宮原誠一の神社見聞牒(054)
平成30年(2018年)03月26日
No.54 福岡県浮羽町の浮羽島伝説と三次神社
1.浮羽島伝説
福岡県うきは市浮羽町浮羽(うきは)に「浮羽島御所阯」があります。景行帝が御座した場所と伝え、浮羽の地名の起源と云う。
浮羽島の由来
日本の一番古い正史日本書紀や八世紀に出来た風土記に、次の説話が記されています。景行帝の18年8月九州巡行の時、帝は八女から、この地にお出になって御食事をなさいましたが、お供のお料理番たちが盃を持って来るのを忘れていました。
帝は「惜しきかも、朕が酒盃はや」(おしい事をしたものだ。私の盃を忘れたとは)と嘆かれました。その頃、さかずきを「うき」と言っていました。それ以来、この地を「宇枳波夜 ふきはや」の郡と呼び、なまって生葉、浮羽と呼ぶ様になり、村名・町名・郡名のもととなりました。
ここには帝の杖が根づいたと言われる逆杉があって、台風や落雷で枯れても住民たちが植えついで大切にしてきました。
浮羽の地が古代から中央の史書に記されていることは意義深いことでしょう。
うきは市教育委員会
(注)大足彦(景行天皇)は実際に天皇に即位したのでなく、藤原の「記紀」によって天皇の称号が贈られたものであり、天皇の名称は使用せず、帝としました。
日本書記 巻第七 景行天皇(岩波書店)
景行天皇十八年八月、的邑(いくはむら)に到りて進食(みをし)す。是の日に、膳夫等、盞(うき)を遺(わす)る。故、時人、其の盞を忘れし処を号(なづ)けて浮羽(うくは)と曰ふ。今的(いくは)と謂ふは訛れるなり。昔、筑紫の俗(ひと)盞を号けて浮羽と曰ふ。
同様の地名に、佐賀県神埼市神埼町に的(いくは)があり、この地区は弁才天を祀る神社があります。地域としては、景行帝(大足彦)、ヤマトタケルの足跡の強い地域です。
佐賀県神埼町の的、福岡県浮羽町名の的、どちらかが地名の移動と考えるのですが。
百嶋説からすると、神武天皇の姫治伝説が、景行帝伝説に置き換わった可能性があり、佐賀県神埼町の的の地名が福岡県浮羽町へ移動したと考えます。
「和名抄」では、生葉郡(いくは)とあり、現在でも「生葉」の名称が使われて、「いくは」が訛って「浮羽 うきは」になったとみます。
浮羽島伝説の「盞(うき)を号けて浮羽と曰ふ」から名付けられた「うきは」には流れが自然ではなく、やはり、的(いくは)が生葉(いくは)となり、さらに、浮羽(うきは)となったとみる方が自然に感じます。
百嶋先生講演 久留米地名研究会にて 浮羽島伝説 2011年2月5日
魏志倭人伝読んでいらして、全く気付いておられないこと、トウマの国とは阿蘇家の頭領、春日様(天忍穂耳命)が長髄彦の家来だった頃、与えられていた統治地が当麻の国です。場所は奈良県葛城です。あっちの当麻とこっちの投馬をごっちゃにしていますが、倭人伝の投馬は大分県宇佐です。邪馬台国の中心地は今盛んに噴火を繰り返している所、宮崎県の高原町(たかはるちょう)あたりです。もとは姫原(ひめはる)でした。ところが、高木の大神の一派が盗み取りして、名前を勝手に姫原から高原(たかはる)に変えています。本当の神武天皇のゆかりの地です。姫城(ひめぎ宮崎県都城市姫城町)は都城市市役所付近の地名です。もとの鹿児島県の国分市及び隼人町(はやと)あの付近一帯を姫城という。それから熊本県の八代のちょっと上に九州王朝のどえらい集落があります。そこにも姫の城が残っている。そして、ここから余り遠くない福岡県浮羽町千足の小高いところの姫治(ひめはる)も神武天皇ゆかりの地です。現在はそういう伝説は残らないで浮羽島伝説が残っている。
佐賀県神埼市神埼町的(かんざきまちいくは)
行政区域の変遷
1889年(明治22年)4月1日 - 町村制施行により、現在の市域に相当する以下の村が発足
神埼郡神埼村・西郷村・仁比山村・城田村・境野村・千歳村・蓮池村・脊振村
1893年(明治26年)神埼村が町制施行、神埼町になった
1935年(昭和10年)11月3日 - 蓮池村が町制施行。蓮池町になった
1955年(昭和30年)3月31日 - 神埼町、西郷村、仁比山村が合併して、神埼町になった
1955年(昭和30年)4月1日 - 城田村・境野村・千歳村・蓮池町の一部が合併(新設合併)して千代田村が発足(蓮池町の他の地域は佐賀市へ編入)
1965年(昭和40年)4月1日 - 千代田村が町制施行、千代田町となった
2006年(平成18年)3月20日 - 神埼町・千代田町・脊振村が合併・市制施行し、神埼市として発足。佐賀県で10番目の市であり、同時に佐賀県から村が消滅した。
神埼村→神埼村、本掘村、田道ヶ里、永歌村、本告牟田村[後の西小津ヶ里・枝ヶ里]
西郷村→横武村、姉川村、本告牟田村[上記を除く]、竹村、尾崎村
仁比山村→的村、志波屋村、鶴村、城原村
福岡県うきは市
明治22年(1889年)4月1日 - 町村制の施行により、以下の町村が発足。
姫治村 ← 小塩村、新川村、田籠村、妹川村(高西こせ)
山春村 ← 三春村、山北村
大石村 ← 高見村、古川村
椿子村 ← 東隈上村、西隈上村、朝田村 椿子は「つばこ」とよむ
浮羽村 ← 流川村、浮羽村
吉井町(単独町制)
千年村 ← 徳丸村、千年村、桜井村、福永村、橘田村、清瀬村、若宮村、宮田村
江南村 ← 新治村、八和田村、生葉村、江南村
福富村 ← 屋部村、福益村、富永村
星野村(単独村制。現・八女市)
「和名抄」では、生葉郡に、大石・山北・姫冶・物部・椿子・小家・高西の7郷があり、うち大石郷は旧大石村に、山北郷は山北村に、椿子(つばこ)郷は旧千足駅中心にその一帯、小家郷は小江(おえ)、橘田、溝口一帯(旧小江村付近、原鶴の南西)に、高西(こせ)は妹川一帯に想定できる。
2.福岡県浮羽町山北の賀茂神社
浮羽島伝説石碑の地より東に進むと浮羽町山北がある。
「ひぼろぎ逍遥」古川清久管理人 で報告されている美しい社殿の賀茂神社が鎮座です。
1346年(正平元年)山北四郎大蔵永高により京都加茂上下大神を勧請。
境内南には古墳があり、三王宮(大山祗?)が墳丘に鎮座する。
古代、うきは市から日田市にかけては豊玉彦の領域であり、浮羽の山手の新川妹川に入ると大山祗の領域となります。
本当の賀茂神社について
古代の賀茂氏の氏神を祀る神社で、古くは「賀茂大神」と称し、祭事の葵祭は有名です。また、この賀茂神社から勧請を受けた神社が、「加茂神社」「賀茂神社」「鴨神社」と称し日本各地に約300社あります。
祭神は由来記が示す神武天皇とその母・玉依姫ではなく、崇神帝とその母・鴨玉依姫が本当の祭神。それ故に鴨神社と称します。
賀茂別雷神社[かもわけいかづちじんじゃ](通称「上賀茂神社」)
祭神 崇神天皇 (父 大山咋 母 鴨玉依姫)
賀茂御祖神社 [かもみおやじんじゃ](通称「下鴨神社」)
鴨玉依姫とその父の賀茂建角身命(豊玉彦)が下鴨神社に祀られている
祭神
東殿:鴨玉依姫命(たまよりひめ)- 賀茂別雷命(上賀茂神社の祭神)の母
西殿:賀茂建角身命(かもたけつぬみ)- 鴨玉依姫命の父(豊玉彦)
境内の南には前方後円墳(宮の前古墳)があり、宮の前古墳石碑には、石室内の全面には朱が塗られ、頭がい骨と直刀が出たと書かれています。その古墳の上に三王宮(大山祗?)が鎮座です。山北四郎永高の子孫が神社の東に河北家として住居されていますが、話を伺うと、「三王社」は「山王社」であり、祭神は大山咋ということでありました。古墳の持ち主は的臣といったところでしょうか?
宮の前古墳に鎮座する境内社三王宮
賀茂神社由緒 福岡県神社誌
社伝にいわく。三毛入野命の後胤、山北四郎永高なる者、当郷を領し、正平元年(1346)山州愛宕郡加茂上下大神を此に勧請し、神領13町寄付。その後、兵乱にて廃す。
社説にいわく。正平元年、征西将軍宮懐良親王、畏くも後醍醐天皇の御遺勅により、大友兵部大輔氏行、郡主山北四郎大蔵永高、大宮司熊懐平大夫行景等に命じて、山城国愛宕郡加茂上下大神を遷祀せしめ給いし所にて、氏行、永高、行景等、宮所の風景を眺めるに、新河川と小塩川と落ち合えるは京の葛川と鴨川にひとしく、又荘の名を山北というは京の山北に似たりと。山北山の麓その清川の辺に宮所を清め、神殿、拝殿、玉垣、鳥居、楼門、廻廊、摂社、末社に至るまで工果てて、山城国より遷し奉る。(中略)
天正7年兵火に罹りて衰微せしが、大蔵永秀、日田親永等は度々参籠祈願せり。
境内神社 秋葉社、稲葉社、春日社、五穀神社、琴平社
摂社 日吉神社(大山祗) 河北家当主の話では、山王社であり、祭神は大山咋といわれる
三次神社(景行天皇)
賀茂神社の祭神(豊玉彦、鴨玉依姫、崇神帝)、山王宮の祭神・大山咋は、鴨族と称され、それぞれに二葉葵の紋章を持っておられる。
葵の頭領は、最初は漠然と、那国の王様(大幡主)とされていたが、本当の葵の頭領はヤタノカラス・豊玉彦(下鴨大社の豊玉彦)といわれる。
浮羽町山北の賀茂神社の二葉葵の紋は、大山咋の葵紋に鴨玉依姫の葵の花芽が付けられて、鴨玉依姫と大山咋の合作・葵の紋となっています。この葵の紋からすると、浮羽町山北の賀茂神社は、本当は「下鴨神社」が基盤になっているのでしょう。
3.賀茂神社の創建者・山北四郎永高の裔・河北家と三次神社
賀茂神社の東に山北四郎永高の裔・河北家が住居されています。屋敷は広く、山北神社と三次(みつぎ)神社を管理されている。家屋は「文化庁有形文化財」に指定されている。
山北家は建久元年(1190)に筑後隈上庄を賜り、1340年、山北四郎大蔵永高が大分県日田市から現在の浮羽の隈上に入っている。元和元年(1616)、河北甚助大蔵永胤の代に山北に帰農し、河北姓に改めている。現在の当主・河北宣正(のぶまさ)氏は山北永高から27代目、河北永胤から14代目になられる。
河北当主から山北神社と三次神社の由来について伺うことができました。
浮羽町の平野部は、豊玉彦、大山祗の橘族領域から大山咋、崇神帝の鴨族領域へと変化しているのがうかがわれます。
山北神社 福岡県うきは市浮羽町山北2031-2
山北神社は河北家の先祖26代を祀るという。現当主は山北永高から27代目となります。
三次神社 福岡県うきは市浮羽町山北2074
祭神は景行帝(大足彦)を祀るという。河北家では三次神社を本宮と呼んでおられます。
4.景行天皇の九州征伐(九州巡狩)のルート
景行帝の九州征伐(九州巡狩 じゅんしゅ)のルートは実に不思議です。豊の国を出発し、宮崎、鹿児島、熊本と周り、最期は筑紫の浮羽で終わる。しかも、最終点での浮羽ではヘリコプターに乗って飛んでいったかのようにどこかの都に帰られる。記述が不思議です。また、景行帝の九州巡狩記事については、『古事記』に記載がなく、『日本書紀』のみに詳細に記載があることもまた不思議なことです。
しかし、佃収氏の古代史の復元シリーズ2の景行天皇の九州征伐のルートを読んでいて、ふと思った。景行帝の九州巡狩のルートは誰かの移動の事跡を参考に創作されたのではないかと。
このルートを、大山祇ご一統の移動と考えればよいのではないか。最期は福岡県北筑後東部の杷木・浮羽に落ち着き、それから朝倉郡に展開したと。そうすると、浮羽郡、朝倉郡に大山祇・埴安大神の神社が多く分布するのが理解できるのです。
九州征伐(巡狩)ルート(従来説)
従来は、巡狩ルートを次のように解釈してきた。出発地の周芳は山口県防府市である。目的地の日向国は宮崎県である。景行帝は京(行橋市)に上陸して宮崎県へ向かった。「碩田国に到る」とある。碩田(おおきた)は大分市であり、景行帝は行橋市から大分市へ向かい、大分市から日向国(宮崎県)へ行ったと解釈した。従来の巡狩ルートは次図のようになっている。
景行帝の纒向日代宮が近畿奈良にあったとは思えません。ヤマトタケルは九州北部にいたのです。景行帝、ヤマトタケルの活動の地域は北部九州ではないのか。
佃収氏の古代史の復元シリーズ2では、ルートを次のように述べている。
景行天皇は周芳から京(行橋市)に上陸して碩田(おおきた)へ向かう。
碩田(おおきた) = 大きい城田(きた)
景行天皇の一行は行橋市から現在の国道201号線とほぼ同じ道を通り、香春町を経て田川市(城田)へ来ている。景行天皇は碩田(田川市城田)から糸田町へ来ていると解釈する。さらに海石榴市から大野へ来る。
大野から博多へ出て博多湾沿岸を通り筑紫の日向へ来る。福岡市西区である。景行天皇は筑紫の日向に高屋宮を建てて居し、征伐を終えて6年も筑紫の日向(福岡市西区)に住み着いている。















