宮原誠一の神社見聞牒(053)
平成30年(2018年)03月19日
No.53 菅公受難の旅路と福岡県田主丸町の小川天満神社
1.菅公受難の旅路と大分県九重町の菅原天満宮
菅原道真公が右大臣に就任して3年、昌泰4年(901)正月25日破局は突然におとずれた。道真公は大宰権帥に左遷され、詔が公布される。
道真公は宇多上皇の救いの努力もむなしく大宰府に流される身となり、2月1日には早くも都を立たねばならなくなった。妻と女子は都に留まることを許されたが、長男の高視は土佐に流され、ほかの三人の男子も地方に追われ、一家離散の悲運となった。
九州下向の一行は、警固の役人二人と隈麿と紅姫の幼児二人と門人を含め七名で、見送る人もなく、配流の罪人としての長旅であった。
道真公は京都を発してから、絶えず藤原時平の差し向けた刺客に狙われることになる。
刺客を避けるためか、大宰府館への路程は苦難の旅路であった。
前稿「No.19 老松神社シリーズ ① 天満神社と老松神社」にて苦難の路程を三説上げたが、
百嶋先生メモに三説を取りまとめた「菅公受難」西鉄歴史の旅 昭和56年3月1日 があった。
第一の道は従来説の博多上陸説。
第二の道は、瀬戸内海から門司に上陸して大宰府道を通り大宰府に達する道。
第三の道は、瀬戸内海から椎田に上陸し中津から山国川を上り日田に出て、日田から
舟で筑後川を下り、北野に上陸、ここから陸路松崎街道を通り大宰府館に通ずる道。
百嶋先生メモに沿って、「菅公受難」の路程を紹介。
① 博多に上陸
昌泰4年(901)2月1日、京を発つ。藤原姓樋口大膳進(だいぜんしん)は監視役として、京都から菅公に随行した。しかるに、博多入り直後、刺客の難に遭い、大膳進はその時、即刻、菅公の護衛役へと転身した。一行は転々の末、脊振の板屋峠を越えて、早良郡司の壬生家に到着。滞在は7ヶ月に及んだ。
ご一行は脊振の東麓を転々としている。
まず、天拝山にて身の潔白を祈願されたことは、「北野天神縁起絵巻」天拝山の巻に語られている。
さらに、ご一行は小郡市吹上の重松家の伝承によると、基山に滞在。
さらに、佐賀県中原に滞在。脊振山の東の三瀬を北に進み、板屋峠を越えて、福岡市の早良に到着した。
② 福岡市早良郡司の壬生家に滞在
長期滞在先の早良の壬生家に藤原氏の刺客が来襲(延喜元年901 11月23日)した為、樋口大膳進は夜間、密かに筑紫の西の山並みを抜けて、谷村(福岡市六本松)に到着した。
③谷村(福岡市六本松)を船出し福岡県築城町椎田沖で遭難
菅公は新編成の護衛団に守られて、谷村から船出して、門司、椎田沖にて嵐に遭遇し遭難。椎田浜にたどり着いたとされている。この時、漁船のとも綱を敷いて休まれた。
菅公はとも綱敷きの世話をしてくれた二人の漁夫の名を尋ねられている。「尾原村有門助右衛門」「八田村負田助左衛門」という。菅公はとも綱の上に座す我が姿の自画像を描き与え、綱敷天満宮のご神体となっている。
後に、豊前国主小笠原、豊後国主木下両家によって、現在の綱敷(つなしき)天満宮の社殿が造営されたという。
浜の宮 綱敷天満宮 案内由緒
延喜の昔、昌泰4年(901)左遷された菅公は大宰府に赴く途中、季節風に流され、この浜にたどり着かれた。村人等は常の人と異なるお姿に接し、とりあえず漁船のとも綱をくり敷いてお休みいただき、しばらく休養された後、出立された。
天暦9年(955)神託があり、国府の命により、社殿が造営され、船のとも綱を丸くくり敷いてお迎えした故事により「綱敷天満宮」と称えられた。その後、寛永14年(1637)、豊前国主小笠原忠真、豊後国主木下延俊、両公により現在の社殿が造営され、今日に至っている。
④ 大分市邯鄲に上陸
大分市邯鄲(かんたん)に上陸。邯鄲は旧大分港の町。邯鄲は中国河北省の都市名で胡人(ペルシャ)の文化が入っているという。春秋戦国時代の趙の首都で、戦国を嫌った民が集団渡来された地といわれる。
⑤ 大分県九重町の安全堂に到着
玖珠郡葦谷村(あしやむら)、現在の大分県九重町菅原の白雲山安全堂に着かれる。「菅原」は菅原道真公の名にあやかった名称で現在「菅原天満宮」がある。天満宮の西に、観応が開基した真宗白雲山浄明寺(当時は天台宗)があり、観応は道真公と親しい山城國愛宕山の学友であった。ご一行が着かれた日は春というのに雪が軒下まで積っていたという。延喜2年の早春であった。ここに長期の滞在をされる。
葦谷村では、地元の女性二人との間にそれぞれ子を成されたが、二人とも育たなかったという。その女性の一人、浄妙尼(浄明尼)は菅公没まで身の周りの世話をされた。
ここ安全堂にて、菅公は手鏡を前に、自分の姿を映し、自画像を描かれたという。
地元では、榧(かや)の一枝を採り、自像を彫刻されたと伝承が残る。
菅公没後、葦谷村名は菅原村に改められた。寛永10年(1633)、安全堂は天台宗より浄土真宗に改宗し、寺号を淨明寺と改めた時、自像の彫刻像をご神体に神社一宇が創立されたという。この神社が現在の「菅原天満宮」となった。安全堂を浄明寺に改めたのは菅公のお側人「浄妙尼」にあやかってのことではといわれる?
菅原天満宮 大分県玖珠郡九重町大字菅原(字本村)2300
安全堂所持の菅公自作の自像に対して、村上天皇は天暦9年(955)「天満大自在天神」の称号を贈られた。
菅家御伝記によれば、延喜5年(905) 従臣味酒安行(うまさけやすゆき)が安楽寺に廟殿を建立。菅公を「天満大自在天神」と称す、とある。
九重町菅原天満宮の神額には「正一位大威徳天神」とある。
永延元年(987) 一条天皇より「天満宮天神」の称号を贈。
正暦4年(993) 一条天皇より正一位左大臣追贈
九重町史には、「御神体の『道真像』であるが、本殿を覗いても拝むことができないはず。拝観した人はいない」と書かれ、菅公が大宰府に赴任の際、本当に豊後路ルートをとったのかどうか。「菅公のお立ち寄りや浄明寺の観応ご訪問など、いずれも何の記録も見当たらず、まったく伝説の域を出ない」と記す。
菅公の旅路は刺客を避けての逃避行であるために、その行程は秘密にされたであろう。満足な記録は残せなかったと推察する。
⑥ 福岡県北野町の江口に上陸
玖珠郡葦谷村の長期滞在を終え、ご一行は舟で筑後川の日田を下り、福岡県北野町の江口に上陸される。後に、ここ上陸の地「江口」に天喜二年(1054)「北野天満宮」が創建される。
陸路松崎街道を通り、某年某月某日大宰府南館に着かれる。
ところで、菅公終焉の地は太宰府の榎寺と言うことになっているが、薩摩では、「菅公は川内の藤川で没された」ということになっている。川内を含む肥薩地区広域には、菅公の御祖、即ち、西アジア系の人達の一大牙城が存在した事は、公然の秘密として伝えられている。(百嶋)
2.菅公親筆の御真影を祀る福岡県田主丸町小川の天満神社と老松神社
福岡県田主丸町小川には、平成3年までは、天満神社、老松神社、宮地嶽神社の3社を維持されていた。これには、田主丸町小川に居館を構えていた中世の土豪・小川氏の存在がある。田主丸地方では麦生氏と並んで、よくその存在が知られた豪族である。中世以前は、小川の地は安楽寺の荘園であった。大友義長の時代、小河庄70町、蜷川(豊城)10町、鯵坂庄3町を与えられている。
菅藤五郎は菅原道真公の寵臣で、菅公が左遷された時付き従った臣下である。
菅公は鏡に向かって(三幅の)自画像を描き、これを三人の臣下に与えて去らせている。
藤五郎は竹野郡小川に来て住み、小川姓を名のっている。子孫は豊後の大友家に臣従して800町を所領した。
大友宗麟の代にキリスト教への改宗の命に服さなかったので、小川伊賀守は宗麟から討たれた。嫡子と次男は居館を離れ、家臣六名を連れて筑前の竃門山(宝満山)に逃亡し、そこで九年、さらに英彦山で九年を過ごしている。その後、上座郡長淵村(福岡県朝倉町大字長淵)に移って七年住んで、大友家の没落後、ようやく故地小川村に帰る事ができた。
小川村に帰ると、落ち延びる時に村から持ち去った菅公の画像を、新しく建てた天満宮に収め、これを氏神として崇拝した。これが現在の小川天満宮の起りだという。
長い流離の末、小川村に帰還した小川氏は、旧社(老松神社)に菅公の「自画像」を戻さなかった。わざわざ新たに社を建てて菅公の「自画像」を祀り、これを別個の小川天満宮とした。
一方、小川氏が寵門山へ逃亡するまで同画像を神体として祀っていた小川村の社は、その後、小川の村人によって新たに神像が新調され、護持されてきた。それが、現在の老松神社であるという。
老松神社は、小川氏が大友氏の迫害を逃れて、旧小川天満宮の神体である菅公の「自画像」を持ち去った後、小川の村人たちが自発的に新たに神体を整えて祭り続けてきた神社である。
小川天満神社 由緒
創立延長2年(924)頃、菅原道真公没後、自らの筆による自画像を御神体として祀る。慶長年間(1604-)まで、個人の屋敷に祀っていたが、有馬藩主の指示で現在地に移した。又、有馬藩主の崇敬厚く一時800町歩を社有したこともあった。
終戦まで「うそ替祭」で振るまった神酒をお供えすると御神体の御顔が赤くなり喜ばれたので赤天満宮とも言う。 昭和59年4月
(注)由緒の「一時800町歩を社有した」とあるは、土豪・小川氏の所領である。
3.小川の旧社・老松神社
老松神社は、小川氏が大友氏の迫害を逃れて、旧小川天満宮の神体である菅公の「自画像」を持ち去った後、小川の村人たちが自発的に新たに神体を整えて祭り続けてきた神社である。
小川氏の館は老松神社の北西、大円寺の東の微高地にあった。
旧社・老松神社 福岡県久留米市田主丸町小川1071
小川老松神社 由緒
当社は延長2年(924)の創建なり。最初奉安の御神璽は菅公親筆の御真影にして、世にこれを鏡の御影という。御真影は侍臣某大夫の拝受せしものなりとぞ。然るに、この御真影は天正年中(1575)大友氏の兵乱入、小川氏没落の際、伊賀守の子息、これを奉斎して遁走せし。以って、天正3年(1575)更に調達して奉安せられし。
老松神社の神殿の屋根、拝殿の扁額には「左三階松紋」が打ってある。老松神社としては珍しい社紋である。天満神社の社紋は「梅鉢紋」をよく見かけるが、「左三階松紋」も使用される。京都北野天満宮は「星梅鉢紋」と「左三階松紋」を使用されている。
4.小川の宮地嶽神社
小川の旧社・老松神社の境内に接して、東に宮地嶽神社が鎮座する。神社の神殿は石祠であり、拝殿は木造であったが、平成3年(1991)の台風19号により倒壊した。今は、神殿の石祠と境内神社の石祠群が残る。
老松神社は、宮地嶽神社の参道を通って右に曲がり、老松神社の第一鳥居をくぐって、老松神社の境内に入る。神社の並びからして、宮地嶽神社が古宮なのであろう。
宮地嶽神社 福岡県久留米市田主丸町小川
>境内神社として6社が並ぶが、その中に水神社があり、石祠の壁面に河童の像が彫られている。元は木造の河童の像が安置されていたが、明治22年(1889)の洪水によって木像は流出している。今の壁面の河童像は再現されたものである。
















