No.80 朝倉恵蘇宿の筑後川を往復した三韓の貢船 ⑥
宮原誠一の神社見聞牒(080)
平成30年(2018年) 11月02日
福岡県旧朝倉町の神社群を宮野、須川、菱野、山田地区で紹介しています。
今回は山田の恵蘇八幡宮と恵蘇宿についてです。
1.神功皇后と筑紫中津国の姿
日本書記の仲哀紀に中臣烏賊津使主(ナカトミイカツオミ)を召して審神者(サニワ)とし、仲哀天皇に祟った神を神功皇后が聞き出す「くだり」があります。その神が、伊勢国の度逢県(ワタライノアガタ)の五十鈴の宮にまします神、名は撞賢木厳之御魂(ツキサカキイツノミタマ)、即ち天照大神とわかり、御霊を筑紫中津国、現在の北野町大城の今寺に「伊勢天照御祖神社」を創起し鎮められます。現在は「四柱神社」となっていますが、往時は伊勢天照御祖神社として天照大神を祀られたのです。伊勢神宮よりも早い時期になります。
北野町大城の今寺の四柱神社が伊勢天照御祖神社の元宮となります。
羽白熊鷲を滅ぼして後、筑後川の航路の開発に着手されます。
北野町赤司の八幡神社の縁起「止誉比咩神社本跡縁記 とよひめじんじゃほんじゃくえんぎ」(略して「豊姫縁起」という) には、詳しい記録が残されています。
赤司の八幡神社 福岡県久留米市北野町赤司1765
豊姫縁起
羽白熊鷲を滅ぼして後、中瀛海(なかつうみ)を渡り、道中(みちのなか)の蚊田の宮に遷ります。
水沼君、蜷(にな)を集めて、湊場を築き、権宮(かりみや)を設ける。時の人、その御座(みこし)を名付けて「蜷城 になぎ」という。今、「美奈宜」というは訛りなり。
かねて、皇船二艘造りて、上の濟(かみのわたり)、下の濟に浮かべ、自ら、皇后の車駕(みゆき)を迎える。
(中略)
往古の中瀛海は筑後と肥前を隔てて、この当社の西北を廻りて、南筑の間を経て、豊後の境に至る。三韓の貢船、始めて上座郡恵蘇宿に着岸する。
蜷城の湊から河北の庄の渡海を上の濟、竃門山の麓から山田邑に至る渡海を下の濟という。皇船、今、両所にあり。
中瀛海(なかつうみ)は筑後川中流域に入りこんだ有明海のことで、当時は、ここまで有明海の海水が満ちて、今の北野町大城地区は大きい中の島になっていたと考えられています。
水沼君は福岡県朝倉市(旧甘木市)林田に湊場を築き、権宮(かりみや)を設け、これを「蜷城 になぎ」といっている。今は「美奈宜 みなぎ」といい、ここに美奈宜神社が御鎮座です。
当時、水沼君の住居は、中瀛海(なかつうみ)の大城の島であり、周りを有明海の瀛津海(おきつうみ)に囲まれており、防衛上でも利点があったとみています。
(注) 瀛津海:当時、筑後川中流域は有明海が入り込み、その奥を瀛(奥)津海といった。
蜷城の湊から河北の庄(大城)の渡海を上の濟(かみのわたり)、竃門山の麓(小郡市津古付近)から山田邑に至る西北渡海を下の濟(しものわたり)として、皇船二隻を常駐させ船便にしている。
さらに、「上の濟」の上流の朝倉郡恵蘇宿(山田邑)には、「三韓の貢船、始めて上座郡恵蘇宿に着岸する」という記述があり、恵蘇宿は三韓の貢船の初めての宿泊場所となっている。
上の濟は筑後川に沿った航路と想像が出来るのですが、下の濟の航路を想定するのは難解です。竃門山の麓は宝満川の上流の小郡市津古付近とみて、下流の小郡市下岩田に出ます。当時の海岸線は、下岩田、大刀洗町高樋、甲条、本郷、旧甘木市小田、田島、旧朝倉町大庭、菱野と、それぞれの南側にあったと想定できます。
しかし、航路となると、現在の地図からは想定できません。上記の地域の海岸線北側には、下岩田大神宮、高樋老松神社、甲条大神宮、小田の原田八幡神社、田島の田神社、大庭の太刀八幡神社と特徴のある神社が鎮座されています。
さらに、豊姫縁起は中瀛宮がある大城の守りとして、宝満山(宮地嶽か)に右衛を置き、右の守りとし、高良山に左衛を置き、左の守りとすると記します。
豊姫縁起
誉田別尊の誕生の翌年、豊姫を道主貴の神形代(みかたしろ)となし、右衛を竃門山に築き、左衛を山田(山川?)の高牟礼(高良山)に築き、中瀛宮(なかつみや)を西海鎮護となす。
豊姫命が中瀛宮に居ますことにより、世の人、道主貴を止誉比咩神社(とよひめじんじゃ)という。
9年4月、武内宿祢を筑紫に遣わし、左衛に居ませ、百姓を監察せしめる。
後の人、神廟を起て、蚊田の渟名井(かだのぬない)の水を酌みて、浅水間の井(あさづまのい 朝妻井)に移し、これを祭る。高良玉垂命神社、これなり。
豊姫縁起は、北野町大城の蚊田の渟名井(かだのぬない)の水を酌みて、浅水間の井(あさづまのい)に移し、これを祭る、とあります。
当初は「浅水間の井」と呼ばれていて、後に、好二字に変えて「朝妻の井」とされたのでしょうか。「朝妻」は久留米市の地名にもなっています。
そして、ここに創起したのが「高良玉垂命神社(高良神社)」であるという。
豊姫縁起の応神天皇紀に「高良玉垂命神社」の名称が初めて出て来ますが、具体的な祭神名は記載されていません。現地の古い石碑では「高良神社頓宮」となっています。
社殿は朝妻井の耳納断層崖の上のJR九大線久留米大学前駅付近にあったようです。
今は駅前南側に高良大社屯宮跡(頓宮=摂社)の石碑があり、駅構内も境内地であったようです。
石碑には「屯宮の地が御井郡の名の起こり」とされ、「高良大社の三基の神輿がこの屯宮の地まで幸行した」とされ、この屯宮の地が高良大社や地域にとって大事な土地であった、と記しています。
神功皇后時代、恵蘇宿がある旧朝倉町山田を含め、宮野、須川、菱野、志波地区一帯は、九州王朝にとって佐賀泉と同様に重要な地域ということになります。
2.旧朝倉町の恵蘇宿
「三韓の貢船、始めて上座郡恵蘇宿に着岸する。」と豊姫縁起は記します。
「上座郡恵蘇宿」とは、現・福岡県朝倉市恵蘇宿、旧朝倉町山田の恵蘇宿です。
熊本の阿蘇山の「阿蘇」と並び「恵蘇」の地名は意味深です。
呉の太伯王闔閭(こうりょ)の墓(虎丘)があるとされる江蘇省蘇州市を連想します。
呉王闔閭は松野連系図によれば、九州王朝天皇家姫氏の太祖・夫差公の父君になります。
江蘇省蘇州市
春秋時代に闔閭が呉の都として、呉文化圏の中心であった。臥薪嘗胆、呉越同舟の舞台である。呉の君主の姓は姫(き)。春秋末期、呉は国王闔閭の時代に最盛期を迎え、前473年に越王の勾践により滅ぼされた。
夫差は越に闔閭を殺された後、薪の上に寝て復讐心を忘れなかった。胆を嘗めて復讐の心を呼び起こし、部屋に入るたびに部下に「汝、会稽の恥を忘れたか」と言わせて記憶を薄れさせないようにした。この故事から臥薪嘗胆の言葉が生まれた。江蘇の名は江寧と蘇州から来ている。 (Wikipediaから参照)
中国トレンドEXPRESS 2017年10月10日
まるで日本人? 江蘇人の気質は「繊細でまじめ」
「江蘇省の人の気質」にはどんな特徴があるのでしょうか。中国のQ&Aサイトによると、江蘇省の人は性格が穏やかで、文化や教育を重視し、理性的、決まりを良く守る傾向にあるそうです。いわゆる「真面目」なタイプと形容することができそうです。また、思慮深く将来設計をしっかりし、リスクを避ける反面、冒険心に欠けるというイメージでとらえられているようです。
話し方では婉曲表現を好み、ずけずけ物を言われると容易に傷ついてしまいます。些細なことにまで注意が行き届く反面それらを内に抱える傾向があるようで、うつ病になる人の割合は上海に次いで中国で2番目に高いそうです。こういった特徴にはどこか日本人と通じるところがあるようにも感じられます。
呉国の滅亡による呉人の九州への移動、江蘇人の気質が日本人に似ていることからすると、呉人は日本とおおいに関係ありそうです。
「阿蘇山」は「可と蘇の神々が降りて来る山」、神々とは、伽耶国、蘇(楚)国の神、つまり、南九州、いわゆる日本書記で言う「熊襲」の国の神々です。「阿」の可は「可也 かや かなり」の可で、編は柴刺と考えます。(柴刺は古典的には枝を刺すですが)
佐賀県の柴刺は〆縄に着ける紙垂(しで)を竹の先に挟んで刺し立てたもので、ここに神々が降臨されます。「ひもろぎ」の原型です。
よって、阿蘇山は南九州の神々が降りて来る山と解釈しています。
「恵」は縁起がよい。
「蘇」の語句は九州王朝天皇家姫氏と関係が深いのではないでしょうか。
私の自論です。
※阿蘇山は蘇(楚)の神を祀る山となります。(追記)
3.恵蘇八幡宮
山田の恵蘇宿に恵蘇八幡宮がご鎮座です。
社頭は筑後川と恵蘇山に麓に挟まれた地にあり、現在でも、恵蘇八幡宮の前を向ける往還は狭くなっていて、志波地区の入り口となっています。そこには「朝倉の関」別名「名のりの関」が設置されています。
恵蘇八幡宮 福岡県朝倉市山田166(旧朝倉町大字山田字恵蘇宿166)
社務所配布略記
. 斉明天皇(第37代)
祭神 応神天皇
. 天智天皇(第38代)
由緒
斉明天皇7年(661)建立
斉明天皇は661年、百済救援のため朝倉市須川字長安寺の橘広庭宮に皇居と大本営をお遷されました。そして、中大兄皇子(後の天智天皇)は、国家安泰と皇軍の武運長久を御祈願されるため宇佐神宮のご祭神・応神天皇の御霊をお斎りになり、朝倉山天降八幡とお祈りされました。その後、天武天皇の御代、白凰元年壬申(673年)斉明・天智天皇の二神霊とも合わせ祀り、恵蘇八幡三柱大神と名付けられました。昔は上座郡中三十三村の総社でしたが、現在は朝倉町の総社氏神となっています。
「日本書紀」によれば、
斉明天皇6年(660年)7月、百済は新羅・唐の連合軍に亡ぼされ、同年10月、かつてから親交関係にあった日本へ使者を遣わし救済の要請。斉明天皇と中大兄皇子らは、その要請を受け入れ、救済軍を派遣することを決定した。
翌661年1月6日、天皇は、中大兄皇子(後の天智天皇)、大海人皇子(後の天武天皇)、中臣鎌足らと共に難波の港から海路筑紫に向かい、1月14日四国の石湯行宮に到着し、3月25日那大津(博多)に至り、磐瀬宮(三宅)をへて5月9日に朝倉橘広庭宮に遷られた。しかし斉明天皇は滞在75日(7月24日)御年68歳で病の為崩御された。
とあります。
そして、中大兄皇子は恵蘇八幡宮の東横の木の丸殿にて、12日の服喪をされている。
木の丸殿から更に上に登った山上に、斉明天皇の御遺骸を仮安置したといわれる「御陵山」が言い伝えられている。
663年8月、白村江(錦江河口)で、唐軍と百済・倭国連合軍が激突。軍船400は燃え上がり、倭国軍は大敗した。
恵蘇八幡宮境内から山田堰を望む、すぐ下は国道386号
木の丸殿由来(町案内板)
西暦661年5月9日、百済救済のために朝倉橘広庭宮に遷られた斉明天皇は、病気と長旅の疲労のため同年7月24日、御年68歳で崩御された。7日後の8月1日、皇太子中大兄皇子(後の天智天皇)は、母の御遺骸を一時朝倉山(御陵山)に御殯葬になり、御陵山の山腹(現在の八幡宮境内)に、木皮のついたままの丸木の柱を立て、板を敷き、芦の簾を掛け、苫をふき、あばらやなる屋に、塊を枕にし、1日を1ヶ月に代えて12日間喪に服されたといわれ、この地は「木の丸殿」「黒木の御所」と呼ばれるようになった。
拝殿前の参道両脇には松の木、向拝の天井には羅針盤、その屋根は唐破風、その上には千鳥破風、唐破風には牡丹の彫刻、本殿の彫刻は、虎、椿、ビワ、瓜。これらの痕跡は「大幡主」を祀る神社ではないか。
中大兄皇子が皇軍の武運長久を祈願のため、宇佐神宮の八幡神を勧請されたと由緒は述べられていますが、中大兄皇子が恵蘇八幡宮に関われたとするならば、「大幡主」神社に宇佐神宮の八幡神を追祀されたのではなかろうかと思うのです。
しかし、社伝による恵蘇八幡宮の創立は、斉明天皇7年(661)建立とあり、この時期は九州王朝下の宇佐神宮です。祭神は誉田別尊(誉田天皇)ではないのです。この宇佐神宮の八幡神は正八幡・大幡主です。
また、社務所配布略記には「天武天皇の御代、白凰元年(673)斉明・天智天皇の二神霊を合わせ祀り」とありますが、仲の悪かった中大兄皇子と大海人皇子、天武天皇(大海人皇子)が天智天皇(中大兄皇子)を合祀されるでしょうか。
後で述ますが、中大兄皇子は朝倉でなく、熊本県玉名郡長洲町の長洲宮におられました。
私は、朝倉宮におられたのは大海人皇子と思っています。
さらに、斉明天皇は朝倉で亡くなられたのでなく、白村江の敗戦後、中大兄皇は奈良県明日香に移られ、斉明天皇は四国に隠棲されたのち崩御され、この6年半の間は、中大兄皇子は天皇に即位できず、日本書記は「称制(しょうせい)」で誤魔化したと想定しています。
斉明天皇の御遺骸を仮安置したといわれる「御陵山」は、本当に斉明天皇の御陵でしょうか。
4.中大兄皇子は朝倉に移られる前は何処におられた
日本書記によれば、661年1月6日、斉明天皇は中大兄皇子、大海人皇子、中臣鎌足らと共に、大和国高市郡飛鳥岡本宮を出発、難波の港から海路筑紫に向かわれ、3月25日那大津(博多)に至り、5月に朝倉橘広庭宮に遷られた、ことになっている。
中大兄皇子は朝倉に遷られたといわれますが、その前は何処におられたのでしょうか。
連携ブログ「磯良の海に想いを寄せて」ヒサミツ管理人
「鴨(賀茂)の流れ」 2015-11-10 に次のようにあります。
筑紫の賢人(真鍋大覚さん)『灘の國の星』には、こんな記述があります。
天智天皇は 662年、筑紫の長洲宮に遷都された。
そこからは脊振山が見えた。脊振では葵祭があっていた。
天智天皇は大和に帰還してから、667年に山城の国の氏神の加茂の社で、筑紫と同じ「葵祭」を催行された。
こうして筑紫の神々は畿内に遷座して、故郷の発祥の地をしのぐほどに繁栄した。
「脊振神社」は京都「賀茂神社」に、「現人神社」は大阪の「住吉大社」に生まれ変わって、本家本元は寂れてしまった。
(中略)
下鴨神社は肥前背振山麓の賀茂の祖神「賀茂建角身命」を祀る 神社でした。
脊振神社の「葵祭り」が京都三大祭りの賀茂社の「葵祭り」の起源だったのです
中大兄皇子は「663年8月白村江の戦い」の前年662年、脊振山が見える筑紫の長洲宮におられた。そして、脊振神社の「葵祭り」を見られ、大和に帰還してから、667年に山城の国の氏神の加茂の社で、筑紫と同じ「葵祭」を催行されている。
筑紫の賢人は中大兄皇子の朝倉の滞在の件は触れていません。
脊振神社は京都の賀茂神社の元宮であった。
葵祭も脊振神社の葵祭が移行されたものであった。
脊振神社の祭神は市杵島姫命(弁財天)とされるが、主祭神は建角身命(たけつのみのみこと)、即ち大幡主です。
市杵島姫は天照女神です。
「瀬高町長島の釣殿宮の腹赤(はらか)の魚の伝説」も参考にしますと、「筑紫の長洲宮」は熊本県玉名郡長洲町ということになります。
熊本県玉名郡長洲町は橘族にとって所縁の地です。
長洲町には「宮野」の地名が「腹赤」の北隣にあります。
また、中大兄皇子は背振神社の「葵祭り」を見聞されており、背振山南麓にも滞在されていたことになります。現在の佐賀県みやき町(白壁)です。
古代史の復元シリーズ 7「天智王権と天武王権」佃 収 著によれば、桓武天皇の父であり、天智天皇の孫である白壁王(光仁天皇)は肥前国三根郡の白壁に住んでいたとあります。
佐賀県みやき町は天智天皇の子孫がおられた所なのでしょう。
さらに、斉明天皇は白村江の敗戦まで、佐賀の吉野(佐賀県佐賀市富士町嘉瀬川ダム湖) 神功皇后生誕の地近くに居られたといわれる。斉明天皇は本当に朝倉に居られたのでしょうか。
「斉明天皇は、朝鮮半島出兵の軍事基地たる『佐賀なる吉野』へ31回の視察行幸は、斉明元年(655)から、白鳳三年(663・天智二年)年の4月14日の「閲兵」が最後で吉野行幸は終わっている。」 『日本書記』「持統紀」の真実」 正木裕氏
佃 収 著「天智王権と天武王権」の一節
白壁王は「肥前の白壁」に居て高野新笠と婚姻している。
肥前には多くの百済人が住んでいる。神埼郡を流れる城原川は「百済川」と言い、その上流には「百済大井」がある。城原川には多くの百済人が住んでいる。「百済大井」には後に百済からの亡命者翹岐が移り住む。多くの百済人が住んでいたからである。
肥前の三根郡を流れる寒水川(石川)には「石川百済村」や「下百済河田村」がある。ここにも多くの百済人が住んでおり、村を形成している。
高野新笠は百済の武寧王の子孫であり、肥前の白壁に居る白壁王に嫁いでいる。白壁王が結婚を申し込んだとあるから高野新笠も肥前に住んでいたのであろう。
光仁天皇は天智天皇の孫である。天智天皇の父舒明天皇も百済人である。桓武天皇は父方も、母方も百済人である。桓武天皇から完全に百済系の天皇になる。
瀬高町長島の釣殿宮の腹赤(はらか)の魚の伝説
http://www.geocities.jp/bicdenki/oogatizu.html
「古地図に見る長島の歴史(こうやの宮)」
中大兄皇子の時、占師が皇太子の顔を見て、「あなたは大変良くない相が現れています。」と申しあげると皇子は「そんなに良くない相があったら、天皇の位についた時、都合が悪いことだ。良くない相を無くしたいものだ。」と申され、即位前にその相を除く為に供人を連れて西国(中国・九州地方)に修業に出られた。旅を続けられ、筑後の江の崎(大和町江崎)より船で小佐島(おさじま 長島)に着かれたが夜になり疲労激しく、お食事を差上げる人は誰もいませんでした。
その時、海岸で網を引いていた村の人たちがいたので、皇太子が魚を求められると、村の人たちは快く赤い腹の魚を獲って食事に出したら、大変喜ばれ食され、しばらく滞在して旅の疲れを癒された。皇子は、心温まる親切に深く感心され、「自分が天皇の位についたなら、今日のことを忘れないで、必ずこの魚を食事の材料に調(ととの)えて置くようにしよう。」と思われ、そこで、「この魚は何という魚か。」と尋ねられたので、村人は「この魚は腹赤(はらか)と申します。」と答えました。皇子は西遊を終え都に帰られ、即位されて、あの時のことを忘れず、この赤腹の魚を取り寄せになられたと言われています。 この腹赤の魚は、聖武天皇の天平15年(743)から朝廷の正月の行事にはなくてはならないものとなり、筑後(瀬高町長島)と肥後(熊本県長洲町赤腹)の二国から大宰府を通じて朝廷に送られることになった。
脊振神社(せふりじんじゃ)下宮
住所 佐賀県神埼市脊振町服巻1455
祭神 市杵島姫命(弁財天)
日本六所弁財天の一社「脊振弁財天」といわれる
脊振山頂上宮に弁財天を祀る
熊本県八代郡氷川町宮原腹巻田に大王山神社があります。脊振町服巻(はらまき)の地名は氷川町宮原からの移動と考えます。
5.日本書記は、何故、斉明天皇が朝倉で亡くなられたことにしたのか
日本書記には「661年1月6日、天皇は、中大兄皇子(後の天智天皇)、大海人皇子(後の天武天皇)、中臣鎌足らと共に難波の港から海路筑紫に向かい、3月25日那大津(博多)に至り、5月9日に朝倉橘広庭宮に遷られた。しかし斉明天皇は滞在75日(7月24日)御年68歳で病の為崩御された。」とあります。
何故、斉明天皇は朝倉で亡くなったようにしなければならなかったのか。
理由は簡単です。
白村江の敗戦の天皇にしたくなかったのです。天皇不在の白村江の敗戦にしたかったのです。それで、中大兄皇子を称制で誤魔化し、その間、中大兄皇子は天皇に即位できずにいたのです。
斉明天皇はその間、どこに居られたのでしょう。
いきなり、明日香に行ったのでは人目につき、まずいことになります。
斉明天皇は四国の越智国朝倉に隠棲されたのです。
越智国朝倉は現・愛媛県今治市朝倉(旧越智郡朝倉村)となります。
(候補地は朝倉南の須賀神社か?)
斉明天皇、中大兄皇子は橘族の流れ、越智国朝倉は橘族所縁の地です。その所縁の地にて、斉明天皇は隠棲されたのです。
日本書記はうまくウソをつきました。
古田史学会報112号 2012年10月13日西条市 今井 久
斉明天皇と紫宸殿(明理川)「白村江戦大敗と、斉明天皇越智国滞在の真実」によれば、「斉明天皇は「663年より666年」迄、3年余に亘る長い期間、白村江敗戦により四国の越智国朝倉へ退避してきた」とされています。
「斉明天皇は、朝鮮半島出兵の軍事基地たる『佐賀なる吉野』へ31回の視察行幸は、斉明元年(655)から、白鳳三年(663・天智二年)年の4月14日の「閲兵」が最後で吉野行幸は終わっている。」『日本書記』「持統紀」の真実」 正木裕氏
この論証に依拠すれば、続いて5月より8月まで大三島へ来て逗留(斉明天皇海獣葡萄鏡を奉納している・現在国宝)つまり、663年5月より8月の白村江の敗戦迄であり、斉明天皇の8月19日からの越智国朝倉への行幸は、白村江敗戦後の退避行であって、斉明天皇の九州「吉野行幸」のその後の行動に繋がる。
中大兄皇子の称制(Wikipedia)
斉明天皇は新羅出兵準備中の661年に崩御したが、中大兄皇子は皇太子のまま即位せずに政務を執行した。斉明天皇の崩御後も即位を先延ばしにしたが、この間は『日本書紀』や『万葉集』によると「中皇命(なかつすめらみこと)」と呼ばれた人物がいたらしく、これは間人皇女(孝徳天皇の皇后)のこととする説が有力である。先帝の后や母后ではなく皇太子の方が実権を握っている点で、中国の称制とは異なるが、まず母后(斉明天皇)のちに先帝の后(孝徳天皇の皇后・間人皇女)を名目上の上位者として立てていたために形式上「称制」という名称が選ばれたのであろう。いずれにせよ、中大兄皇子は667年に近江大津宮に遷都し、668年旧正月1月3日にやっと正式に即位した(天智天皇)。
今治市朝倉南の須賀神社
住 所:愛媛県今治市朝倉南乙258
主祭神:建速須佐之男命(たけはやすさのをのみこと)
由 緒:斉明天皇の御宇に創立されたという。素盞鳴命が大市姫命とともに巡狩した古蹟に、小千連が神籠を立て斎き祀った事によるという。もと朝倉天皇又は野田宮とも称した。
境内社:杵築神社、春日神社、樟神社








