があります。
乙子神社(祭神・宇道稚郎子 うじのわきいらつこ)
伏見神社本宮(祭神・豊姫 とよひめ、宇道稚郎子の母)
裂田神社(祭神・開化天皇・神功皇后、宇道稚郎子の父、義理の母)
この三社ラインは、宇道稚郎子を中心に親子が繋がっているのです。
しかも、那珂川の奥地から日吉神社、猫城に次ぐ位置です。重要な神社となります。
湛誉上人を祀る君命社と院使寺
東門寺・霊仙寺の歴史の項によれば、この寺は脊振山岳信仰に関連する施設であったという。
筑前国続風土記
別所村の枝村なり。今は訛りて居尻といふ。相伝へて云う、元明天皇の御宇、和銅2年(709)より脊振山に住せし名緇(めいし)湛誉(たんよ)上人 院宣ありて召るる事あり。是は太子の御なやみ加持のためとぞ聞えし。かくて湛誉は詔に応じて帝闕(ていもん)に至りける。其時、院使の至りし寺なればとて、院使寺と号すならん。今は寺はなく成たれど、其跡に観音堂残れり。其側に湛誉上人か木像あり。
上人は和銅年間(708-715)、別所村の麓寺(西安寺)におられたが、和銅2年(709)、元明天皇(げんめい)より太子の悩みの加持祈祷のため都へ上がってくるよう詔勅があった。
その院使が訪来の寺であり「院使寺」といった。「院使 いんし」が訛って「居尻」という。現在の「井尻」です。また、湛誉のことを地元では「君命様(くんめい)」と呼んでいる。これは君命を受け京に上ったことに由来する呼び名であるという。
別所村の南方の背振山一帯は修験者の修行の寺が多く、その中心が霊仙寺という。
今はこの寺はないが、臨済宗の開祖・栄西が南宋から帰国したおり、その庭に茶の種をまき栽培したことから日本茶の栽培の起源、日本茶の発祥地とされる。その霊仙寺の開祖が湛誉上人であった。
霊仙寺跡
佐賀県神埼郡吉野ヶ里町松隈、脊振山系千石山の中腹にある山岳仏教の寺院跡。
脊振山は和銅年間に湛誉上人により開山され、山岳仏教の聖地として栄えたが、霊仙寺はその中宮にあたる。現在では江戸時代に建立された乙護法堂(おとごほうどう)のみが残っている。
建久2年(1191)、宋より帰国した栄西禅師が持ち帰った茶の種を、霊仙寺の西谷の石上坊の庭にまき、あわせて茶の製法を伝えたことから「日本茶樹栽培発祥の地」と言われている。 佐賀デジタルミュージアム
君命社(くんめいしゃ)
湛誉(たんよ)上人
3.もう一つの乙子神社
志賀海神社が鎮座する福岡市東区志賀島の中央部の山頂に「乙子の森」があり、「乙子神社」が鎮座です。志賀海神社の祭神は天照女神であり、乙子神社の祭神は「稚郎子皇子命」です。
志賀海神社のご祭神は綿津見(わたつみ)三神とされ、底津綿津見神、中津綿津見神、表津綿津見神と代名詞的に表記されています。正式には「わたつみ」は「海祗」であり、「海」は朝鮮語で「パタ」と発音します。「わた」はその訛りです。
海祗(わたつみ)神は天照女神となります。綿津見三神は天照女神の三分神となります。
志賀島の「乙子の森は志加大神の御子の御塚なり」といわれ、志賀海神社の裏山(島中央部)に乙子神社が鎮座です。その志加大神は天照女神です。
ご神体は「石」で、「稚郎子皇子命」と刻まれています。日本書記の「菟道」あるいは、那珂川の乙子神社の「宇道」を、わざと避けたのでしょうか。近畿の「宇治」の地名は「稚郎子皇子」が起源で、豊姫(天照女神)と皇子と共に「伏見、宇治」に移動したのでしょうか。
志賀島の乙子の森
志賀島の乙子神社(祭神・稚郎子皇子命)
4.佐賀市大和町下無津呂の乳母神社
乳母(めのと)神社と称します。珍しい呼び方の神社です。
佐賀市大和町の與止日女神社横の国道323号を北上し、嘉瀬川ダム湖を横に更に北上しますと、富士町下無津呂に至り、右手に乳母神社が鎮座です。
乳母神社(めのとじんじゃ)
所在地 佐賀県佐賀市富士町下無津呂
祭 神 (鴨)玉依姫、大海祗
神殿(本殿)は外削ぎの男千木、鰹木3本で男神を中心に祀る神社ですが、祭神は(鴨)玉依姫、大海祗となっています。
祭神「大海祗」は若き日の鵜草葺不合命であり、豊玉姫の母代わりに妹の(鴨)玉依姫が鵜草葺不合尊の養育を勤めておられる。
やがて、鵜草葺不合尊が若く15歳ごろ、母代わりの叔母の(鴨)玉依姫と浮気し、夫婦になられている。その時の子が安曇磯良です。この流れは日本書記の流れと重なりますが、二人の間の子は日本書紀では崇神帝となっていますが、本当は、崇神帝は大山咋神と(鴨)玉依姫の子です。
乳母神社とは、この(鴨)玉依姫を乳母とした神社と社伝は云うのでしょうか。
日本書記に因み、祭神が(鴨)玉依姫・鵜草葺不合尊とされているのであれば、もっと重要な祭神が考えられます。
この地域一体は、古湯の温泉があり、鉱泉が沸き、水温も谷水としては少々高く、塩分、ミネラルが含まれ、王家の乳児を育てるのに適した内地ではなかったろうかと思うのです。
北山谷、三瀬谷は古代の王家の乳児を育てる谷でした。
佐賀県神埼市脊振町鹿路(ろくろ)に桂木(かつらぎ)があります。「この桂木には甲羅(高良)と云う地名も残っていた」と云われ、「甲羅」は天皇の后がお住まいになる集落であると云う。
豊姫と玉垂命との年の差は25歳程であり、豊姫は玉垂命の乳母となり養育したのではなかろうかと想定するのです。北山ダム湖の東には、神功皇后生誕を祀る野波神社、神功皇后の両親を祀る下ノ宮があり、さらに、大雀命(仁徳天皇)と菟道椎郎子の兄弟を祀る乙宮神社、若宮神社があり、仁徳天皇と椎郎子の舞台がそろっているのです。
その名残が、玉垂命と豊姫を祭神とする乳母神社として建立され、後の時代に、日本書記の「妹の鴨玉依姫が鵜草葺不合尊の乳母となり、後に夫婦となった」となり、祭神が(鴨)玉依姫と大海祗を祀る神社として、今日の神社が保存されてきたと思うのです。
乳母神社は本来、玉垂命と豊姫を祭神とする神社ではないでしょうか。
嘉瀬川谷ぞいに「よど姫神社」「乳母神社」が並び、これらの神社は、やはり「豊姫」を中心に祀る神社とみるのです。
5.脊振南麓の神功皇后と野波神社
佐賀県背振山南麓・嘉瀬川上流の川上渓谷の上流に北山ダム湖があります。
北山ダム湖に沈む前の「野波(のなみ)の里」は神功皇后生誕の地という伝承が残っており、そこには、神功皇后を祭神とする「野波神社」が鎮座し、皇后(息長足媛おきながたらしひめ)の両親を祭神とする「下ノ宮」が宮ノ口に鎮座です。この地域は、息長足媛の伝承が色濃く残っています。
野波神社 佐賀県佐賀市三瀬村大字杠(ゆずりは)
祭神 神功皇后
下ノ宮 佐賀県佐賀市三瀬村宮ノ口
祭神 息長宿祢命・葛城之高額媛命
由緒 創立不詳とされているが、野波神社の下宮であるところから、野波神社と同じ時期に創起されたお宮とされる。祭神の息長宿祢命と葛城之高額媛命は神功皇后(息長足媛命)の御両親です。本宮よりも高地に祀られ「下ノ宮」と称されるが、息長足媛命が皇后になられてより、立場違いにより、後に下宮となったとされる。
乙宮神社 佐賀県佐賀市三瀬村宮ノ口
祭神 大雀命・菟道椎郎子
杠(ゆずりは)日向守が、この二皇子を祀った由緒は不明。
乙宮神社は祭神に豊玉姫を一般に祀るが、淡路国の諭鶴羽(ユズリハ)権現は熊野権現の奥の院と称されており、熊野権現・天照女神(豊玉姫=乙宮権現)が乙宮神社の祭神とされる。大雀命・菟道椎郎子は別の神社に祀られていたが、明治の合祀統合、さらに元の宮復帰を行なううちに、神社がごっちゃになったのではないかと推測します。いずれにせよ、大雀命・菟道椎郎子を祀る神社が近くにあったと思われる。
若宮神社 佐賀県佐賀市三瀬村松尾
祭神 応神天皇・神功皇后・大雀命
寿永年間(1181)鶴ヶ岡八幡宮の勧請で、松尾村に神社を建立とあるが、創起はあきらかでない。由緒は「記紀」に沿って応神天皇を主祭神とし大雀命を若宮としているが、開化天皇の若宮は大雀命(大鷦鷯命・仁徳天皇)であり、その母は神功皇后となります。
明治43年の神社の合祀統合が行なわれ、祭神は野波神社に合祀された。50有余年後の昭和36年、国道沿いの現地に社殿を新築し、若宮神社を復興している。
鏡神社 佐賀県佐賀市富士町大字下合瀬654
祭神 息長足媛命
後奈良天皇の御字弘治年間(1530頃)合瀬村の地頭合瀬伊賀守の祖が祭り、初めは合瀬神社と称していたが、天明5年(1785)鏡神社と改めた。
大鷦鷯尊・椎郎子の活動の舞台は脊振山東部
那珂川の市ノ瀬から坂本峠を越えれば、脊振南麓の旧三瀬村です。そこから脊振山を右手に西に進むと旧北山村・野波の里に行き着きます。また、福岡市の油山の西から三瀬峠を越えると野波の里はすぐです。糸島から長野峠を越えれば、すぐ富士町上無津呂です。
古代では脊振南麓と北麓は一体運営されたことが、地形から、神社の所在からうかがわれます。若き日の神功皇后と大鷦鷯尊・椎郎子の活動の舞台は脊振山東部(南麓・北東部)だったのです。日本書記で言う近畿の宇治・伏見地域ではないのです。



















