宮原誠一の神社見聞牒(062)
平成30年(2018年)06月01日
No.62 水沼君と身狭村主青と鳥飼
5世紀の倭国(倭の五王)の時代に身狭村主青(むさのすぐりあお)は呉国(宋王朝)へ派遣される。そして、身狭村主青は筑後へ帰ってくる。この外交事績が日本書記の雄略天皇紀に記載されている。
同様のことが、更に詳しく、赤司八幡宮の縁起書「止誉比咩神社本跡縁記」にも記載されている。
日本書記・雄略天皇紀
雄略8年(464)、身狭村主青・檜隈民使博徳を呉国に遣わす。
雄略10年(466)、身狭村主青等、呉の献じた二つの鵝(がちょう)をもって筑紫に到る。是の鵝は水間君の犬に噛まれて死ぬ。
別本に云う、是の鵝は筑紫の嶺縣主(みねのあがたぬし)泥麻呂の犬に
噛まれて死ぬという。
是により水間君は恐怖し、憂愁し、自ら黙することあたわず。鴻(白鳥)十隻(羽)と鳥養人を献じ、以て罪を贖(あが)なわれんことを請う。天皇許したまう。
(注) 水間(みぬま)も水沼(みぬま)も同じ訓みで同意語。
鳥飼の舞台となった福岡県三井郡大刀洗町三川(鳥飼)の印鑰神社
1.身狭村主青の呉国(宋)へ派遣
身狭村主青(むさのすぐりあお)の呉国(宋)へ派遣が、「止誉比咩神社本跡縁記」「日本書記の雄略紀」に記載されている。止誉比咩神社本跡縁記(以下「豊比咩縁記」で使用する)では「身狭村主青」のほか、鳥飼の地名由来、鳥飼八幡宮のことが記載されている。
重要なのは、この時期が5世紀の倭国五王の時代であり、日本書記以上に豊比咩縁記の記載が豊富であり、九州の出来事として記載されている。豊比咩縁記によると「倭国」は九州にあったことになる。
「古代史の復元」シリーズ4 「四世紀の北部九州と近畿」 佃 収 著
464年は「倭の五王」の時代である。身狭村主青は呉国(宋王朝)へ派遣される。倭王の命令により派遣されたのであろう。ところが水間(みずま)に帰ってきている。「水間」は『和名抄』にある「筑後国三瀦郡(みずま)」であろう。今の福岡県三瀦郡三瀦町であり、筑後である。
従来は「雄略紀」に書かれているから身狭村主青等を派遣したのは大和(政権)の雄略天皇であると解釈してきた。しかし、身狭村主青等は筑後へ帰ってきている。大和政権が派遣したのであれば大和へ帰るはずである。大和へ帰るのに筑後などへ寄るはずはない。身狭村主青等は筑後から派遣されたので筑後へ帰ってきているのである。
倭国の時代であるから身狭村主青を呉国(宋王朝)へ派遣することができるのは倭国であろう。倭国が身狭村主青を派遣し、身狭村主青は筑後へ帰ってきている。倭国が筑後にあるからである。
「四世紀の北部九州と近畿」 佃収 著では、身狭村主青は九州倭王の命令により呉国(宋王朝)へ派遣され、筑後国三瀦郡(みずま)に帰ってきている。
豊比咩縁記では、身狭村主青は筑紫中国(つくしなかつくに)の道中の水沼君の御井郡に帰ってきている。
止誉比咩神社本跡縁記・雄略紀
雄略天皇10年9月4日、身狭村主青(むさのすぐりあお) 呉(宋)の献じた二つの鵝(がちょう)をもって筑紫に到る。是の鵝は水間君の従者・嶺縣主(みねのあがたぬし)泥麻呂(ひでまろ)の犬に噛まれて死ぬ。是により水間君は恐怖し、憂愁し、自ら黙(もだ)すことあたわず。鴻十隻と鳥養人を献じ、以て罪を贖(あが)なわれんと請(まう)す。天皇許したまう。
冬10月7日、水間君、鳥養人等を献じ奉り、大和国の軽村・磐余村の二所に安置す。
初め、水間君、菅野川のほとりに鳥を飼う。その所を名付けて鳥飼村という。その川を鳥飼川と申す。これ当国の名所の一つにして古歌にあり。万葉集第12「鳥飼」を「取替」になぞらえて詠めり。
「阿羅比義の取替川のかわよどに食べざらし心をもいかねつも」
すなわち、この地に八幡大神を祠れり。後の人、筑前国の早良郡に遷座して鳥飼八幡宮と称すなり。
2.鳥飼村と鳥飼八幡宮、印鑰神社
豊比咩縁記からすると、水間君は近畿雄略天皇と九州倭国王の二人の王に仕えているように取れる。「水間君、鳥養人等を献じ奉り、大和国の軽村・磐余村の二所に安置す。」は後の付け足しであろう。九州の筑後国御井郡と大和国は余りにも離れすぎている。呉国と交流しているのは九州の倭国王である。水間君は倭国王に仕えている。
筑後国御井郡鳥飼村が、今でも鳥飼村(区)として、北野町大城の近くの三井郡大刀洗町大字三川に存在する。その北に大字菅野・菅野村(区)も存在する。鳥飼川、菅野川の名は存在しないが、同じ地域に佐田川と安川(小石原川・甘木川)が流れる。
鵝(がちょう)が犬に食べられた所に八幡神社を祀ったとある。この八幡神社の祭神は宇佐八幡神でなく、男山石清水八幡神である。
後に、その宮は筑前国の早良郡に遷座したとある。今の福岡市中央区鳥飼3丁目3-5に鎮座する埴安神社の境内社・左脇の八幡神社である。この八幡神社は、福岡市中央区今川2丁目1-17に鎮座する鳥飼八幡宮の元宮とされる。
福岡県三井郡大刀洗町大字三川の鳥飼には、現在、印鑰神社が鎮座する。明治時代までは印若神社と称していたが、大正の時代に「印鑰神社」と改めている。江戸時代までは、南鳥飼には高良神社と印鑰神社があり、鳥飼村統合時に高良神社はなくなっている。今の印鑰神社の社殿様式は、南北朝時代に新田義信によって建立され、その建築様式が引き継がれている。
印鑰神社の祭神・宇多能大禰奈(うだのおおねな)は初代伊勢大物忌(おおものいみ)であり、大物忌の祖は「丹波の道主」別名「水沼の道主」と言い、丹後の與佐の真名井に係わる氏族であるという。宇多能大禰奈が近くの三井郡大刀洗町鳥飼に祀られていることは、水沼君と同族であろう。
印鑰神社 福岡県三井郡大刀洗町三川(鳥飼)102
祭神 宇多能大禰奈神[宇太乃大禰奈(うだのおおねな)]
由緒 不詳、開元建立年月日不詳。新田義信建立。
寛文十年(1670)久留米藩社方開基
南鳥飼村
高良大菩薩木像 社九尺に二間草屋右開元建立何之御代より御座候も不奉存候。祭礼無御座候。少も相違之義御座候。
已上 竹野郡南飼村庄屋
寛文拾年戌九月十一日 文右衛門
南鳥飼村
印若大明神木像 社九尺ニ弐間草屋、神殿二間に三間草屋拝殿。
右開元建立年号、月々重々吟味仕候得共、存たるもの無御座候。従前々、新田義信
御建立被成候由申伝候得共、慥成証文無御座候。祭礼九月十一日御供御酒上ヶ申斗
にて御座候。筑前下座郡林田村右馬大夫、従前々、祭礼相勤申候。右之通、少も
相違無御座候。以上
竹野郡南飼村庄屋
寛文十年戌九月十一日 文右衛門
宇多能大禰奈(うだのおおねな)
天照大神の祭祀所を求める役を豊鋤入姫から引き継いだ倭姫は、宇多秋志野宮から旅立つ際に「我が心ざして往く処(ところ)、吉(よき)こと有れば、未嫁夫童女に相(逢)へ」と祈祷した。その倭姫の前に現れたのが、童女・宇太乃大称奈。倭姫は宇太乃大称奈を初代の伊勢大物忌(おおものいみ)と定める。大物忌の祖は「丹波の道主」別名「水沼の道主」と言い、與佐の真名井を守り、水沼君と同族とされる。
3.福岡市鳥飼の埴安神社と今川の鳥飼八幡宮
身狭村主青(むさのすぐりあお)は呉(宋)の献じた二つの鵝(がちょう)をもって御井に到る。是の鵝は水間君の従者・嶺縣主(みねのあがたぬし)泥麻呂(ひでまろ)の犬に噛まれて死ぬ。
鵝が犬に食べられた所に八幡神社が祀られ、後に、その宮は筑前国の早良郡に遷座する。
今の福岡市中央区鳥飼3丁目3-5に鎮座する埴安神社の境内社・右殿八幡神社である。
この八幡神社は、福岡市中央区今川2丁目1-17に鎮座する鳥飼八幡宮の元宮とされる。
埴安神社 福岡県福岡市中央区鳥飼3丁目3-5
祭神・埴安神(はにやすしん)
波邇夜須毘古神/埴安彦命(はにやすひこ)大幡主
波邇夜須毘売神/埴安姫命(はにやすひめ)天照女神
[相殿]菅原道真公
[左殿]秋葉神社(右) 迦具土神(かぐつちのかみ)・火産霊神(ほむすびのかみ)=大幡主
[右殿]鳥飼八幡宮元宮(左)
創建に関する詳細は不明。左側に鎮座する八幡神社は、鳥飼八幡宮で、その元宮とされる
八幡神社の社紋は右三巴紋となっていて、宇佐八幡神の社紋ではない。八幡神社の祭神は大幡主。いわゆる古八幡宮である。埴安神社、天満神社、秋葉神社は大幡主関係神社です。
鳥居の配置は三つ鳥居の形式
この八幡神社は、大幡主を祭神とする古八幡宮であり、鳥飼八幡宮の元宮である。
百嶋先生講演「菅原道真の先祖神は何か」 2012年1月21日
福岡市鳥飼の埴安神社と今川の鳥飼八幡宮
管公の血統上のご先祖ともうひとつの血統上のご先祖を申し上げます。天穂日命(アメノホヒノミコト)、この人の胤が武内足尼(タケウチタラシ二)についています。従って、天穂日命もご先祖であり、武内足尼もご先祖であり、どっちも正しいです。只、管公一族の場合は天穂日命を利用しておられます。なぜかといいますと、武内足尼のお兄さんは長髄彦なんです。当時は天下の反逆者といわれた。だから、うまく長髄彦を逃れて、天穂日命のほうを利用された。天穂日命は豊玉彦です。管公は要領が良くて、時の流れに沿って、天穂日命を採用なさっているのです。これを確認するために何処に行ったらいいか。
鳥飼八幡宮元宮。(現在の埴安神社、右殿の八幡神社が鳥飼八幡宮元宮とされる)
昔、福岡市内電車があった頃の城南線の鳥飼駅の近い場所に鳥飼元宮があります。このお宮は鳥飼埴安宮となっています。神社の名前は埴安神社。ご祭神は埴安彦(金山彦)・埴安姫。この方たちは、武内足尼のお母様である櫛稲田姫のご両親です。
そこにいかれますと、管公はどうされているかといいますと、神殿に管公自身が潜り込んでいらっしゃるのです(相殿として鎮座されている)。
そして、その後、いわゆる八幡と名前の付く宮が時の流れに沿って出世しすぎていきます。
管公のご先祖の計算は非常に正確であった。一族の先祖を天穂日命(=豊玉彦)に持ってきた。非常に正解でしたね。当たりました。
鳥飼八幡宮 福岡県福岡市中央区今川2丁目1-17
左殿 神功皇后(じんぐうこうごう)
祭神 中殿 応神天皇(おうじんてんのう)
右殿 玉依姫尊(たまよりひめのみこと)
【祭神について】
鳥飼八幡宮の社紋は右三巴紋となっている。いわゆる古八幡宮である。右三巴紋は大幡主が使用される。
宇佐八幡神の祭祀は、後の時代のことであろう。大幡主が消されて、応神天皇、神功皇后と差し替えられている。
すると、前稿で述べているように、筑紫中国(つくしなかつくに)の道中の水沼君は大幡主の流れではなかろうか。
【由緒について】
社説に次のようにある。
鳥飼八幡宮社説
神功皇后が新羅より凱旋し姪浜に上陸され、夜になって鳥飼村平山というところにお着きになられました。この時、その村長はじめ鳥飼氏一同が夕の御膳を差し上げたところ、皇后はたいへんお喜びになり胎内の皇子(後の応神天皇)の将来を御祝いして、近臣等に自らお酒を勧め、この地にお泊りになられました。後に村長になった人物の子孫が神功皇后ゆかりの地に御社を建てて、「若八幡」と名付けて祀ったのが鳥飼八幡宮の発祥と伝えられています。
神社は代々鳥飼氏が奉祀していましたが中世以降、戦乱の時代になると香椎宮大宮司の武内氏の支族を招いて社職を司らせました。
神社の創起が、「神功皇后の新羅征討の凱旋が福岡市姪浜の上陸」のきっかけとなっている。各地の神社の「神功皇后の新羅征討の凱旋地」は、有明海の口の津より入り、佐賀県武雄の高橋の津(御船山付近)に上陸されている。そして、嬉野にて傷病兵の湯治に当たられている。それから、大川の榎津に上陸される。
筑前蜷城林田の美奈宜神社の由緒では、新羅征討軍船は勝利し、有明海廻りで一時、肥前武雄の高橋の津に寄港する。新羅征討軍船は有明海に入り、武雄の高橋に寄り、ここで軍卒の傷病の温泉湯治を行っている。その後、大川の後の風浪宮がある榎津に上陸。その後、大善寺に寄っている。林田の美奈宜神社の社説では、新羅征討軍船が有明海に帰ってきて、高橋の津に上陸した、となっている。香椎宮のある博多湾ではないのだ。さらに、赤司八幡宮の豊比咩縁記では、筑紫中国(つくしなかつくに)の道中の水沼君の御井の中津海北の浜に帰ってきている。
鳥飼八幡宮の元宮は今の福岡市中央区鳥飼3丁目3-5に鎮座する埴安神社の境内社・左脇の右三巴紋を持つ八幡神社である。さらに、歓迎饗応に出た鳥飼氏が神功皇后時代に鳥飼姓を受けているが、この時代に鳥飼姓が存在したかどうかは時代的に疑問のある所である。
本来、この鳥飼八幡宮の元宮は鳥飼3丁目3-5に鎮座する埴安神社の境内社・右殿の八幡神社であるが、それが明記されていないのは、神社プライドの問題でしょうか。
4.「鳥飼」を「取替」に、3人の「取替」
身狭村主青(むさのすぐりあお)は呉(宋)の献じた二羽の鵝鳥(がちょう)をもって筑紫に帰ったが、この鵝鳥は水沼君の従者・嶺縣主(みねのあがたぬし)泥麻呂(ひでまろ)の犬に噛まれて死んでいる。水沼君は、この件につき、恐怖し、憂愁し、鴻鳥十羽と鳥養人を献じ許されている。
当初、水沼君は菅野川のほとりに鴻鳥を飼い、その所を名付けて鳥飼村という。その川を鳥飼川と言っている。この事件に絡み、万葉集第12「鳥飼」を「取替」になぞらえて詠んだ歌があることは先に紹介した。
「阿羅比義の取替川のかわよどに食べざらし心をもいかねつも」
この地に水沼君は八幡大神を祀り、後に、筑前国早良郡鳥飼に遷座して鳥飼八幡宮として鎮座する。今は、福岡市中央区鳥飼3丁目3-5に鎮座する埴安神社の境内社・鳥飼八幡宮元宮として、本殿の左脇(右殿)に、ひっそりとたたずんでおられる。
この八幡神社は、福岡市中央区今川2丁目1-17に鎮座する鳥飼八幡宮として分霊され、本家を凌ぐ繁盛である。
ここで、上記の万葉歌には、「鵝鳥」を「鴻鳥」に、「鳥飼」を「取替」になぞらえて詠まれているが、この歌の中には、3人の「取替」が潜ませてある。
(1) 水沼君の八幡大神の取替
(2) 阿羅斯等天皇の「はつくにしらす天皇」の取替
(3) 大賀比義の誉田別命の取替
この3人の「取替」を明確にすると、応神天皇の真の姿が見えてくる。そのキーを持っておられるのが(鴨)玉依姫である。













