宮原誠一の神社見聞牒(036)
平成29年(2017年)12月07日
No.36 佐賀県東背振南麓の少名彦(事代主)
1.佐賀県東背振南麓の神功皇后関係の神々
佐賀県背振山南麓は、北は背振りの峯に阻まれ、南は有明海を望み、外敵防衛に強く、古代の王家の子を養育するのに適した地であった。嘉瀬川上流の川上渓谷、城原川上流の背振渓谷があり、それらの渓谷の上流は北山ダム付近に集まる。その背振渓谷は、古代、素戔嗚(スサノヲ)系の支配領域と言われた。
かつて、北山ダム湖に沈む前の「野波(のなみ)の里」は神功皇后生誕の地という伝承があり、そこには、神功皇后を祭神とする野波神社があり、皇后(息長足媛オキナガタラシヒメ)の両親、父・息長宿祢(オキナガスクネ)と母・葛城之高額媛(カツラギノタカヌカヒメ)を祭神とする下ノ宮があり、この地域に息長足媛の伝承が残っている。息長宿祢は素戔嗚直系の血筋であり、葛城高額媛も素戔嗚尊四世の孫であり、素戔嗚系と葛城氏の流れである。
また、豊玉彦の嫡女・豊玉姫と少名彦を祀る神社が散在し、背振南麓の支配は素戔嗚系から大幡主・豊玉彦系へ、さらに九州王朝の支配地域と移っていく。
下ノ宮 佐賀県佐賀市三瀬村宮ノ口
祭 神 息長宿祢命・葛城之高額媛命
由 緒 創立不詳とされているが、野波神社の下宮であるところから、おそらく野波神社と同じ時期に創起されたお宮であろう。祭神の息長宿祢命と葛城之高額媛命は神功皇后(息長足媛命)の御両親であるが、本宮よりも上流に祀られ「下ノ宮」というが、息長足媛命が皇后になられてより、立場違いにより、後に下宮となったのであろう。野波神社の例祭時、当宮との間に皇后の御神輿の上り下りの行事が行なわれている。
野波神社 佐賀県佐賀市三瀬村大字杠(ゆずりは中谷)
祭神 仲哀天皇・神功皇后・武内宿弥 淀比咩大神(淀姫神)
由緒(要約)
西暦268年に創立。
祭神は「記紀」に沿った仲哀天皇・神功皇后・武内宿弥となっているが、九州王朝の観点と下ノ宮(神社)の存在から、主祭神は神功皇后とみる。
野波神社は神埼・佐賀・七山の宗廟神社であり、奉斎地域の広さと宗廟神社であることを考えると、歴史は古く、古代は相当規模の神社であったことがうかがえる。
明治43年、村内の無格社が整理統合され、祭神10柱「手力雄命・久久能智命・武甕槌命・級長津彦命・素戔嗚命・大雀命(大鷦鷯命)・菟道穉郎子・菅原道真・源義経・十城別王」外合わせて15柱が別神として本神社に合祀された。
昭和27年北山ダム開発によって社地(明神原)が水没することになり、社地社殿を詰ノ瀬山に移転改築し、同年12月に遷座式を執行した。昭和28年4月8日未明、不審火によって炎上し、全焼してしまったが、ただちに同地に再建された。昭和48年には、詰ノ瀬山にゴルフ場北山カントリークラブが開設されることになり、再び遷座のやむなきに至った。
周囲に大雀命(オオサザキ 大鷦鷯命)・菟道穉郎子(ウジノワキイラツコ)が祀られており、大雀命は開化天皇と神功皇后の若宮皇子であり、九体皇子の内の三名の皇子が野波の里で出産されたと考えることもできる。大雀命は後の仁徳天皇である。
境内社 淡島神社
野波神社の境内には、淡島明神・少名彦(事代主)を祭った小社殿がある。別名、粟島神社ともいう。建立の時期は明らかでない。神功皇后が祀られていることを考えると、その母である葛城之高額媛の「葛城」と関係があるとみる。淡島明神は和歌山市加太町の加太神社が有名で、その祭神は少名彦命・大己貴命(大国主命)・息長足媛命(神功皇后) となっていて、少名彦と息長足媛が共に祀らている。
野波神社が鎮座する地名・杠(ゆずりは)の起源
室町時代の嘉吉2年(1442)に阿波国の杠日向守が、淡路国の弓絃葉(ユズリハ)権現を奉供して、この地に来着し、一門の氏神として乙宮権現を祀っている。杠氏はこの地一帯の領主となり、地名を杠と改めるとともに、野波神社にも祭田五町歩を寄進して祭祀を盛んにしている。
乙宮神社 佐賀県佐賀市三瀬村宮ノ口
祭神 大雀命・菟道椎郎子
乙宮神社の祭神が大雀命・菟道椎郎子とは何かの間違いであろう。大雀命は後の仁徳天皇。菟道稚郎子は阿直岐・王仁に典籍(書籍)を学び、天皇に愛されて皇太子となったが、天皇の死後、兄大雀命と皇位を譲り合い、空位3年にも及んだため、自ら生命を断って皇位を兄に譲った、ことになっている。杠日向守が、この二皇子を祀った由緒は不明。
また、社名・乙宮神社は祭神に豊玉姫を一般に祀るが、淡路国の諭鶴羽(ユズリハ)権現は熊野権現の奥の院と称されており、熊野権現・大幡主の血筋の豊玉姫(乙宮権現)が乙宮神社の祭神であろう。大雀命・菟道椎郎子は別の神社に祀られていたが、明治の合祀統合、さらに元の宮復帰を行なううちに、神社がごっちゃになったのではないか。いずれにせよ、大雀命・菟道椎郎子を祀る神社が近くにあったのであろう。
若宮神社 佐賀県佐賀市三瀬村松尾
祭神 應神天皇・神功皇后・大雀命・源義経
寿永年間(1181)鶴ヶ岡八幡宮の勧請で、松尾村に神社を建立とあるが、創起はあきらかでない。由緒は「記紀」に沿って應神天皇を主祭神とし大雀命(オオサザキ)を若宮としているが、百嶋神代学からすると、開化天皇の若宮は大雀命(大鷦鷯命・仁徳天皇)であり、その母は神功皇后となる。
明治43年の神社の合祀統合が行なわれ、祭神は野波神社に合祀された。50有余年後の昭和36年、国道沿いの現地に社殿を新築し、4柱の祭神を奉迎して、若宮神社を復興している。
鏡神社 佐賀県佐賀市富士町大字下合瀬654
祭神 祭神 息長足媛命
配神 武内大臣 大山祇神 素盞鳴命 句々乃智命 田凝姫命 菅原道真 源義経
後奈良天皇の御字弘治年間(1530頃)合瀬村の地頭合瀬伊賀守の祖が祭り、初めは合瀬神社と称していたが、天明5年(1785)鏡神社と改めた。明治6年村社となり、祭神大山祇神以下六柱の神は無格杜合祀によって追加されている。
2.三瀬村土師の八龍神社
北山ダム湖横の国道263号を南に下ると県道46号への分岐交差点がある。この県道を東に進むと三瀬村土師に豊玉彦を祭神とする八龍神社が鎮座する。
建久3年(1192) 藤原山の領主、藤原内匠により建立。
八龍神社 佐賀県佐賀市三瀬村大字三瀬(土師)2183
祭神 綿津見神・龍田大神
明治4年に提出された神社調差出帳には次のように記録されている。
「天智天皇の御代大職冠藤原鎌足の末孫・藤原内匠は藤原山の領主であったが、建久2年(1191)に上京するとき、海上で暴風雨にあい、船が難航してあわや沈没しそうになった。内匠は一心に八龍宮を念じ、「私がもし遅滞なく岸に着くことができたら帰国の上は領地宗廟の神として崇め奉ります」。と祈誓したところ、不思議に風波が静まって無事に岸に着くことができた。そこで帰国の後、そのときの誓を守り、翌建久3年4月に八龍宮を造建して綿津見神(海神)を祀り、藤原山村の宗廟として崇敬し、家来の山本左京太夫貞房を神主に命じた。この地は内匠の居住地であったので藤原村と呼んだと伝えられている。これまで八龍宮と称していたが、明治の御一新によって綿津見神社と改称した。」社名改称のことは一般には知られていないが、土地の人は現在でも八龍宮または八龍神社とよんでいる。 三瀬村史
八龍神社の本殿の祠には、綿津見神(海神)・豊玉彦のみが祀られている。ご神体のポーズも変わっているが、祠の扉の月形(三日月・満月)の彫りも珍しいが、祭神との関係は薄いようである。
三瀬村史の編者は、海神が山中に祀られているのが不可解と思われ、藤原内匠の建立縁起で理解できた、と言われている。しかし、藤原氏にとって豊玉彦・橘族は政敵である。その神に海難救護を祈念している。本来ならば春日の神々に救いを求めるべきであろう。にもかかわらず、海神・豊玉彦に救護を求めたことは、藤原内匠の赴任の地である旧藤原村土師の地が豊玉彦ゆかりの地であると云う意識が心底にあったのではないか。
また、三瀬村史は続いて次のように述べている。
祭神の龍田大神については、明治14年に記録された長崎県庶務課誌の三瀬村誌の部に提出されているので近代になって合祀されたものであろう。
龍田大神は奈良県生駒郡三郷(さんごう)町立野南にある龍田神社の祭神天御柱命・国御柱命と考えられる。龍田の風神祭は天武天皇4年(676)に始まり、広瀬神社の大忌祭(おおいみさい)とともに、風による災害をしずめて豊作を祈る祭で有名。 ※龍田大神=市杵島姫
同じ県道46号筋の西の三瀬村三瀬(広瀬)2525-2に廣瀬神社が鎮座する。室町時代の天文3年(1534)に創建され、明治43年(1910)、杉神社に合祀され、廣瀬神社は廃社となっていたが、昭和35年(1960)5月広瀬氏子一同によって元の地に廣瀬神社を再興している。
この三瀬村一帯は、明治の一村合祀令、昭和の元神社への復帰が至るところでなされており、神社名と祭神との混乱が見られる。
廣瀬神社 佐賀県佐賀市三瀬村大字三瀬2525-2(広瀬)
祭神 若宇迦及売命・天照大神 豊受大神
主祭神の若宇迦及売命は農耕生活の守護神とされ、大和廣瀬神社の大忌祭は災害をしずめて豊作を祈る祭として古くから有名。
3.三瀬村井手野の玉里神社
広瀬神社と八龍神社が鎮座する県道46号をさらに東に進むと井手野への分岐交差点がある。この交差点を北に進むと少名彦を祭神とする玉里神社が井手野村の入り口に鎮座する。
神社の名前からして豊玉彦・豊玉姫を祭神と思わせる「玉里」であるが、祭神は少名彦である。鎮座地の村名・井手野からしても、この地は橘族(豊玉彦・豊玉姫)ゆかりの地である。
玉里神社 佐賀県佐賀市三瀬村大字藤原(井手野)994
祭神 少名彦命・十城別王・神代勝利
鎌倉時代の建永元年(1206)12月16日創建とあるが、口碑にはそれ以前にもっと上流の一谷に近い処にあったが、洪水山崩れにあい現在地に流れついたので、ここに再建されたと伝えられている。創建はもっと古いのであろう。神社明細帳には祭神少名彦神と記されている。
十城別王は日本武尊の御子といわれる。神代勝利は後に合祀された神・武将である。
本殿の祠には、少名彦神のみが祀られている。
ご神体の衣冠は、一般に平安時代以降のものが多いが、珍しく大陸風の服装である。
神社名は「玉里神社」で、豊玉彦・豊玉姫を祭神と思わせるが、祭神は少名彦であり、豊玉姫と少名彦は何がしの関係があることをうかがわせる。
ここ背振の三瀬村では、少名彦(事代主)と葛城之高額媛と神功皇后、少名彦と豊玉姫を結びつける印象が強い村と思っている。
4.一言主を祀る鹿路神社
三瀬村藤原(井手野)から南へ約7Km下ると佐賀県神埼市脊振町鹿路(ろくろ)に桂木(かつらぎ)がある。ここ桂木に一言主命を祀る鹿路(ロクロ)神社がある。葛城一族が佐賀から奈良の葛城に移動したのではないかと思わせる神社で、神功皇后の母方の葛城之高額媛の葛城氏の本拠地と思わせる地域でもある。
「この桂木には甲羅(高良)と云う地名も残っていた」と云われ、「甲羅」は天皇の后がお住まいになる集落であると云う。そこに一言主(事代主)を祀る鹿路神社がある。後の葛城氏の基盤と考えられそうである。事代主の娘・五十鈴姫は崇神帝(中臣烏賊津臣・藤原の祖)の后となり、その子・国片姫は開化天皇の后となり、坂本命の母となっている。
鹿路神社 佐賀県神埼市脊振町鹿路253
鹿路神社
鎮座地 佐賀県神埼郡脊振村大字鹿路253番地
祭 神 一言主神
淳和天皇天長3年(826)11月14日夜、鹿路村居民夢に一考翁出現し給ひ青衣を着し来りて告けて曰く、吾は是より東方大和国葛城峰と云ふ山より来し神なり、明朝此所より東方渓川辺を尋ぬべし我は則ち石上にあらん、能く我を祀らは、此土地永く守らんと云いて立去り給う、忽ち驚き覚め奇異の思をなし、早朝近憐の人等に此事を告知らせ、彼の川辺を御告の如く尋ぬるに、果して石上に青色の神像石あり、因て里民威服し即ち其所に宮を営み葛城明神と奉崇せしか、後鹿路神社と改称す、葛城峰より来りし神とありし故を以て、村名瀧の上村を、葛城村と号すと云々。明治6年2月21日村社に列す。
明治40年2月15日神饌幣帛料供進指定
由来記では、神社創立は826年、村人の霊夢に大和国葛城の一言主が青衣を着て現われ、我を祀れという。夢告の地を訪ねると石上に青色の神像石があり、葛城明神として祀った。後に鹿路神社と改称。そして、村名も瀧の上村から葛城村と変えた、とある。
青衣の葛城神がこの地に降臨した。此の地が葛城神ゆかりの地であったからであろう。
青衣の葛城神(一言主)はいかなる神であろうか。考えられるのは、鴨族・橘族からして、大幡主、豊玉彦、事代主が考えられる。大幡主、豊玉彦は黒服を着用される。青(緑)服を着用されるのは事代主であろう。
大和国葛城の鴨族の代表的な神々を見てみると
鴨都波神社(鴨都味波八重事代主命神社・事代主命) 奈良県御所市宮前町513
葛城一言主神社(葛木坐一言主神社・事代主命) 奈良県御所市大字森脇字角田432
高鴨神社(高鴨阿治須岐託彦根命神社・阿治須岐託彦根命アジスキタカヒコネ命=大幡主)
御所市大字鴨神
がある。
鴨都波神社は「鴨の三輪神社」であり、「下賀茂社」といわれる。
鵜草葺不合命、事代主の母は共に豊玉姫(後の田心姫・三穂津姫)であり、鴨族と云われる由縁である。
こうして、佐賀県東背振南麓の三瀬村一帯を概観すると、鴨族(豊玉彦、豊玉姫、事代主)と葛城族(葛城之高額媛、神功皇后)が係わってきたことが神社の祭神から見てとれる。葛城族は後の仁徳天皇と深く係わっていくことになる。仁徳天皇(大鷦鷯命)も若い頃は背振南麓三根郡で過ごされている。
事代主は鴨族と葛城族の架け橋になられているといえる。
事代主は宮中の御巫(みかんなぎ)八神の八番神であり、別名「えびす様」「西宮大明神」が、とんでもない場所に高い地位で祀られているとは驚きと言える。それだけ天皇家の祖先に係わりの大きい地位を秘めておられる。
葛城の峰
鹿路神社の由来記に「是より東方大和国葛城峰の神」が記されている。このような具体的な語句が村人の霊夢で理解できるだろうか。高い霊感と知識・教養がないとできない。神の名前である「一言主」は記載されていないが、この神は「一言主」と理解されている。文脈に無理がある。「大和国」は後世の追加ではないか。本来の表記は「是より東方のカツラギ峰」ではないかと思った。
すると、カツラギ峰は脊振山(せふりさん)ということになる。
脊振山の名称は、「飛龍が、山の上で天に向かって三度いななき、背中のギザギザした背びれを打ち振ったから「脊振山」と名付けられた、と云う。また、「火の国」の肥前国三根郡の「ミネ」は、景行天皇巡行説話の御寝(みね)の意と云う。
また、肥前国嶺県主の存在がある。これらの「三根」「嶺」は「桂木の峯」または「桂木の峰」ではないか。町村名に「三根(みね)町」「上峰(かみみね)村」が脊振山南麓に平成の町村合併前にあった。これらの「ミネ」は「桂木の峰」から来たのではないかと思った。










