Aさんの奥さんが救急車で病院に運ばれたのは、冬の寒い夜のことでした


Aさんは二人の子供さんを育てあげ、これからは夫婦二人で余生を、という矢先のことで、Aさんの落胆ぶりは、はた目にも気の毒に見えました


Aさんの、奥さんの元へ通う日課が始まりました


そんなある日、私がAさんに奥さんの容体をたずねると、意外な言葉が返ってきました


「このごろはもう病院へは行ってません。
だって家内は植物人間です。
私のことなど、まったくわからんのですから」


私は強い衝撃を受けました


私はAさんに言いました


「奥さんは生きておられる。
そして、ながーい夢を見ておられるのですよ。
子供のころのこと、
あなたとの出会いのころのこと、
そして子供さんのことなど、
優しく手を握って話しかけてください。
炊事や洗濯のときなどに口ずさんでおられた歌などあるでしょう。
耳元で歌ってあげてください」


これはあまりのむなしさに出た、とっさのひと言だったのです


数日後のことでした


Aさんは私を待っておられました


Aさんは私の前に立ち止まり、深々と頭を下げたのです


そして、


「家内が、家内が‥‥・」

と言って、次の言葉が出ないのです


顔を見ますと、目に涙をいっぱい溜めていました


やがて、

喉から絞り出すような声で、


「先ほどでした。
私が手を握り、話しかけました。そして、彼女の好きだった“涙(なだ)そうそう”を歌ってあげると、かすかにうなずいてくれました‥・」


私は胸が熱くなり、Aさんの手をしっかり握っていました ...。