イルカを食べた少年。 | プールサイドの人魚姫

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うつ病回復のきっかけとなった詩集出版、うつ病、不登校、いじめ、引きこもり、虐待などを経験した著者が
迷える人達に心のメッセージを贈る、言葉のかけらを拾い集めてください。


イルカ
わたしの出身地である静岡県は海と山の幸に恵まれた温暖な土地である。その風土からか、県民の人柄もどこかのんびりとした懐の広い人が多い。家出人が集まる場所として暮らし易いと言われており、尋ね人の捜索で行き詰ったら静岡に眼を向けよという噂があるほどだ。
海は駿河湾を眺望し、背中に富士山を抱き横に長く伸びた日本地図の中心に位置しており、関東や関西にも近く静岡の立地条件を利用して大企業の中継地点にもなっている。
食べ物は特に海の幸が非常に豊富である。わたしが幼い頃過ごした藤枝市の隣が焼津市、鮪の漁獲量が日本一で、藤枝から車で数分足らず。港町は魚特有の匂いで活気を帯びている。そしてもうひとつが清水の次郎長でお馴染みの清水港。日本三大美港の一角を担っている。
静岡を一言で表せば「お茶所」である。東海道線や東名高速を走ると茶畑が印象的。古い話で恐縮だが、1968年2月に起こった金嬉老事件の行く末をTVにかじりついて見ていた記憶がある。事件の舞台となったのは最も美味しいお茶が採れる場所、温泉地としても有名な川根町にある寸又峡温泉。この事件に関して言えば背景に在日コリアン差別問題が重くのしかかっていた。
さてタイトルとなっている「イルカを食べた少年」の本題に入ろう。
この少年はわたしの事である。自分が幼い頃に経験した記事は過去にも幾つかあるが、イルカを食べたのはこの一回限であった。父はご存知の通りアル中でそれが祟って肝硬変になり42歳という若さで他界した。
わたしと過ごした期間は非常に限られていたが、父との思い出が幼少期に凝縮されている。この話もその中のひとつである。酒が切れると手が震えるのはアルコール依存症の典型的な症状。コップ半分でも飲めばたちどころに震えが止まる。しかしその分父の性格は一変する。
わたしにして見れば「きちがい水」だった酒が憎かった。父は毎日のように酒を飲んでいたが、一人で飲む事はなかった。大抵友人が二、三人やって来て外へ飲みに行くか、或いは家で飲むのが常であった。たまに近所の人たちも混ざって飲んだりする時は大いに盛り上がり、愉快な話しで家の中が笑い声で揺れるほどだった。
そして酒といえば肴が出てくる。せんべいやピーナッツ、果物、何処かの小料理屋で飲んでいるのとそう変わらない内容の食べ物がテーブルの上を所狭しと並べられる。刺身もあれば貝も海老も出てくる。普段このような豪華な食材にあり付ける訳もなく、幼いわたしにとっても非常に在り難い時間だった。
そんな中で土鍋の中でグツグツと様々な野菜と一緒に煮込んである見たこともない肉のようなものがあった。「おばさん、これ何?」「これか?これはねイルカの肉だよ」初めて見たイルカの肉、そしてもうひとつ気になる存在があった。「こっちは?」「鯨のへそ」「……」。
わたしは一瞬言葉を失ったが、大人たちが美味しそうに食べているのを見て、この二つのものを口にした。イルカの肉は臭いが強いので野菜などと一緒に煮込んで食べるのがよいらしい。歯ごたえがあり、コリコリとした感触は鶏肉のモモを少し固くした感じであった。鯨のへそと言われている不思議な三角形に近いものは豚のレバーに味が近かった。酒宴が終わりに近づく頃には父はかなり泥酔状態であった。皆が去ってしまい、父と二人だけになるのが非常に恐かったが、ここまで泥酔している時は暴力を振るう力もなく大抵はそのまま眠ってしまうが、必ずある出来事がわたしを待っていた。
テーブルに散らばった皿やコップなどはわたしがいつも片付けていた。横になっている父に布団を被せ、後片付けが漸く終わり時計の針が午後11時を回った頃父の横に滑り込むようにして寝るのだが、父が突然「とし坊、洗面器!」と叫ぶ。ああ、またか…と思いながら、離れにある台所に駆けつけアルマイト製の洗面器を用意するが、時は遅しで畳みの上は父の嘔吐物ですっかり汚れてしまっていた。イルカも鯨も酒も全て胃から吐き出してしまうまで、嘔吐を繰り返す父。そんな姿を幾度となく見てきた。
父が亡くなって30年以上の時が流れたが、イルカと鯨を見る度に忘れられない光景としてあの晩のことを想い出す。イルカの肉はよいとしても何故か鯨のへそが本当なのかいまだに気になって仕方がない。