コック長、モルヒネの時間です。 | プールサイドの人魚姫

プールサイドの人魚姫

うつ病回復のきっかけとなった詩集出版、うつ病、不登校、いじめ、引きこもり、虐待などを経験した著者が
迷える人達に心のメッセージを贈る、言葉のかけらを拾い集めてください。


プールサイドの人魚姫-癌

映画「象の背中」は余命半年を宣告された肺癌のサラリーマンの余命の生き方を描いた作品だった。

「余命一ヶ月の花嫁」は乳癌を患ったうら若き女性の実話。

日本人の死因トップは「がん」続いて「心臓病」「脳卒中」と続く。

ひと昔前までは心臓病や脳卒中と言った「循環器系」が死因の大半を占めていたのだが、時代背景の移り変わりと共に圧倒的に増え始めた病気が、現在最も人を死の恐怖に陥れる「癌」である。

医者から「癌です」と病名を告げられた時から、おそらく初めて「死」を強く意識するようになる。

死に最も近い病気と言われる「癌」に対しては現在の先進医療を持ってしても、根治は不可能に近い。

なぜ、これほど癌を患う人間が増えたのか、その背景には皮肉なことに、高度経済成長が齎した日本人の環境の変化が大きく影響している。

米を主食としたバランスの良い「和食」は、島国である日本の風土に培われた「医食同源」である。

偏った食事を長く続けていると、人間の内臓は徐々に腐り始めて行く。

つまり健康な細胞が病気になり死滅して行く訳だ。

そしてがん細胞が誕生する。

医療水準の進化により、これまでは原因の分からない「奇病」とされていたものが、「癌」だったと分かり、生活習慣を改めることが「癌」の発病を防ぐ唯一の治療とされている。

遺伝による発病も多いが、それらとは全く関係なく発病する癌患者も多い。

今年の5月19日、わたしの友人が「食道癌」により他界した。

彼の死を知ったのは二日前の夜だった。

養護学校の同級生であり、友人としても30年以上の付き合いで、親友と呼んでもよい。

今年の2月15日に、わたしは彼に電話をしている。

わたしは心不全のため、三井記念病院に入院し治療が終わり、退院したばかりだった。

「もしもし、修、お前元気かよ…」

「何回電話しても留守電で繋がらないから、心配していたんだぞ」

「おお、神戸か、悪い悪い…」

彼の声を聞いたのは10年振りと、長い間音信普通になっていたが、年賀状は毎年出していた。

しかし、彼の方から返事が届いたことは一度もなかった。

「俺、実はさぁ食道癌でな、仕事辞めたのさ…」

「はぁ?…」

全く予期せぬ言葉が彼の口から零れ、わたしは言葉を失った。

「いつから…」

「去年の10月に検査で分かったんだ」

「入院は…?」

「通院して治療を受けている」

「放射線治療を受ける時だけ一週間入院するんだ」

「俺も心臓が悪くなって、去年死にかけたんだよ…」

「つい三日前まで入院していたよ…」

「本当か…」

「おい、もう何年も会っていないんだから、近い内に会おうぜ…」

「まだ日吉のアパートにいるんだろ?」

「ああ、変わってないよ」

「嫁さんは?」

「まだ一人だよ、彼女はいたけどな」

いつだったか、彼の彼女が「くも膜下出血」で倒れ、意識不明のまま病院に運ばれたが、二度と息をしなかった話を聞いたことがあった。

彼女がもし生きていれば、結婚したのだろうと思った。

「俺、今高砂に住んでいるんだけど、日吉までそんな時間かからんから、会おうぜ」

「おお、いいよ、またその時に電話くれ…」

この電話が最後になるとは思わなかった。

皆さんもご存知の通り、わたしは心不全をぶり返し、今年2回目の入院をした。

そして、離婚、引越し等を経て現在に至るが、新居のアパート生活も落ち着き始めた頃に、彼の携帯に何度も連絡を取ってみたが常に留守電状態であり、彼と話すことは出来なかった。

そしてとうとうその携帯が「現在使われておりません」になったのである。

この時わたしは非常に嫌な予感に襲われたが、スポーツマンタイプのあいつが、そんな簡単にくたばるとは思っていなかった。

彼の安否を確認するため、彼が勤めていた「パブ」に連絡を取った。

そうして彼の死を知ったのである。

余命三ヶ月…。

10月8日に病院へ行った時点で、彼の寿命は余命三ヶ月だったのである。

もちろん、その事は本人には知らせず、清水にある実家の家族たちだけが知っていることだったが、その家族もいきなり医者から余命について聞かされたこともあり、現実として受け止めることが出来なかったそうである。

しかし、彼はそれより長く生きた。

4ヶ月も長く生き、頑張った…。

検査を受け、食道癌だと分かった時、既に癌細胞は身体中の臓器に転移しており、治療の施しようがなかったそうである。

彼は喘息児で、その治療のために養護学校に清水から転校して来た。

頭は悪かったが、スポーツ万能で、わたしたちに「バク転」をよく見せてくれた。

運動神経の良さを買われ、養護学校では初めて「ハイジャン」に挑戦し、その練習風景を羨望の眼差しで見つめていたものだ。

養護学校を卒業すると、わたしは清水の訓練所へ、彼は静岡市内の繁華街にある日本料理専門店の「松竹」に就職し、板前の修業に励んだ。

日本料理をマスターした彼は、その後職を転々と変えつつ自分の料理人に対する腕を磨くため、様々なジャンルの料理を自分のものにして行った。

和食、洋食、中華とマスターしていき、22歳で中華料理店を構えたのである。

しかし、彼の弱点は「人の良さ」だった。

それが裏目に出てしまい、最悪の結果を辿ることとなる。

その頃わたしは最初の結婚に躓き、離婚したばかりであった。

身も心も荒んでおり、一日も早く静岡から逃げ出したいと思っていた。

静岡市立病院には、わずか一歳の息子が入院しており、大きな胸の手術を控えていた。その時のリーダーだった医者が、わたしの心臓に初めてメスを入れた「秋山先生」だったのである。

親の因果が子に報い…とはこの事だと思った。

その息子が本当の父親探しを始めて、わたしにメールをくれてからもう一年になる。

わたしは、妻と子どもに永遠の別れを告げ、横浜へと向かった。

勤めていた会社「北欧貿易」が支社を引き払い、本社のある横浜の関内へ戻ることになったので、支店長から「会社を辞めるかこのまま本社に来るかどしらかにしろ」と言われ、静岡を離れたい気持ちが強かったため、横浜へ行く決心をしたのだが、これが大きな間違いの基でもあった。

最初は社宅のある磯子のマンションに住んだが、半年ほどしてから会社が倒産。

警察署から捜査の手が入ったのである。

この会社は「金取引」で有名になった「豊田商事」と同類であり客を金取引で騙し、金銭を巻き上げる詐欺集団だったのである。

この話しについては機会があれば何れ話そうと思う。

会社倒産後、わたしは製版会社に就職、自分本来の技術を活かす仕事に就く事が出来た。

伊勢崎町の近くにアパートを借り、出直しを始めようとしていた時だった。

夜9時頃だった。

残業中で遅くなりそうな気配のしている時に、会社の電話が鳴った。

「かんべー、電話」

「あっ、はい…」

一体誰だろうと思った。殆どの人にこの会社にいることは内緒にしていたので、電話は意外だった。

「おーい、かんべー、俺…」

「修?お前か?久しぶりじゃん」

「いま、新横浜の駅にいるんだけど、ちょっと来てくれよ」

「まだ、仕事中だぞ、直ぐには行けないけど、ちょっと待っててくれ」

社長に友人が訪ねてきた旨のことを伝え、早速、新横浜の駅に向かった。

わたしの前に現れた彼は上下を白い体操服で包み、背中に大きなリュックサックを抱えていた。

いつものようにニコニコと笑顔を見せながら、

「暫く、居候させてくれ…」と、こう切り出して来たのである。

清水で何があったかは知らないし、深く追求もしなかったが、おおよその見当はついていた。

彼はもう二度と清水には帰らない積もりでいたようだ。

帰らないと言うより、帰ることが出来なくなってしまったのである。

そして、真っ先に彼の仕事先を見つけることにした。

それが、「パブ」だったのである。

暫く彼と一緒の生活が始まったが、パブは午後5時から早朝5時までが営業だったので、わたしとは全く時間が合わず、すれ違いだった。

そして自分でアパートを借り、日吉に移り住んだのである。

21年前の結婚式の時、友人代表として「祝辞」を読んでくれた彼。

そのビデオに映った彼の姿が、こんなに早く最後の姿になってしまうとは…。

彼は自分が癌で死ぬと思っていただろうか?

もしそうであるならば、「遺言」くらいは残しているだろう。

自分が死んだら友人たちに連絡して欲しいくらいの事は残すだろう。

もし、彼が余命三ヶ月を知っていたら、きっとまた違った生き方をしたかも知れない。

わたしも彼に会うことが出来たかも知れない。

2月にわたしと交わした「会う」約束を持ったまま、彼は天国に逝ってしまった。

わたしの心からまた一つ大事な星が消えて行った。