「父ちゃん、勇次が来たよ」
私は幼い頃から勇次の名前を呼び捨てにしていたが、それは父の影響もあったのだと思う。
「なんだ、俊樹いたのか…」
父に用事があって来た勇次が、まるで父の存在を無視するかのように私を睨み付けて来た。勇次の強さはその腕っ節だけでなく、その鋭い眼付きにもあった。街のチンピラ程度ならば、手を上げる必要もなく、その威圧的な眼光だけで相手を震え上がらせるほどの威力を持っていた。
私は勇次の姿を見ると、つい口ずさみたくなる歌があった。「唐獅子牡丹」高倉建主演の任侠映画で主題歌も高倉建が歌っていた。
――義理と人情を 秤(はかり)にかけりゃ 義理が重たい 男の世界 幼なじみの 観音様にゃ 俺の心は お見通し 背中(せな)で吠えてる 唐獅子牡丹――。
この曲を僅か10歳の幼い少年が、高倉建の真似をしながら焼酎の空瓶をマイク替わりにして歌うのである。この歌の内容を理解していたとは思わないが、勇次の背中から腕にかけて彫られていた入れ墨がまさに唐獅子牡丹だった。
「お前、父ちゃんを殴ったんだって?」
私はその場に立ち尽くしたまま無言で俯いてしまった。俯いた丁度その足元には、畳に染み付いた血痕が生々しく昨日の出来事を物語っていた。
父が昨日の事を勇次に話したのは間違いなかったが、私に殴られたと話したのにはそれなりに理由があったのかも知れない。もし仮に私ではなく相手が何処かのチンピラだと話していれば気性の荒い勇次の事なので、その輩を探し出して半殺しにしてしまうだろう。勇次の性格を知り尽くしている父の判断だったのか、それとも成長した息子を自慢したかっただけなのか、父と勇次との間でどんな会話が交わされたのか、全く知る由もなかった。
親子喧嘩はどんな家庭にもあるだろうが、暴力沙汰となれば一歩間違えると殺人事件に発展してしまう恐れがある。バット殺人事件などはその典型だ。息子に殴られ怪我を負った父親が、その事を正直に他人に話すものだろうか?場合によっては子どもを庇ったり、出来るだけ隠しておきたいと思うような気がする。
父がこれまで誰かに殴られ怪我をしたと言う話は聞いた事もなかったし、ヤクザ同士の喧嘩に巻き込まれた後の姿を何度か見て来たが、持ち出した木刀が折れた程度で、父自身は返り血すら浴びていなかった。だからそれが本当だとすれば、私の放った拳が父にとってみれば記念すべき初めての一発だったのかも知れない。
私の前で仁王立ちになった勇次が、ドスの利いた声で言った。
「自分の親を殴る息子がどこにいるか!謝ったのか?」
それは私に非があるような言い方であったが、自分に問いかけてみても答えが出て来なかった。
「謝ってないよ…」
幼い頃に返ったような子どもの声で私は小さく答えた。
「まあまあ勇次、もういいからさ…」
間髪入れず、父の声が宥めるように言った。どんな理由があるにせよ、やはり殴った私が悪かったのだと思う。だから勇次はそれを父の代わりに咎めようとしたのだろう。それにしても、めっぽう喧嘩も強く散々相手を殴って来たであろう勇次に言われたのにはどことなく抵抗感があった。
極道の世界を理解しようなどと思ってもいなかったが、子どもの頃からずっと見て来た父や勇次たちの姿が眼に焼き付いて忘れる事は出来なかった。
「それで兄貴、例の仕事の話なんだけど、車の手配がついたので」
「おお、そうか、じゃあ後は調理師だな」
「俺がやってもいいけど、即席ラーメンって訳にはいかんわな」
笑いながら冗談半分に言う父だったが、父の作るラーメンが結構美味い事を私はよく知っていた。
「調理師の方は何とか俺の方で探してみるから」
「じゃあ、そっちの方はよろしく頼みます」
二人の会話を聞いていて、どことなく違和感があったので訊いてみた。
「父ちゃん、本当にラーメン屋やるの?」
「ああ、やるよ。車で移動式のな」
「へぇー、なんだか想像付かないよ」
息子にとってみればその疑問は当然だった。これまでの父の職歴を振り返れば、警察官以外は全て土建業だったからである。但し、職に就いていた期間は限定的なものであり、無職時代の方が遥かに長かった。
帰り際、勇次が私に言った。
「俊樹、ちょっと手を見せてみな」
「はぁ?…」何の事かさっぱり分からなかったが、取り敢えず右手を勇次の前に差し出した。
「手を握ってみな」
その握った手を見つつ触って来た。大きな勇次のゴツゴツした手の中に私の手はすっぽり収まって行く。
「云々」と頷きながら「いい拳してるわ、これなら一発でノックアウトも仕方ないか」
「ふふっ」と笑みを浮かべ納得したように「気を付けて帰れよ」と私を送り出してくれた。私はその勇次の言葉が嬉しくて仕方なかった。それも当然だろう、藤枝で一番喧嘩の強い勇次に認められたのだから…。
清水の訓練所には約1年半いたが、職員の計らいで就職先が決まり9月から静岡市沓谷にある「中央工芸静岡支社」で働き始めた。若干16歳の少年が社会人として新たな一歩を踏み出した場所であった。
父から連絡があったのは、働き始めてから9ヶ月後の事で、私は17歳になっていた。
「しずおかー、しずおかー、お降りの際はお忘れ物のないようご注意願います。次の停車駅は島田ー」
駅員のアナウンスが構内に響き渡っていた。約2年振りに見る静岡の街並みは殆ど変わっておらず、真新しい物と言えば登呂遺跡で有名な登呂博物館がオープンしたくらいのものだった。
「やれやれ、やっと着いたか…」独り言を呟きながら座席を立つ。止まり木から果てしなく広がる空に向かって飛び立つ鳥のように、広げた両手は翼の如く掴んだ自由を満喫しているかのようだった。
(続く…)。
