No.58 水沼君の八幡神社と豊姫神社と豊姫 ③
宮原誠一の神社見聞牒(058)
平成30年(2018年)05月05日
令和7年(2025年)5月20日修正
「水沼君の八幡神社と豊姫神社と豊姫」と題して、3部に分けて報告しています。
11.大城村郷土読本にみる日比生の豊姫神社
さらに、大城村郷土読本(大城村教育委員会 昭和28年 野口治七郎著)は日比生の豊姫神社について述べている。
豊比咩神社については赤司八幡宮の縁起とともに日比生氏神豊比咩神社を見逃すことはできません。日比生銅剣の項ですでにのべたところですが、銅剣の発掘箇所は日比生豊比咩神社境内であり、同境内からは 古瓦・土器・陶器などの破損したものが多く発掘され、特にその古瓦は高良山興隆寺(筑後最古の寺院)・国分寺・ 柳坂山の跡より発掘された瓦よりも異ったもので類例なく、すべて温石で作られたものでした。これらの発掘物は豊比咩神社研究の一つの鍵ともなるものですが、同社所蔵の豊比咩宮社地の図について太宰管内誌には「境堺甚厳重にして西より北の方かねの手に堀ありて、是を堺とす。南を以て正面とす。正面東西十間三歩、社前鳥居の内東西十五間二歩、社の後の堀東西二十四間九歩、西の方南北三十九間とあり。古老の語り伝えには日比生氏神の古社であり、大社であったことを残すのみで、その他の資料の手がかりはありません。
大友氏の焼打によってすべては無に帰して、近世に至り再興されたものです。古老の口伝によれば、往古の祭礼は頗る厳粛で塚島古墳へ神幸があり、神楽田神田の地名はその社領の存在を示すものであり、宮司は大宮司屋敷の所在地であった等。
また豊比咩神社宮座は小村に似ぬ厳粛な儀礼をもって維持されて今日に至っていることも、ありし日のすがたをとどめているといえましょうか。神域より発掘された銅鉾、その他の遺物のみが記録神宝何ひとつない神社の栄ある歴史を物語るものともいえましょうか。
さらに、豊姫神社境内から発掘された銅剱についても触れている。
日比生銅剱
日比生の豊比咩神社境内から発掘された銅剱は塚島の合甕とともに、弥生式時代の大城村一帯を証明する貴重な資料です。筑紫鉾と呼ばれる銅剱銅鉾は当時博多湾沿岸に本據をもつ弥生式文化の象徴ともいうべきもので、・・・・・後世、これらの銅剱銅鉾は神社のご神体になぞらえられることにもなりましたが、神話につながる幾多の由緒伝説を秘めた豊比咩神社の境内から発掘されたということはまことに奇縁です。
「豊姫縁起」以上の資料はありません、と簡単に述べられている。
しかし、境内の西で銅鉾が発掘されたこと。発掘された古瓦は温石で作られたものであること。境内北の「宮司みやじ」は大宮司屋敷のあった所で、字名にも村名にもなっている。
日比生の豊姫神社前の筑後川は、昭和28年水害により、洪水対策河川改修がなされ、放水路が掘削され河道になったもので、古代は日比生の豊姫神社と赤司の八幡神社は地続きであった。そのため「宮司」は北宮司と南宮司に分断されている。
往古の祭礼は塚島古墳へ神幸があったと言われており、神楽田神田の地名はその社領の存在を示すものであり、宮司は大宮司屋敷の所在地であった。縁起資料はないものの、古代の遺跡、祭祀の継続は、豊姫神社としての、それなりの遺構を伝えているのではないでしょうか。
12.水沼の君と宗像神
大城村郷土読本と赤司の八幡神社の縁起「止誉比咩神社本跡縁記」から、水沼の君と宗像三女神をみてみる。
止誉比咩神社本跡縁記
道中の中瀛宮(なかつみや)の田心姫は、筑紫水沼君が祭る神、筑後国御井郡河北庄止誉比咩神社、今の赤司八幡神社これなり。
遠瀛宮(おきつみや)の市杵嶋姫は、筑紫胸肩君が祭る神、筑前国宗像郡宗像神社これなり。
海濱宮(へつみや)の湍津姫は葦原中国の宇佐嶋に降居され、豊前国宇佐郡の宇佐宮八幡比咩神社これなり。
三女神の降居の事跡は三所各別であり、一所とあるは、本紀の脱簡混文であるという。
豊姫縁起(大城村郷土読本)
「豊姫縁起」といわれる赤司の八幡神社の由緒書には、豊比咩神社に関する幾多の由緒伝説が述べられていますが、大城村一帯を水沼君の本拠としているところは注目すべきことです。
景行天皇・神功皇后の西征に関する伝説を含んでいますが、応神天皇の生誕を蚊田(稲数村内)の蚊田宮とし霊泉潟の天渟名井(あめのぬない)「益影井 ますかげのい」に関連を持たせていますが、「此所(蚊田宮)往古柳川海より連続して筑肥を隔て当社の西から漫々と北背に廻り筑前国上座郡迄入海御座候」という條は、あるいは当時の大城村一帯の地形を物語っているのかも知れません。
豊姫神社の起源は天照大神の神勅によって、宇佐・宗像・道中の三ヶ所に降られた三女神のうちの道之中というのはここである。「汝三神宣降居道中奉助天孫而為天孫所祭也」(神代巻)とある道中は河北荘道中である。「今在海北道中號白道主貴此筑紫水沼君等祭神也」(神代巻)とある。
のち景行天皇が筑紫を巡狩されるや、当社の祭神田心姫命の荒魂が八女津媛となって現れたが、水沼県主・猿大海に神告がありましたので、天皇は当社に行幸されて田心姫命を道主貴として崇められました。
神霊の至すところ、九州が平定したので、御子国乳別命を長く、祭祀の御手代としてとどめられました。
成務天皇のとき、筑紫道之中に勅して、御井郡を当社道主貴の神部とし、稲置・楯矛をもって、そのしるしとされました。稲置の居跡は後に稲数村といい、楯矛等をおさめる兵庫の遺跡を陣屋村というようになりました。
やがて、三潴郡も国乳別命の領所として、永く筑紫道之中の蕃屏とされましたが、水沼君こそは、この国乳別命の子孫であり、赤司大宮司も水沼君の末裔として、今日に至るまで懈怠なく神に仕え、河北惣大宮司として相続したわけです。
止誉比咩神社本跡縁記は、宗像三女神の降居の事跡は三所各別であり、一所とあるは、本紀の脱簡混文であるという。三女神は、それぞれ別の所、宇佐・宗像・道中(大城)の三ヶ所に降られた、という。
豊姫神社の起源は、天照大神の神勅によって、三女神が宇佐・宗像・道中の三ヶ所に降られ、その「道中」が北野町大城であるという。
そして、景行天皇の筑紫巡狩の折、当社の祭神「田心姫命」の荒魂が「八女津媛」となって現れ、水沼県主・猿大海に神告があり、天皇は当社に行幸されて、「田心姫命」を「道主貴」として祀られている。
豊姫神社の起源は、祭神「田心姫命」を「道主貴」として祀る神社であった。
よって、豊姫神社の祭神は豊玉姫ということになる。
景行天皇は豊姫神社の祭祀を御子国乳別命に定め、その子孫である水沼君の末裔の赤司大宮司・水沼姓宮崎氏が今日に至るまで奉祀されている。
ここで、「水沼君こそは、この国乳別命の子孫であり、赤司大宮司も水沼君の末裔」とあり、「やがて、三潴郡も国乳別命の領所として、永く筑紫道之中の蕃屏(はんぺい)とされました」とある。水沼君の本拠地は御井郡大城であり、三潴郡は後の領所とみる。そして、三潴郡は筑紫道中の蕃屏(守り)とされている。恐らく、三潴郡は南九州からの守りの地とされたのであろう。
ここで、水沼君と水沼別君の混同がみられ、水沼君の祖は国乳別命ではない。水沼別君の祖が国乳別命である。水沼別君は三潴郡の蕃屏長である。
豊比咩神社に八幡宮が鎮座されたことについては、もともと応神天皇生誕の地であるという霊地でありますが、欽明天皇の頃、神霊が当社の三股池に現われ、膳夫池辺菱磨に神告がありました。同日同時に、肥後の菱形池、宇佐の三角池にも神託があったので、元明天皇、和銅五年にはじめて、宇佐宮に八幡大神を合祀されました。延長二年水沼君 菅守に勅あり、八月十五日、八幡大神を豊比咩神社に合祀して、御井郡の惣廟とし、恒例の放生会が執行されるようになりました。
寛文十年(1670)「久留米藩社方開基」によると、当社の社人は三家あり、池辺氏、徳永氏、宮崎氏があったが、池辺、徳永両家は断絶し、宮崎当家のみと記されている。一方、豊姫縁起は、現在では大宮司・宮崎氏一家残るのみ、宮使・坂田氏は武家となり、膳夫・池辺氏は赤司村の庄屋職を継いだとある。
そして、八幡神の勧請は、勧請先の神社を記載しないものの、御神体は「屋わた八幡」と記載されている。屋わた八幡神は京都府やわた市男山の石清水八幡宮の祭神である。
ここにも、宇佐八幡神と石清水八幡神の混同がみられる。
そして、「八幡大神を豊比咩神社に合祀」とある。豊比咩神社は式内社名であり、合祀先は赤司の「八幡神社」か、日比生の「豊姫神社」であるかは不明である。
今までの論考から、延長二年、石清水八幡神の合祀先は豊姫神社で、八幡神社は宇佐八幡神の創立とみるべきではなかろうか。
また、決め手となる当社の「三股池」はどこにあったのであろうか。今の赤司の八幡神社の南にあったといわれている。そうであれば、赤司の「八幡神社」は宇佐八幡神を祭神として、三股池がある土地に創立されたことになる。
そして、石清水八幡神を合祀した豊姫神社は日比生の「豊姫神社」ということになる。
しかるに中世に至って豊比咩神社は衰徴の運命にあったものでしょうか。近世に真鍋仲庵はその古跡すら忘れられて祭祀も中絶しているのを慨いている。
また、杉山正仲は筑後志に豊比咩神社のことを述べ「今按ずるに、この神社もまた中世退転して、その実蹟詳かならず。一説に御井郡上津荒木村に小祠ありて、姫社という。これ即ち豊比咩なりと云々。或人いわく、御井郡塚島村に大石を以て造築せし大塚あり、往古より里民これを止誉比咩宮と称すと。又同郡大城村の内、蛭尾と号する処に大石二祠あり。里俗にこれを豊比咩の神という。何れか是なることを知らず。・・・・」とあります。
いずれにしても近世に至っては神名の所在はわからなくなってしまい、かつて高良玉垂宮と並び立った名神も今いずこの有様でした。延享二年(1745)高良山僧正寂源によって高良山内に豊比咩神社再興の請願が藩に提出されました。高良山古図に豊比咩神社の神域ありとし、又、天安年閏高良玉垂宮と豊比咩神社正殿が失火に遭ったことは二神が同所に祀られていたことを証明するものだという理由からでした。
これに対して豊姫縁起を有力な証拠として、赤司の八幡宮、社家宮崎氏より、豊比咩神社の本拠は赤司にあり、再興はむしろ赤司になさるべきことであるとして、豊姫縁起を提出、高良山と赤司といずれをもって本拠となすか正邪をただして後、神社再興をなされたいと反駁書が提出されました。
赤司八幡宮の再興運動はついに効を奏しませんでした。
赤司八幡神社社務所資料
豊比咩神社が衰えていくのは、戦国時代で、キリシタン大名となって神社を焼き払った大友宗麟(1530?1587年)と本朝鎮守神を祭る当社社人との荒荘の中で、宗麟の害を防ぐため、豊比咩神社の社号を八幡宮に、社人の水沼姓を藤原姓に変えたと伝えます。この戦国時代の乱世の事件が、後世、豊比咩神社が八幡宮と呼ばれ続けた原因と思われます。
特に江戸時代の初期、式内名神大社で官社である由緒深い豊比咩神社は、式外の私社の神社に並ばされたと縁起は慨嘆しています。『久留米藩社方開基』には「御井郡惣廟赤司村屋わた八幡宮」と書かかれてあり、現在の大城・金鳥・大刀洗地域の神社三十社を受け持つとされています。
キリシタン大名大友宗麟の神社焼打ちには、社人も折れざるをえず、豊比咩神社の社号を八幡宮に、社人の水沼姓を藤原姓に変えたと伝える。この戦国時代の乱世の事件が、後世、豊比咩神社が八幡宮と呼ばれ続けた原因と言われている。
「延喜式」神名帳によれば、豊比咩神社は式内社名であり、神社名は、赤司の「八幡神社」、日比生の「豊姫神社」となっており、寛文十年(1670)「久留米藩社方開基」では、「赤司村屋わた八幡宮」と記載され、福岡県神社誌では、赤司の「八幡神社」、日比生の「豊姫神社」となっている。
結論として、赤司の「八幡神社」は宇佐八幡神を祭神として、三股池がある土地に創立された神社であり、日比生の「豊姫神社」は、延長二年(924)、石清水八幡神を合祀した豊姫神社ということになる。そして、日比生の「豊姫神社」は戦国時代の兵火に遭い、江戸時代中期まで再建されることなく、忘れ去られることになる。
未解決として、日比生の「豊姫神社」の北側には字名「大屋敷」「宮司」と大宮司屋敷の跡が残る。戦国時代末の大友宗麟(1530-1587年)と当社社人との荒荘の後、八幡神社に社号を変更した。すると、赤司の神社は、豊姫神社に八幡神を合祀した神社となり、赤司の豊姫神社と日比生の豊姫神社の二社が併存していたことになる。
現在の水沼姓宮崎宮司宅が八幡神社の近くにあるのは何故か。古昔は日比生の豊姫神社の北側に大宮司の屋敷があった。
水沼別君はどこに居られ、どこを支配したのか。水沼別君の「別府八幡神社」とは。
色々問題は多い。

(注) 百嶋神社考古学神代系図では国乳別命は景行天皇の実子ではなく、垂仁天皇(宇佐津彦)と宇佐津姫(百姫)との御子とする。崇神天皇と垂仁天皇は宇佐地方を配下に納め、宇佐八幡宮の開基に関係したとみる。
これからして、水沼の君が宇佐地方に勢力を張り、宇佐神宮に関係したことが想定できる。
今のところ、水沼の君が宗像大社、宇佐八幡宮の祭神・三女神とどう関わっていったかは不明。
(注) 宗像大社の巨大な神額の文字「奉助天孫而為天孫所祭」(天孫を助け奉り、天孫に祭られよ)は、大国主の言葉といわれている。
大足彦・天種子は景行天皇。生目入彦は別名宇佐津彦・垂仁天皇。
国乳別命は景行天皇の実子ではなく、宇佐津彦(垂仁天皇)となる。
13.神功皇后時代以前の北野町大城
杉山正仲の「筑後志」に気になることが記載されている。
豊比咩神社のことを述べ、「今按ずるに、この神社もまた中世退転して、その実蹟詳かならず。一説に御井郡上津荒木村に小祠ありて、姫社という。これ即ち豊比咩なりと云々。或人いわく、御井郡塚島村に大石を以て造築せし大塚あり、往古より里民これを止誉比咩宮と称すと。又同郡大城村の内、蛭尾と号する処に大石二祠あり。里俗にこれを豊比咩の神という。何れか是なることを知らず。・・・・」とある。
塚島の大塚(古墳)を、往古より里人は「止誉比咩宮」と呼び、大城の蛭尾(ひるお)に大石二祠があり、里人はこれを「豊比咩の神」と呼んでいる。
往古以前は、豊姫神社が鎮座する「日比生 ひるお」を「蛭尾 ひるお」と記している。また、蛭尾に「大石二祠」があり、これを「豊比咩の神」と呼んでいるが、誰を祀るものか不明といっている。
ここ福岡県北野町大城の蚊田宮伝承は、神功皇后の誉田別命(ほんだわけのみこと)の生誕の地とされているが、この地域には、豊玉姫を祀る豊姫神社があり、「大城」「蚊田かだ」「蛭尾 ひるお」「神功皇后」、そして、豊玉姫に因む地名、乙丸、乙吉があり、「豊玉姫」と「事代主」に関する地名称が揃い過ぎている。
事代主は、豊玉姫と彦火々出見命(経津主 ふつぬし)の子であり、事代主は葛城氏の祖であり、神功皇后の母方の祖にあたり、神功皇后ゆかりの地や祭祀神社には、よく事代主を祭神とする淡島神社、粟島神社、薬師堂が共に祀られている。
淡島明神は和歌山市加太町の加太神社が著名で、その祭神は少名彦命・大己貴命(大国主命)・息長足媛命(神功皇后)となっている。
事代主ゆかりの地名称には、「山田」「八重津」「桂」「桂木」「桂川」「片縄」「片延」「片田かだ」「蚊田かだ」「大城」「王城」「蛭ヒル」等があり、「カタ」の神であり、この地名称がある所には事代主ありと思っている。
よって、蛭尾の「大石二祠」の「豊比咩の神」は、豊玉姫と事代主を指すのではないだろうか。かつて、豊姫神社の南に土居区があり、ここに事代主神社があったが、今は存在しない。
また、豊姫神社の北に高島区があり、ここに八十魂神社(祭神・大己貴)があったが、今は天満神社となっている。
蚊田宮の南の仁王丸の天満神社には境内社・大己貴神社があり、また、塚島古墳のある塚島天満神社に境内社・大己貴神社があったが、今は存在しない。
陣屋川の西の中島区の老松神社には事代主を祀る境内社がある。
事代主は大己貴(大国主)の義理の息子であるが、豊玉姫が連れ子して、大国主の妃になられた時、名を田心姫と改められている。「道主貴」の豊玉姫は宗像三女神の一柱・田心姫命として、「筑紫中津宮=豊比咩神社」の祭神として祀られた。
そして、北野町稲数の西に蚊田宮跡石碑がある。
ここ北野町大城は、豊玉姫と事代主の所縁の地ではなかろうか。
田心姫を祀る地域には大国主、事代主を祀る神社、境内社が鎮座することが多い。特に、ここ北野町大城はかつて多く見られたのであるが、今は少ない。
筑後地方は、いつの時代か大国主、事代主を祀る神社が潰されるか、祭神の差し替えが行われている。
北野町大城は後に、神功皇后の誉田別命の生誕の伝承が上塗りされ、この時、豊玉姫は神功皇后の妹・豊姫(ゆたひめ)に、事代主は誉田別命に置き換えられた、とみる。
大国主、事代主は筑後の歴史から消された、というべきであろう。
筑後の神功皇后は、開化天皇九州王朝時代の人である。のちに、筑後の田心姫・大国主・事代主の事跡が、「記紀」より消されることとなる。
今の水沼姓宮崎宮司は、水沼君の末裔といわれるが、水沼君の出自は不明といわれる。また、百嶋神社考古学神代系図(3)を見ていただくと、水沼君が大足彦(景行帝)の裔であろうと、百姫の裔であろうと、系図を昇れば、御年神→天鈿女命→罔象女神(春日様)に落ち着く。
罔象女神と豊玉彦は夫婦であり、豊玉彦の嫡女・豊玉姫(田心姫)が水沼君の奉斎氏神であってもおかしくはない。また、豊比咩神社の祭神が豊玉彦、豊玉姫であってもよいことになる。
藤原姓宮崎氏宮司が豊玉彦、豊玉姫を祀る神社の奉斎氏族とは考えにくい。水沼君は豊玉彦系の流れと考える。
14.北野町大城の豊比咩神社の歴史考察
いままでの論考から北野町大城地域の歴史を豊比咩神社中心に推察してみた。
1) 上古の大城
平成5年(1993年)の圃場整備事業に伴い、大城周辺の発掘調査が行われている。
結果、北の赤司地域は環濠に囲まれて、南の日比生・土居地区では筑後川を背後の守りとし、大城地域全体が砦の集落になっている。
この地域は、道主貴(田心姫=豊玉姫)、大己貴(大国主)、事代主を奉斎する氏族の土地と推察する。
2) 鵜草葺不合命・大足彦の時代
田心姫を道主貴とする道中(みちなか)の中瀛宮(なかつおきのみや)が建立され、水沼君が祀る。
3) 神功皇后時代
皇后は妹の豊姫(ゆたひめ)を「筑紫中瀛宮」に留め、西海の鎮護にあたらせ、後の平安時代初期に、当社を「豊比咩神社」と呼ぶようになった。
4) 羽白熊鷲・新羅征討の神功皇后時代
大城を駐屯地として、熊襲を討伐、北筑後を平定。新羅征討後、誉田別命を稲数の蚊田宮にて出生される。
5) 高良神宮、794年宇佐八幡宮に九州宗廟を譲る・宇佐八幡神の時代
醍醐天皇(897-930)の御代、赤司に誉田別命を祭神とする八幡神社が創起される。代って、豊比咩神社は日比生に遷宮。延長二年(924) 石清水八幡宮の八幡神を豊比咩神社に勧請合祀する。大宮司宅は日比生の豊比咩神社の北横に移動する。筑後秘鑑は「故ありて、日比生に仮に遷宮せり」と記す。八幡神と豊比咩神の住み分けが難しくなったのであろう。
6) 中世に至って豊比咩神社は衰退
豊比咩神社は規模を縮小するも戦国末期まで存続する。
7) 平安時代末期から鎌倉時代
1340年頃、赤司城が築城され、赤司八幡宮は赤司城と共に運命を共にする。
大宮司家は赤司にあって、赤司八幡宮を止譽比咩神社として運営。この頃から、豊比咩神社を「止譽比咩神社」と呼ぶようになったのではなかろうか。「止譽」とは豊姫と誉田別命を共に祀るという意味が込められているのであろう。
8) キリシタン大名大友宗麟の時代
大友宗麟の神社焼打ちに赤司の止譽比咩神社、日比生の豊比咩神社は焼失。赤司の神社は再興されるものの、宗麟の害を逃れん為、止譽比咩神社の社号を八幡宮に、社人の水沼姓を藤原姓に変える。この事件が、後世、豊比咩神社が八幡宮と呼ばれ続けた原因と言われる。
9) 江戸時代中期
日比生の豊比咩神社が村民によって再興され、以後、豊玉姫を祭神とする日比生の豊姫神社として現在に至るまで存続する。赤司の八幡神社は応神天皇を主祭神として現在に至り、毎年9月15日の放生会の花火打ち上げは続けられている。
今の赤司八幡神宮の祭神の三座は「応神天皇」であるが、誉田別命(誉田天皇)との関係は私には解らない。
「応神天皇」とは、死後の漢風諡号(かんふうしごう)です。書籍などには「応神天皇」という名前で登場するので、多くの人にとってなじみがありますが、八幡神社の祭神としては、「誉田別尊(ほんだわけのみこと)」または「品陀和気命」の名が用いられます。
しかし、なぜ応神天皇が八幡さまとして信仰されるようになったかという経緯は、明らかになっていません。また、玉依姫が本当は何ものであったか、あるいは応神母子との関係、そもそも八幡神とは原初、どのような神であったのか……など、八幡信仰にまつわる謎は多く残っています。
神道神社 https://shinto-jinja.jp/ より
鳥取県の八幡神社では、主祭神名は「応神天皇」でなく、「誉田別命」で表記されている。
15.赤司の八幡神社の満月の祭事
赤司の八幡神社には「竿例し さおためし」という特殊な祭事が行われている。
旧正月14,15日の夜、10尺の竿を立て、月光によって生じる竿の影の長さを測って、月の高度角を測定する。現在は旧歴の正月14日の晩だけ行われるそうです。
一体何を測るものなのか?
旧暦の月暦で、太陽の「冬至」と、月「新月」が重なる「朔旦冬至 さくたんとうじ」という暦句がある。天文学においては、太陽黄経が270度となる瞬間を「冬至」と定義している。
太陰太陽暦では、冬至を含む月を11月と定義しているが、19年に1度、冬至の日が11月1日となることがあり、これを朔旦冬至という。
太陰太陽暦では、19年間に7回の閏月を入れる(19年7閏)周期を「章」と称して、朔旦冬至となるように暦法が作られるのが原則とされていた。
「朔旦冬至」は月暦が新規原点に戻る日でもあり、冬至は暦計算の起点となる。
どうして、月の暦が新規原点に戻るかというと、天文学的には、月の引力により章動を起こし、地球の地軸が才差運動を起こす(太陽がないと仮定した場合)。それで月の昇交点,近点が、それぞれ18.599年、8.851年の周期で動き、軌道面が回転する。この動きが合成されて19年の周期でほぼ元どおりに復帰する。(月の昇交点が1周するのに要する周期は6793.5日または18.5996年である。)
いわば、この章動は地球の地軸が傾いていること、地球が楕円体であること、月と地球の引力から生ずる作用である。
この周期をメトン周期と呼んでいる。
この周期は月相が元に戻る周期であり、19太陽年は235朔望月にほぼ等しい。メトン周期は、太陰太陽暦において閏月を入れる回数(19年に7回の閏月を入れる)を求めるのに用いられた。
19太陽年 = 235朔望月 = 6940 日
これは1太陽年を約365.263日、1朔望月を約29.5319日とすると
19 x 365.263 = 6940 日
235 x 29.5319 = 6940 日
このわずかな日数の狂いを修正したものが、カリポス周期である。
カリポス周期は、76太陽年を940朔望月に等しいとした周期である。
76 x 365.25 = 27759日
940 x 29.531 = 27759日
メトン周期を用いた四分暦
四分暦(しぶんれき)は、中国暦のなかで太陽年の長さを365と4分の1日とする四分法にもとづく暦法のこと。19年7閏月の章法を採用し、1太陽年を365.25日、1朔望月を≒29.53086日とする。1年の長さが365日+1/4日であることから,四分法ともよばれた。19年に7個の閏月を挿入し(19×12+7=235朔望月),この基本周期の19年を1章とし,4章(76年)で閏月および月の大小が循環するようにした暦法である。1章という周期は,ギリシアでメトン周期として知られていた。天文学的には月の昇交点,近点がそれぞれ18.599年,8.851年の周期であるから,19年の周期でほぼ元どおりに復帰する。
235 x 29.53086 = 6939.75 日
19 x 365.25 = 6939.75 日
赤司の八幡神社の「竿例し」という祭事は、19年の周期で月暦が新規原点に戻る日を求めて、暦の狂いがないかを確認されていたのである。
この19年周期を形に残したものが、伊勢神宮の式年遷宮だといわれる。
式年遷宮は20年に一度、東と西に並ぶ宮地を改めて、古例のままに社殿や御装束神宝をはじめ全てを新しくして、大御神に遷りいただく祭りとされる。この制度は約1300年前、天武天皇の発意により始まり、持統天皇4年(690)に第1回が行われ、平成25年は62回目の遷宮が行われている。
よって、本来ならば、式年遷宮の周期は19年が理にかなっている。




