宮原誠一の神社見聞牒(087)
平成30年(2018年)12月20日

No.87 福岡県吉井町橘田の竃門神社の古宮は田神社だった ⑫


福岡県(筑前)朝倉志波の筑後川対岸に、「天智天皇(斉明天皇)、朝倉の木の丸殿より、この地を眺められ「橘の広庭」とのたまわせてより「橘田」の地名起これりという」神社由緒に記載された吉井町の「橘田」の地名があります。この地に宝満宮・竃門神社が鎮座です。
「橘田」は朝倉橘広庭宮に由来するという。朝倉宮の高山(こうやま)から見て、対岸の吉井町は広々とした庭のような田園地帯だったのでしょう。恵蘇宿の木の丸殿から見る対岸の吉井の橘田は広々と見渡すことはできません。やはり、高山からの眺めでしょう。
橘田の竃門神社は、白鳳元年(672)筑前の竃門神社の勧請であると由緒は記します。
しかし、社地社殿をよく見ますと、そこには、大幡主・大山祗を祀った「田神社でんじんじゃ」が古宮の形を留めていました。


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      竃門神社から高山(こうやま)を望む(左・宝満神社の杜、右・原鶴温泉)


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          小江(おえ)八幡神社より志波地区・高山を望む


倭国軍が朝鮮半島西岸の白村江(錦江河口)で戦ったのは663年(白鳳3年)8月27・28日です。
天武天皇の勅願により、白村江の戦の前年の白鳳2年(662)、筑後御井の高良下宮が創建されています。
神社由緒が述べる「白鳳元年(672)筑前の竃門神社の勧請」の年号は近畿王朝の年号使用でしょう。白村江の戦の後の672年に神社が創建されるはずがありません。戦勝祈願を込めた白村江の戦の前の神社創建でしょう。「白鳳元年(672)」は九州年号で、白鳳元年661年となり、白村江の戦の前の年で、整合がとれます。

また、神社由緒による祭神の説明では「祭神玉依姫尊は神武天皇の御母君で、海の宮より満玉、干玉をお持ちになられて」と記します。
「玉依姫」は3人の玉依姫がおられます。
 神武天皇の母・神玉依姫
 崇神天皇の母・鴨玉依姫
 鴨玉依姫の娘・活玉依姫
宝満宮の祭神は「崇神天皇の母・鴨玉依姫」です。
ここでも、「神武天皇と崇神天皇」、「神玉依姫と鴨玉依姫」の混同が見られます。
今後、このような神社の由緒書を見られた時は注意して読みましょう!

神功皇后の新羅征討時、海神(わたつみ)豊玉彦から干珠・満珠の玉をもらい受ける姫君は、鴨玉依姫で、別名・豊姫とされ、定説はありません。
宝満神社の勧請は、神功皇后の新羅征討時にあやかった鴨玉依姫を祀る宝満神社を、天智天皇が百済救援の戦勝祈願のために創建された神社でしょう。

しかし、神社の創建者が、天智天皇か、斉明天皇か、天武天皇かは、定めることはできません。朝倉宮について、日本書記は三人の天皇の関わりについて、余りにも不正確が多く、曖昧すぎます。これが日本の正史かと言いたい程です。「日本正史の日本書記」に斉明天皇の死についての記述がありますが、幽霊まがいの記述は知的レベルが余りにも幼稚です。「No.80 朝倉恵蘇宿の筑後川を往復した三韓の貢船 ⑥」で述べていますように、斉明天皇は筑前朝倉で崩御されていません。日本書記はうまくウソをついています。


竃門神社 福岡県うきは市吉井町橘田81-1

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竃門神社(宝満宮)由緒(社務所案内板)
所在 福岡県うきは市吉井町橘田81-1
祭神 玉依姫尊
配神 左・応神天皇 右・息長帯姫尊
由緒 縁起書によれば、ご創建は白鳳元年(672)10月26日、筑前の竃門神社を遷し奉れるとある。昔は毎年10月26日の祭礼には、当社の五、六町西のご旅所にご神幸が行われていた。現在の神殿は元禄四年(1691)の再建時のものである。
祭神玉依姫尊は神武天皇の御母君で、海の宮より満玉、干玉をお持ちになられて、万物の生活をつかさどり、飢渇を救われ災を祓い、安産を守り、交通安全の神として、古来信仰あつし。
境内に巨岩にて造れる手洗いあり。学者言うに、古代祭祀の酒醸に用いし「酒槽さかぶね」なりという。
また、拝殿に掲げる「農耕絵馬」は、わが国農耕史研究上、貴重な資料である。
当社より北にあたり童子丸と称する池あり。水神を祀りて、毎年祭礼を行う。これ水火剣難病災を避け、安全を守り、給うと伝える。
往古、天智天皇、朝倉の木の丸殿より、この地を眺められ「橘の広庭」とのたまわせてより「橘田」の地名起これりという。

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祭神は左・応神天皇、右・息長帯姫尊とありますが、元宮の山家宝満宮の祭神も同様にあります。宝満宮は(鴨)玉依姫を祀る神社です。祭神・応神天皇、息長帯姫尊は福岡市の筥崎八幡宮に習ったものでしょう。


宇佐八幡神について
(鴨)玉依姫と応神天皇の関係は、「No.67 豊姫縁起からみる誉田別尊と八幡大神」に述べていますように、宇佐八幡神の誉田別天皇は単なる人皇天皇であり、その神霊は正八幡「大幡主」です。人格者と神霊が憑依一体となっていて、難しい説明です。
孫の誉田別天皇に「十字剣」の紋章を授け、神格化されたのが(鴨)玉依姫です。

誉田別に十字剣をバトンタッチ
久留米地名研究会 百嶋先生講演 2011年2月5日
高良大社の神紋はユダヤ系統の紋章・高格式ユダヤ系統の紋章・イスラエル系統の紋章といってよい。横幅が長いなと思われたら花菱、四角いと思われたら剣花菱です。必ず剣でないといけません。一番最初に親衛隊長をなさった金山彦は熊本の山鹿地方です。櫛稲田姫の生まれた場所、お姉さまの吾平津姫が生まれた場所も同じ場所です。吾平津姫は本当の神武天皇のお后です。そして、偽・神武天皇(崇神天皇)のお后は荒木のシズちゃん(五十鈴姫)、福岡県久留米市荒木です。更にそれに割り込んでいる勇ましい方がいます。その代表が贈・応神天皇です。
現在の糸島市前原町に応神天皇の神社がある。贈・誉田別(ホンダワケ)のみこと、別王です。天皇の祖先であることには間違いありませんが、正当皇統ではありません。この誉田別に十字剣をバトンタッチした、彼らのシンボルであるユダヤイスラエルの紋章を、宗像三姫の一番若い姫、鴨玉依姫から、この紋章(ユダヤイスラエルの剣)を誉田別・(贈)応神天皇にバトンタッチされたのです。それで別王の座、兼、八幡宮の祭神の座を取得された。
宇佐八幡宮は決して、八幡宮では有りません。宇佐神宮が本当です。配列を申し上げますと、宇佐の大親分はここにおられます。大元宮です。田の神様、タノカンサーと呼ばれています。田の神様は那国の王様大幡主と大山祗の神様のお二人です。そして下の方に、三人の女神さんです。宗像の三女神と同じです。そして後で追加したのが贈・応神天皇です。そして神功皇后です。


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扁額「宝満宮」の鳥居を過ぎ、境内の玉垣の後に、大きい月形燈籠が対であります。大山祗(月読命)の燈籠です。
拝殿の向拝の屋根は唐破風で、そこに「右三巴紋」の神紋です。右三巴紋は正八幡・大幡主の神紋です。梁には荘厳な龍の彫刻、唐破風には対のウサギの彫刻。
「うさぎ」は大山祗(月読命)のシンボル動物です。
これらは、この神社が大幡主と大山祗を祀る田神社(田の神様・タノカンサー)であることを意味します。
吉井町の橘田の宝満宮・竃門神社の古宮は「田神社 でんじんじゃ」だったのです。
今の竃門神社は、白鳳元年(661年)10月26日、筑前の竃門神社を勧請し、古い田神社の形式を残し、竃門神社に改築されました、と見るべきでしょう。


境内社・伊勢大神社(祭神・天照大神、豊受大神) 社殿は神明造りです

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奉寄進 伊勢社・七夕社 再建
ふるさとの子どもたちの健康と幸福をお祈りして
            昭和46年(1971)8月
            在福岡市 平川シモ


改修工事寄付者銘盤

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「橘田」の氏子さんの名が見れます。
中野 河野 生野 高木 梅野 久保田 杉 樋口 姫野 菊竹 山本 公畑(こうはた)
後藤 江藤 江口 平川 窪
個々の家の論考は避けるとして、橘族、物部族の方々が大多数です。

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山家宝満宮 福岡県筑紫野市山家2683

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祭神 (鴨)玉依姫を中尊に神功皇后、応神天皇を脇神におく。
由緒
宝満宮由来書に曰く、当社山家宝満大神は勧請由来の義に在らず、化現より以来、降臨の本津宮にて万代不易の廟窟也。
宝満宮由来書に曰く、当社山家宝満大神の由来を尋ね奉るに海神豊玉彦の御子玉依姫命と申奉る。鵜草葺不合尊の神皇后也。姫帝神功皇后、三韓退治の時、当社の御神出現あり、我は是神女なり、名は豊姫命と申し給う。干珠満珠を父豊玉彦に借り受け官軍を助け給ふ云々とあり。
宝満宮縁起一節に曰く、当社、山家宝満大神は蓋し竈門大神御一体なり。
宝満宮由来書の一節に曰く、欽明天皇の御宇、四月吉日選中申酉、祭始と云々。
西宮記に曰く、延喜十五年四月中九日配祭始常云々。賀儀に葵祭有り。此の祭に勅使下り奉幣を捧げ、葵を以て祭らるる由所見有之云々。祭過きて其葵を大内に捧け奉る。此の祭は大事なり、とあり。

山家の宝満宮が「宝満神社」の本宮です。
由緒記に山家宝満大神(鴨玉依姫)は海神豊玉彦の御子の玉依姫であり、鵜草葺不合尊の皇后なり。三韓退治の時、干珠満珠を父豊玉彦に借り受け官軍を助け給ふ云々、またの名を豊姫命申すなり、とあります。
また、由緒記に葵祭のことが記述され、欽明天皇の御宇の四月に葵祭を始めた。祭が終わって、その葵を内裏に捧け奉り、この祭は大事なり、とありす。

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