「トラステ賞」
天使がくれたピアノ 第3楽章
父が出て行ってしまってからの母はとても大変だったと思います。印刷とお得意さまへの配達。毎日夜遅くまで働いていたわ。私はいつもゆりかごの中から母の働く姿を見ていたの。工場の中はとても暑く、夏になるとまるで温室みたいになってね、母は汗をぽたぽた流しながら仕事をしていた。長い黒髪を後ろで束ね、白い肌が印刷のインクで黒く汚れてしまって、折角の美人が台無しだったわ。扇風機がカタカタ音を立てて回っていた。輪転機の回転する音とインクの匂いが充満した工場で私は母の背中を見ながら育ったわ。ある日の事だった。よほど疲れていたんだと思う。母が輪転機のスイッチを切らないまま別の部屋で休んでいたの。私がぐっすり眠っていると思っていたのね。母は朝4時に起きる。眠るのはいつも夜中の2時過ぎ、とにかく一人でこの印刷会社を続けて行くのは大変な苦労があったんだと思う。積もり積もった疲れが睡魔となって母の身体を襲ったの。母が油断したわけじゃない。私は1歳を過ぎていたからはいはいくらいはできたのよ。空になったゆりかごが風を切るように揺れていた。輪転機が私を誘うように回転を繰り返していたの。興味深々な私、誘う回転木馬だった。私の小さな手が伸びる…。私の泣き声で飛び起きた母が私の姿を見て呆然としていたの。