歴史の本を読んでも
ほとんど出てくることがない話。
それは 20世紀の日本の歴史を
というより、日本の命運を
大きく左右した
いくつかの国家的決断に
ウィンストン チャーチルが
大きくかかわっていた事実です。
第一次世界大戦の最終段階
1917年11月に、ロシア帝国で
革命が勃発してしまいます。
まだこの段階では、
ロシア国内において
どういうグループが実権を握ることに
なるか ?よく分からない状態でした。
しかし ドイツ帝国は
この事態を好機と考えました。
ロシアの革命 臨時政府とドイツ 帝国が
単独講和条約を結んでしまったのです。
1918年3月、ブレスト リトフスク条約。
第一次世界大戦が始まった時
ドイツ帝国は たった1つの
プランしか持っていませんでした。
「シュリーフェン計画 」と
呼ばれるもので、ドイツは 国境の
東側 西側 両方が敵国となっています。
ですから 戦線は少なくとも2正面になる。
企画した作戦参謀の名前をとった
この作戦は、要するに
圧倒的な速度で西側を陥落させる。
そして 返す刀で東側をやっつけろ。
それだけの戦略なんです。
チャンバラの殺陣みたいなもんですね。
こんなもの戦略と言えるのか?って。
ウィルヘルム2世のドイツでは
それだけがマスタープランと
いうことになっていて 、
それを机の中から引っ張り出して
戦争おっぱじめてしまったんですよ。
このあたりの感覚は
日本よりもさらに権威主義的な
ドイツならではのものかもしれない。
第一次世界大戦 開戦 時
すでに企画立案者 は死んでいました。
そして ウィルヘルム2世は
シュリーフェン計画どおりに戦争始めた。
たしかに ドイツは強かった。
ただヒトラーの戦争 と違っていたのは
このとき フランスは降伏しなかった。
お互いに 塹壕 にたてこもり
戦線は全く膠着したままになった。
そしてドイツは
タンネンベルクの戦い で
ロシア帝国陸軍を圧倒します。
しかし ロシアも降服はしません。
1914年7月末に始まった
第一次世界大戦は
当初 戦争が終わる見込みとされていた
その年のクリスマスには終わらず
それから3年たっても続いていた。
戦争開始の翌年、
イープルの戦い において
ドイツが世界史上初めて
大量破壊兵器を使用。
ビラン性毒ガスを使用したわけです。
イープルで使われたことから
現在でもイペリットガスと
言われています。
ドイツ側がこういう事を始めた段階で
もうやめるに止められなくなりました。
しかし ドイツは強くしぶとかった。
3年持ちこたえて まだ戦っていた。
そして 1917年11月
ロシアの臨時革命政府とドイツは
何と単独講和条約 を結んでしまった。
ロシアが、ぬけがけをした。
ドイツがシブとかったので
ここまで戦争が続いてきた。
これで東側の縛りが取れた ドイツは
イギリスやフランス
そして新規参戦したアメリカに対して
大攻勢をかけられるようになった。
そればかりか革命後のロシアで
共産主義者-ボルシェヴィキ一派が
またたく間に権力を握ってしまった。
そして ポーランドの占領に乗り出した。
イギリス 、フランス 、
そしてアメリカは青ざめます。
息の根を止める段階で
ドイツ軍は勢いが復活してしまった。
第一次世界大戦は最終段階で
重大な計算違いが起きてしまった。
この頃 チャーチルは
なかなか動こうとしない 陸軍を尻目に
海軍に働きかけて 陸の新兵器を作る。
世界最初の戦車「マーク1型」です。
このアイデアは図に当たった。
ベルギーやトルコでの失敗で
批判にさらされていたチャーチルは
戦車の成功で影響力を取り戻します。
ここでチャーチルは連合軍総出で
ロシアの共産主義者を打ち負かそうと
言い出した。革命干渉戦争の始まりです。
そうは言っても 連合軍は
ドイツの猛反撃にあって
西ヨーロッパで窮地に立たされていた。
そもそも革命干渉戦争 は
ポーランドでロシア軍による
虐殺が起きた事を口実にしていた。
ポーランドは敵国 ドイツの東側です。
援軍を送るだけでも大変困難。
すると チャーチルは
革命ロシアを、背後からおびやかそうと
考えた。ロシア帝国 領土内で
最もガラ空きの部分、
あの広大なシベリアです。
そこでのささいなトラブルに
イチャモンをつけて 戦争を始めた。
そうは言っても ヨーロッパ戦線だけで
手いっぱいの連合国側に
はるばるシベリアまで送り込める
兵士は、各国せいぜい1000から2000。
けれども チャーチルは諦めなかった。
まだ 極東の日本との同盟が切れていない。
日露戦争の準備のための
日英同盟は、まだ有効だったんです。
日本にはまだ領土的野心がある。
これを利用しようと考えた。
チャーチルのコンタンを
見抜いている人は日本にもいた。
とても評判の悪い陸軍の元老
山県有朋とその一派でした。
しかし彼らも日本国内の積極出兵派に
押しきられ、結局日本はシベリア に、
4年にわたって、7万人以上という
大軍を派兵することになった。
ちなみに シベリアへはアメリカ軍も
参加出兵しています。
しかし その数は
日本が桁外れに多かった。
大悪党 チャーチルは
このとき 別の思惑も働かせていた。
アラビアのローレンスといわれる
スパイを使ってガタガタにしていた
オスマントルコ帝国領内で
今度はギリシャを使い、バルカン半島の
領土を削り盗ろうとしていた。
大変アコギな話だけど、
19世紀初めのギリシャ独立戦争の
ときから、イギリスは このあたりで
ずっと同じ事をやってました。
チャーチルは、ガリポリの戦い で
自分に煮え湯を飲ませた
トルコの軍事的天才
ムスタファ・ ケマルの力を恐れ
どんな汚い手を使ってでも
こいつを叩きつぶそうと考えていた。
そのためには 極東シベリアで
日本軍に思いっきり暴れてもらい
悪い評判をたててもらうくらいの方が
都合が良かったんですよ。
結局 小アジア アナトリア バルカン
でのわるだくみは成功しませんでした。
しかし ポーランドから
ボルシェヴィキを追い出すことには
何とか成功した。
のちスターリンが嫌味を言ったように
これは大変汚い戦争だった。
それをカバーアップするために
当時の大日本帝國が
利用されてしまったんで。
私は先の大戦末期のソ連の対日参戦は
国際法違反と考えています。
しかしこの時、チャーチルの
悪だくみに、もしも乗らなければ
結果は違っていたとも思います。
そして 第一次世界大戦後
ウィンストン チャーチルは最も不得意な
国家の財政再建に参加させられた。
その時に 海の向こうに
強力な挑戦者があらわれていた。
巨大な債権国になりあがっていた
アメリカ合衆国です。
この時既にアメリカ合衆国は
米ドルを国際基準通貨にしようと
様々な画策をはじめていた。
当時の国際基準・基軸通貨は
イギリスの スターリングポンドでした。
これだけは イギリスも絶対に譲れない。
そこで 金本位 復旧のタイミングを
アメリカに、ではなく
尽くイギリスに同調するように
日本にも無理やり押し付けてきた。
失効直前の日英同盟を使ってね。
これを見たアメリカの
日本敵視は最早ゆるがなくなった。
対日戦争計画「オレンジプラン」の
作成に極秘裏に着手していました。
太平洋戦争は 、大正時代に
ひっそりと始まっていたんですよ。
世紀の大悪党 ウィンストン チャーチルは
日本が戦争に巻き込まれたのは
自分のせいでもあることを
よく分かっていた。
だから 第二次世界大戦中
度々開催された3 巨頭会談で
「 日本のサムライにも
ボチボチ引き際を 与えたらどうか? 」
と持ちかけたのに対し
ルーズベルトは
「 だまし討ちをやった 彼らに
のこされるべき 面目などない 」
そして スターリンは
「 まず 日本全土を占領した上で
決めれば良い事ではないか? 」
なんだか 信長 秀吉 家康
ホトトギスの歌みたいなハナシで。
今上天皇陛下が、戦後の
第2次チャーチル内閣の頃、
英国を公式訪問された際
まだイギリス国内与論に強烈に残っていた
日本への反感を抑えるべく手をつくし
「我々には過去しかないが
この若きプリンスには未来がある」と
スピーチしてみせたという。
晩年の父親 ランドルフが
湯治におとずれたという箱根温泉に
死ぬまで行きたがっていたといいます。