宮原誠一の神社見聞牒(061)
平成30年(2018年)05月25日

No.61 水沼君と水沼別君の祖・国乳別命 ②


二部に分けて報告しています。その続き。

4.月読神社

高良御廟塚の東隣に高三潴の月読神社が鎮座する。
この神社は、福岡県神社誌にも、寛文十年(1670)「久留米藩社方開基」にも記載されていない。明治31年(1898)に大阪大成館作成弓頭神社の銅版図の左下に御廟塚が描かれているが、月読神社は描かれていない。すると、明治中頃以降に建立された新しい神社と言える。
境内は広く、高良御廟塚の横に月読神社が鎮座するとは特別な理由があるのであろうか。勧請の元宮神社も気になるが、高良玉垂命(物部保連)は大山祗(月読命)の流れを汲む物部族でもある。

月読神社  福岡県久留米市三潴町高三潴(塚崎)136

061-201

061-202




5.熊野速玉神社

弓頭神社の右手奥に熊野速玉神社が境内社として鎮座する。
明治31年(1898)に大阪大成館作成弓頭神社の銅版図をみると、弓頭神社の南に熊野速玉神社が描かれている。この神社が明治以降の合祀令により移転したことになる。
もとは、五十町古墳の上に熊野速玉神社は鎮座していたが、移転した時、石室の残骸で「郷社弓頭神社」の記念碑は造られた。
鳥居の前には弓頭神社の建物が立ち、熊野速玉神社は邪魔者扱いに見える。

境内社・熊野速玉神社

061-203

061-204

さらに、景行天皇の関連神社境内に熊野速玉神社とは、相性が悪い。
熊野速玉神社の祭神は大幡主である。スサノヲ尊ではない。出雲の熊野速玉神社の祭神から、よく勘違いされている。
境内社でなくても、国乳別命の弓頭神社と並んで熊野速玉神社が鎮座することは、弓頭神社は大幡主・豊玉彦関連の神社ではなかろうか。
弓頭神社の境内を一周して思うに、この神社の社殿は大幡主の趣があちこちに残されている。
拝殿向拝屋根の唐破風、隋神門では、表に龍の彫刻、裏に菊の彫刻が施されている。菊の彫刻の上は門光の組子と思える彫刻がある。また、神殿の壁の蟇股(かえるまた)の彫刻には、山羊、馬、蛇、龍、ウサギ、虎、牛、ネズミがある(干支の動物とも取れるが)。これらは大幡主関連の彫刻ではないか。表向き景行帝(大足彦)関連の神社とされるが、かつて、その古宮は大幡主関連の神社ではなかったのか。

061-205


061-206

061-207

061-208



6.赤司の八幡神社の止誉比咩神社本跡縁記

赤司八幡宮の縁記書は、寛永3年(1626)、社人の藤原盛道が、式内官社の豊比咩神社が式外の私社に並ばされたとして嘆き、廃れたるを興してくれと後人に託して記した縁起書である。
さらに、享保20年(1735)、藤原盛道の「豊姫縁起」を書き写した宮部護典の「止誉比咩神社本跡縁記」がある。残念ながら、この二冊の原本縁起書は現存しない。
昭和34年、井上農夫が宮部護典の「止誉比咩神社本跡縁記」を書き写し、現在、古賀幸雄氏が所蔵し、それを更にコピー製本したものが「井上農夫写本」として残っている。
さらに、昭和39年、大城小学校創立50周年記念事業の時、「宮部護典原本」を貸し出したが紛失し、お詫びとして、当時の校長楢原猛夫が「井上農夫写本」を清書して作成したのが、「楢原猛夫写本」である。
「宮崎駿河本」は縁起書でなく、豊比咩神社に関する久留米藩への書上げ状であるが、昭和29年、当時、大城小学校の先生をしていた野口治七郎が「大城村郷土読本」として、「宮崎駿河本」を参考に「豊比咩縁起」を詳細に紹介している。

赤司の八幡神社 福岡県久留米市北野町赤司1765

061-209

まずは、項目「1.水沼別君と弓頭神社」における、「水沼別君」が記載されている個所を「止誉比咩神社本跡縁記」から拾い出してみる。
① 景行天皇紀の18年7月7日
② 成務天皇紀の5年9月
に記載がある。


7.景行天皇紀の18年7月7日

「水沼県主猿大海」「浮羽地名起源」の話が出て来る節である。

「時に水沼県主猿大海、奏して言さく、『女神有します。名を八女津媛と曰す。常に山の中に居します』とまうす。故、八女国の名は此に由りて起れり。

景行天皇十八年八月、的邑(いくはむら)に到りて進食(みをし)す。是の日に、膳夫等、盞(うき)を遺(わす)る。故、時人、其の盞を忘れし処を号(なづ)けて浮羽(うくは)と曰ふ。今的(いくは)と謂ふは訛れるなり。昔、筑紫の俗(ひと)盞を号けて浮羽と曰ふ。

061-210

日本書記では、浮羽の地名を付ける所で記述は終っている。
止誉比咩神社本跡縁記は、それ以後も記載が続く。その続き。

河北の道中に至りて、祠壇を蚊田の亀甲の地に設けて、蚊田の淳名井の水を酌みて、道主貴を祭り、中瀛宮(なかつみや)と称(あが)めて、筑紫の洲の鎮護(しずめ)となし、国乳別皇子を御手代(みてしろ)とせよ。
因って、勅して曰く、汝、皇子の子孫八重連き、宜しく皇子の装状を帯びて、永く祭神の御手代(みてしろ)となせ。謹んで怠りな。これ即ち水沼の君の始祖なり。その裔、今なお皇子の装状を帯びて筑紫の道中に在り。これ河北(こうこだ)の惣大宮司水沼の君の是なり。


8.成務天皇紀の5年9月

成務天皇の事績として、大国小国の国造を定め、また国々の境を定め、大縣(あがた)、小縣の縣主を定めたと古事記は記す。縁記は「評(こおり)」とは書かれていなくて、「郡」で表記されている。当時は「国・郡」は制定されておらず、後の編者の改良修正であろう。
筑後国の郡による国割りの話が具体的に記載され、国乳別皇子と水沼別君のことが書かれている。

061-211

成務天皇の5年9月
筑紫の道中に勅して、背面地(そとものち)を分けて御井郡となし、稲置を置き楯矛を賜い表(しるし)となし、道主貴の神地に充て、中瀛宮(なかつみや)に別府を起(たて)て、影面地(かげものち)を割きて水沼郡となし、国乳別皇子に封(ことよ)さして筑紫中国の蕃屏長(かくしまがきのかみ)に任じ、水沼別君の姓を賜い、筑紫別府司となす。
これにより、中瀛宮を別府八幡宮と称す。稲置の所の跡を稲数村と曰し、楯矛を収めし兵庫の跡を陣屋村と号(な)づく。
かくして後、水沼の川上をまた割きて上妻郡を置き、川下を分けて下妻郡を置き、背面を割きて三根郡を置き、中間を水間郡となす。
又、御井の影面の山際を割きて山本郡を置き、背面の山際を割きて三笠郡を置き、野の際を分けて三原郡を置き、中心(もなか)を御井郡となす。
再び、山本郡を縦り、生葉、竹野二郡を割けるなり。
御井は三井と同じ訓(よ)みなり。水沼は水間と同じ訓(よ)みなり。今は三瀦と訛れり。上妻郡は上水沼の訓、下妻郡は下水沼の訓。
三根は三つの水沼根底、水根の訓みなり。本紀では嶺と同訓なり。この一郡は肥前国に属(つ)けり。三笠郡は筑前国に属けるなり。


061-212

「道中の国の郡の分割について」
背面(そとも)は北側を意味し、影面(かげも)は南側を意味する。
筑紫の道中の国(筑中国)が中瀛宮を中心にして郡に分割されていく様子が記載されている。筑紫中国の中心を御井郡としている。
水沼の川は、今の矢部川であり、上妻郡は上水沼の訓、下妻郡は下水沼の訓としている。
水沼郡、水間郡は今の三瀦郡といっている。

「稲数村と陣屋村」
筑紫の道中に勅して、御井郡を道主貴の神地とし、稲置と楯矛をもってそのしるしとされた。稲置の居跡は後に稲数村といい、楯矛をおさめた兵庫の遺跡を陣屋村というようになった。現在でも、その地名は残っている。

「国乳別皇子の筑紫中国の蕃屏長(かくしまがきのかみ・はんぺいのかみ)の任命」
中瀛宮(なかつみや)に別府を起て、南の地を水沼郡とし、国乳別皇子に水沼別君の姓を与え、蕃屏長に任じている。以後、中瀛宮を別府八幡宮と称するとある。
大城村郷土読本にいう「三潴郡を国乳別命の領所として、永く筑紫道之中の藩屏(守り)とされました」といえる。

これらからすると、水沼君の本拠地は北野町大城ということになる。
中瀛宮を別府八幡宮と称しているが、この当時には宇佐八幡神はまだ存在していない。よって、この別府八幡宮は大幡主の八幡宮といえる。田心姫を祀る中瀛宮から大幡主を祀る別府八幡宮へと変遷している。


9.水沼君と水沼別君の国乳別命

弓頭神社は国乳別命を祀る神社であるが、その古宮は大幡主系豊玉彦を祭神とする神社であったと推定する。さらに、時代が下がると、高良玉垂命の影響を受けている。
北野町大城の赤司八幡宮の水沼姓宮崎宮司は、水沼君の末裔といわれるが、水沼君の出自は不明といわれる。「私たちは古代先祖からずーっと大城にいました」と言われる。本拠地は大城であり、三潴郡は本拠地ではないと言われる。
水沼君が豊玉彦の嫡女・豊玉姫(田心姫)を祀る豊比咩神社の祀官であれば、水沼姓宮崎氏は豊玉彦の流れということになる。
国乳別命は景行帝の御子とされているが、百嶋説では、百姫・宇佐津姫の子とする。
国乳別命は水沼君の入り婿となり、三瀦郡に水沼別君として任ぜられた、と私は推定する。

明治の初めごろに神官・船曳鉄門(ふなびきかねと)によって、弓頭神社の祭神は国乳別命と唱えられるまで、祭神名は「御縣神」社号「御縣社」とされ、実態不明のまま来ている。
現代の世の中である。信教、言論、表現の自由が保障される世である。神名、社号に疑義がある時は、宮総代が神殿の内部を開け、祠を開け、ご神体を確認されても、氏子からの異論はないと思う。神殿の内部を見れば、神紋もあるかもしれない、社号も表記されているかもしれない、ご神体の台座裏には隠れた由緒が書かれているかもしれない。何がしの手掛かりが得られると思う。

私の氏神、玉垂神社は、鎌倉時代の初め、草野氏によって武力介入をうけ、八幡神を合祀させられ、社号を柳瀬神社、祭神を柳瀬大菩薩と改称させられ、神社の実態が曖昧にされた。
しかし、村人は実態を子子孫孫に伝え継ぎ、明治の初めになって、社号を元の玉垂神社に戻し、八幡神を境内社に置き、新しい土地に遷座し、社殿を新築している。
それでも、明治政府によって、ご神体を明らかにすることはなかった。社号「玉垂命神社」祭神「武内宿禰」・脇神二柱と公表された。神殿には「玉垂神社」と銘盤が打ってあるにもかかわらず。また、神紋の五七桐紋、五三桐紋が至るところに打ってあるにもかかわらず。
でも、我が家には、祭神は「高良のお姉様」と女性の神様が祀られていると伝わって来た。機会があり、神殿内を見ることができた。伝承通り、主祭神は中央に女性神「神功皇后(息長足比売命)」である。さらに、脇神が二人おられ、これも女性の神様であった。女性の神様が三人祀られている。二人の女神は神功皇后の妹とされる方であった。
神殿内を見ることによって、実態を正確につかめた。