宮原誠一の神社見聞牒(071)
平成30年(2018年)08月12日

 

No.71 高良九体皇子と坂本命と二人の門神様 ②


5.坂本神社

九躰皇子(くたいおうじ)の第七子に坂本命(さかもとのみこと)がおられます。
九躰皇子の坂本命を単独で祀る神社が、福岡県内に四社あります。

 1.春日の坂本神社 福岡県太刀洗町春日(平田)753
 2.金島の坂本神社 福岡県久留米市北野町金島(鏡)82
 3.広川の高良坂本神社 福岡県八女郡広川町新代(古賀)1987
 4.山川の坂本神社 福岡県久留米市山川町字王子山596番地1

 

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春日の坂本神社は平田氏族神社であり、祭神は武内宿祢の第7番目の子の奴能伊呂姫命(ぬのいろひめ)となっている。坂本命は男御子で、奴能伊呂姫は女姫で、明らかに異なります。
広川の高良坂本神社の祭神は、武内宿禰の七男の子の若子宿祢(わくごのすくね)ですが、九躰皇子の第七子に合わせて武内宿禰の子の名前を持って来たのでしょう。九躰皇子の坂本命の第七子は「七男」という意味ではありません。
春日、広川の二社の本来の祭神は、九躰皇子の第七子・坂本命です。
春日の坂本神社は物部氏関係の神社、広川の高良坂本神社は高良の神官・稲員氏(いなかず)が北野町稲数から移転後に創立した神社です。武内宿禰の入る余地はありません。明治政府を憚っての処置でしょう。

      高良九躰皇子   「古事記」の武内宿禰の子
     1 斯礼賀志命   長男・波多八代宿禰
     2 朝日豊盛命   次男・許勢小柄宿禰
     3 暮日豊盛命   三男・蘇賀石河宿禰
     4 渕志命     四男・平群都久宿禰
     5 谿上命     五男・木角宿禰
     6 那男美命    長女・久米能摩伊刀比売
     7 坂本命     次女・怒能伊呂比売
     8 安志奇命    六男・葛城長江曽都毘古
     9 安楽応宝秘命  七男・若子宿禰

 



 

6.金島(鏡)の坂本神社 (福岡県久留米市北野町金島(鏡)82)

福岡県北野町大城に稲数区があります。
 

止誉比咩神社本跡縁記 成務天皇の5年9月
筑紫の道中に勅して、背面地(そとものち)を分けて御井郡となし、稲置を置き楯矛を賜い表(しるし)となし、道主貴の神地に充て、中瀛宮(なかつみや)に別府を起(たて)て、影面地(かげものち)を割きて水沼郡となし、国乳別皇子に封(ことよ)さして筑紫中国の蕃屏長(かくしまがきのかみ)に任じ、水沼別君の姓を賜い、筑紫別府司となす。
これにより、中瀛宮を別府八幡宮と称す。稲置の所の跡を稲数村と曰し、楯矛を収めし兵庫の跡を陣屋村と号(な)づく。

 

広川町郷土史研究会の稲員家文書によると、稲員氏は高良大明神の神裔を称し、延暦21年(802)草壁保只が山を降って、三井郡稲数村(現在は北野町)に居住したことにより稲員(稲数)を姓としたという。
その稲数村の東隣に鏡村があり、坂本神社が鎮座し、坂本命を祀る。
誰によっての創立か、時期も不明です。恐らく、稲員氏と何らかの関係があったことはうかがい知れます。現在の鏡村の坂本神社は社殿社地が一ヶ所ですが、江戸時代までは、南北坂本神社があり、明治の合祀令により一社に統一されました。

 

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高良玉垂宮の八人の神官
「高良玉垂宮神秘書」343条に八人の神官の名前が記載されている。
田尻、小祝、外湯、諸司代、印塚、福成、両福成、稲員の諸氏が記載されている。
八人の神官の屋敷を現在の地名で示すと

 稲員  久留米市北野町大城稲数(八女郡広川町古賀)
 田尻  久留米市御井町字住吉のタンジリ
 小祝(安曇) 久留米市山川町本村
 外湯  久留米市御井町字住吉のトノエ
 諸司代 久留米市御井町打越
 印塚  三瀦郡三瀦町玉満犬塚
 両福成 久留米市宮ノ陣町

このうち近世、最も勢力があったのは稲員家で、神管領家を称し、八人の神官を指導した。また、当社の重器三種の神宝出納職となっている。第二子朝日豊盛命の子孫が高良山を居所として累代続き(稲員家もその子孫)、稲員家はその前は草壁氏を名乗っている。



 

7.広川(古賀)の高良坂本神社 (福岡県八女郡広川町新代1987)

広川町郷土史研究会の稲員家文書によると、稲員氏は高良大明神の神裔を称し、延暦21年(802)草壁保只が山を降って、三井郡稲数村(現在の北野町稲数)に居住したことにより稲員(稲数)を姓としたという。
正応3年(1290)鎌倉幕府の下知により、稲員良参(よしなが)が上妻郡古賀村(現在の広川町新代)に移り館を構え田戸70町を領している。
正応5年(1292)稲員良参は、坂本命を祭り坂本宮(現在の高良坂本神社、広川町古賀区)創立している。稲員家は朝日豊盛命の流れといわれているが、坂本命を祀っている。
坂本命の活躍の地が久留米市南部付近であったことを考えると、鎌倉幕府による移転命の地は稲員家が求めたものかもしれません。稲員家の流れは坂本命が祖ではなかったのかと、思いが走ります。
古賀村に坂本神社を創立する以前、すでに高良大明神が祀られていたという。鏡村の坂本神社も稲員家が係わったのではないかと推察するのですが。
さらに、天正16年(1588)から寶暦2年(1753)の165年間、稲員家は大庄屋を勤めている。

 

「寛文十年(1670)久留米藩社方開基」
古賀村鎮守、高良坂本宮
唯今有之候社、享禄四年(1531)に稲員十郎右衛門再興仕候。

「稿本八女郡史」
同村稲員氏は、高良大明神の裔なりと云う。故に稲員村稲員右京太夫良参御井郡稲員村より当地へ移住後、正応五壬辰年(1292)新に社を建て坂本命を祀る、初め坂本宮と号す。

 

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8.高良御子神社内の坂本神社

高良御子神社社殿の右には坂本神社があり、坂本命と二人の門神様を祀る。
古昔、JR九大線御井駅付近の栗林に東西両坂本神社があったという。
山川校区郷土研究会説明板によれば、
「明治43年9月26日 郡役所の勧誘により、王子山596-1高良御子神社境内に、全末社とも移転遷座す。現在、王子宮境内に祭祀してある坂本神社の社殿は一つだが、正面祭壇上に素木の厨子が二つ並んでいる。それが東西坂本社のご神体である。中央に不明のご神体一柱あり。」
とあります。

 

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坂本神社の祭神は次の通りです。

 坂本本社 坂本命 
 東坂本社 櫛岩窓命(くしいわまど)
 西坂本社 豊岩窓命(とよいわまど)

山川校区郷土研究会の設明板には「両祭神は、太玉命の御子で「殿(みかど)」を守衛(まも)る神、即ち高良参道入口の守護神である。」と書かれています。東西両祭神は門神様で、両祭神は太玉命(豊玉彦)の御子ではありません。

 

久留米地名研究会における百嶋先生講演 2011年2月5日
王子宮は九州王朝の嫡孫です。
坂本宮は九州王朝の落胤系です。坂本宮のほうに御神体が三柱おられるが、真ん中の方は坂本命、間違いなく開化天皇のお子さんです。大善寺玉垂宮に行かれると楼門の左右を護っていらっしゃる。あの地区は荒木のシズチャン(五十鈴姫)の地区、坂本さんが担当されたところで、大善寺玉垂宮は高良玉垂宮の出張所と考えられたらよい。

 

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「寛文十年(1670)久留米藩社方開基」では、「御井郡阿志岐村坂本山王三社」と記載されています。坂本山王社の二社の神殿は萱葺き九尺と二間と御堂みたいな社殿です。これが門神様を祀る東西両坂本社と考えられます。また、もう一社神殿なきござそうろう、とあり、これが坂本本社であったと想定します。
ご神体は大山咋にて比叡山日吉山王といっている。
一般的に「坂本山王社」といえば、「比叡山坂本山王宮日吉社」を思い浮かべますが、門神様としては合っていますが、大山咋=坂本命 ではありません。

阿志岐の坂本命を祀る「坂本神社」と大山咋を祀る「坂本山王宮日吉社」がゴッチャになっています。どうして、このようになったのでしょうか。
それは、阿志岐の坂本命を祀る「坂本神社」の祭神の配祀にあります。

 坂本本社 坂本命
 西坂本社 櫛岩窓命 → 日吉様 → 天照女神 ← 西本宮祭神:大己貴神
 東坂本社 豊岩窓命 → 山王様 → 大幡主  ← 東本宮祭神:天御中主


櫛岩窓命は天照女神の流れ、豊岩窓命は大幡主の流れの名称になります。
西坂本社の櫛岩窓命は天照女神であり、この神様を中心に坂本神社の大幡主を無視して考えると(実際に無視されています)、比叡山の日吉大社は「坂本山王宮日吉社」となるのです。
私は、比叡山坂本の日吉大社は阿志岐の坂本神社関連の地名・社号の移動と考えています。

 

日吉大社 滋賀県大津市坂本5丁目1-1
日吉大社(ひよしたいしゃ)は、滋賀県大津市坂本にある神社で、全国にある日吉・日枝・山王神社の総本社である。通称、山王権現とも呼ばれ、猿を神の使いとする。西本宮と東本宮があり、社名の「日吉」は、かつては「ひえ」と読んだが、現在は「ひよし」と読んでいる
本宮 
 西本宮:大己貴神(大国主)
 東本宮:大山咋神
五摂社
 牛尾宮:大山咋神荒魂
 樹下宮:鴨玉依姫命(かもたまよりひめ) 大山咋の妃
 三宮宮:鴨玉依姫命荒魂
 宇佐宮:田心姫神(たごりひめ) 大国主の妃
 白山宮:菊理姫命(くくりひめ) 

日枝の山(ひえのやま)とは後の比叡山のことで、崇神天皇7年に日枝山の山頂から現在の地に移されたという。
西本宮の祭神・大己貴神は、大津京遷都の翌年、天智天皇7年(668)、大津京鎮護のため大神神社の神が勧請されたという。以降、元々の神である大山咋神よりも大己貴神の方が上位とみなされるようになり、「大宮」と呼ばれた。大己貴は大山咋の義理の父となる。
大己貴神は大和の三輪山(三諸山 みもろやま)の大三輪神(おおみわのかみ)、すなわち大物主神(おおものぬし)を勧請したといわれているが、もともと、大物主は大山咋であり、三輪山の大物主は三人おられ、義理の大物主(大国主)、真の大物主(大山咋)、代理の大物主(事代主)がおられ、「大物主」以外の尊称を使用しないと混乱を招く。
よって、東西本宮はダブッテ大山咋が祀られていることになる。 (一部WIKIによる)

 

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