19年前の12月2日午前5時半ごろ

夫くんは旅立った。

35歳だった。

 

早いなぁ。

あっという間の19年。

 

人の死に際と言うのを見たのは

夫くんが初めてだった。

 

肺がんの末期ガンで

5月に告知され

その年の12月に旅立った。

 

両肺転移。

大細胞ガン。

右肺野部分に6センチ台の腫瘍が原発だ。

 

肺の中心などにガンが出来たりすると

早い段階から

咳が止まらなかったり、血痰が出たりと

自覚症状もあるのだが

肺野という部分は

鎖骨の腕側の

もっとも自覚症状の出にくい場所

これもアンラッキーだった。

 

ガン、といっても

いろんな種類があり

薬が効きやすいタイプ

予後が良いタイプとあるのだが

 

大細胞ガンは

どちらもあまりよろしくないタイプ。

 

更に、両肺転移で

外科的手術は出来ず

(19年前の話なので現在は出来るかもしれない)

 

自分の体に凄く自信がある人で

それもあかんかった。

 

私は小さい頃から

病院通いが多く

自分の体に人一倍自信がない。

自分が倒れたら

周りが迷惑になったり

仮に周りが迷惑と思っていなくても

申し訳なく感じる。

仕事を増やしてしまうこともわかっている。

小学、中学、高校と

私が倒れたり入院したら

母は仕事を休まなくてはならなかったし

家の事も出来なくなる。

そうすれば、他の家族にもしわ寄せがいく。

 

なので

倒れる前に、倒れないように

どんな些細な事でも

医者へとりあえず行く癖がついている。

無病息災ではなく

一病息災と思っている。

 

夫くんはまさに真逆だった。

高校時代は、自転車競技で

国体3位になったくらい

身体に自信があった人。

 

薬や病院をとにかく毛嫌いし

 

気合で治る!

 

が、モットーだった。

私が二十歳、夫クンが二十一歳の時から

同棲し、28歳で結婚したのだが

その中で

夫クンが24歳のとき

髄膜炎をしたことがあった。

 

かなりの頭痛だったと思うが

ギリギリまで病院へ行かず

さすがに耐えきれず

救急外来へ夜中連れて行くと

即入院。

 

翌日、担当医から

「よくあの状態で我慢出来てましたね・・」

 

その時、キツク言うたんやけどなぁ

 

変なとこで、根性みせんといて!

って。

今回は運良く後遺症も残らんけど

命かけてまで我慢せんといてよ、って。

 

でも、性格っていうのは

直らないもので

 

ガンが発症したとき

自覚症状はわかりずらいというても

何かしらあったはず。

出張も多かったので

私もしっかり見てあげられなかったのは

悔いが残る。

仕事の悩みなどは

私に相談してくることはあっても

身体に関しては一切何も言わない人で

しつこく聞いても

「ぜんぜん大丈夫」が定型文。

 

 

精密検査の結果の日。

私は夫くんと一緒に病院へ行っていない。

親族の誰かと一緒にと言われていたのだが。

 

その日は丁度、息子の幼稚園の遠足の日で

母親か父親が一緒に行かなくてはならず

遠足を休ませるつもりでいたが

 

「お前は遠足に行ってくれ。オヤジかお袋と一緒に病院へ行く」

 

遠足に行って、他のママさんと

会話出来るような状態じゃないけど

息子第一の夫くんの要望。

 

楽しい遠足に水をさしてはいけないし

ましてや、もしかしたら

ガンじゃないかもしれないし、、と

自分を奮いたたせて

そうそう、ガンじゃないない、と。

遠足には行った。

 

遠足を終えて帰宅すると

リビングに泣きはらした義父が居て

それですべてわかった。

息子くんはなにもわからないので

 

「じーちゃん、お目目まっかっかだよ?痛いん?」

 

もう本当にあの日は

鮮明に覚えてる。

 

夫くんは寝室にこもったままで

 

義父が機転をきかせ

息子を連れて家に戻ってくれた。

 

そこから7か月間

自宅療養

今でこそ

緩和ケアというものが

どの病院にもあるが

当時はなかなかまだ浸透していなくて

 

肉体的にも精神的にも追い詰められていく夫クンを

どうにか励ましたくて

夫くんが尊敬していた

坂井三郎先生に手紙を書いた。

「大空のサムライ」という映画が有名だが

ゼロ戦パイロットの方で

夫くんは坂井先生の書籍や資料を集め

生き様を本当に尊敬していた。

 

その坂井先生から

まさかの連絡があり

電話口で緊張しつつも高揚しながら話す夫くんに

生気が戻った。

 

病院では、何もすることがないと言われたが

息子の為にも何か生きる道を模索したい!

そう願う夫クンの為に

坂井先生は東京や群馬の医師を紹介してくださり

何かにつけて

電話で話をし勇気づけてくださった。

 

「ガンになったのは嫌だけど、ガンになったから坂井先生に会えたんだよなぁ」

「憧れの人から、名前呼ばれるんだぞ?俺。たまらんー」

 

本当に生きる力になってくださっていた。

 

病魔は止まる事をしてくれなかったけど

夫くんの闘病を通じて

いろんな事を学んだ。

 

肺ガンというのは

痛みも強いが

何より辛いのは、呼吸苦。

息を吸っても吸っても、息苦しいつらさ。

当然、酸素はしているが、呼吸苦は止まらない。

 

モルヒネで痛みは飛ばせるが

呼吸苦は、、、飛ばせない。

なので、呼吸苦を忘れさせるには

かなりの強いモルヒネになる。

強いモルヒネをうてば

意識はなくなる。

 

が、、夫くんは

私と話が出来なくなるのという理由で

強いモルヒネを拒んだ。

自分の今の状態などが伝えられることを望んだ。

 

痛みは取れるが呼吸苦は残ったまま。

 

それとオシッコは管を通していたが

便は絶対にベッドでは嫌だ!と言い張り

簡易トイレをベッド脇に置いてあった。

その状態でベッドから降りて・・・は

普通では考えられない事。

担当の医師も

強靭ですね・・と。

 

彼のプライドなのかもしれない、と

本当は、動いたり

座って気張ったりは

負担になるからやめさせたかったけど

 

オムツ、、は嫌だ。という夫くんの

 

自尊心まで踏みにじれなかった。

食事なんてまともにとってなくても

便意はあった。

 

ただ、この日、12月2日の便意は

そういうものではなかった。

 

人間、、死ぬ間際になると

便が出てくる。

 

私は何度か入院をしている。

仲良くなったおばちゃんやおじちゃんが

亡くなったりもした。

そんなとき、元看護師のおばちゃんが

「危篤になって、看護師さんがオムツの中を見に来るのは

便が出てくると、もうそろそろお迎えがくるということを

医師に伝えるためなんだよ」

 

そう聞いたことがあった。

 

夫くんは

その最後の便を

 

「うんこ、したくなったから、むこう行っとって」と

かすれた声で私に言い

いうても、カーテンをするだけで、横にいたのだが

 

3分ほどして

立ち上がったのが見えたので

カーテンをあけたら

そのままベッドに倒れ込み

息を

吸って・・・吐いて・・・吸って・・・

 

そこで止まった。

 

何度も、夫くんの体を揺さぶりながら

「息、吐いて!」と叫んだがダメだった。

 

その後は、医師がきて

蘇生処置をして、、となったんだが

はっきりと覚えてなくて

 

ただ、夫くんの兄が

「先生、、もういいです。」と

蘇生を止めたのは覚えてる。

 

最後の言葉は

「うんこしたい」

 

どんなギャグかと。

ありがとうでも、愛してるでも、ないの。

 

うんこしたい、なの。

 

よく、仏壇に向かって

最後の言葉が、うんこしたい、っていうのは

もうちょっと、どうにかならんかったん?( ̄ー ̄;

 

と、笑わせてもらってるからいいけどもね。

 

日常、すっぱりと忘れていることなんだけど

12月2日が毎年来るたび

この一連の流れが

鮮明によみがえる。

 

で、また3日から

すっぱり記憶の奥にいくんだなぁ。

 

不思議。

 

これが人間の脳と他の動物の違いなんだろうね。

四六時中、この鮮明な記憶が残ったままでは

心が持たない。

 

でも、上手にコントロールしてくれる脳みそ。

素晴らしい。

 

まぁ・・・

亡くなってからも

ちょいちょい自分アピールをしてきてる夫くん( ̄▽ ̄)

何度かこのブログでも書きましたが

息子くんは小学低学年まで「見えて」たらしいし

 

亡くなって、四十九日前のことだけど

義妹の携帯に

夫くんから着信があったり。

ベルがなると、登録してある名前の番号は

ディスプレイに表示される。

で、、ベルが鳴ったので見たら

夫くんの名前が出て

「えええ!!!」と思ってたら直ぐに切れ

着信履歴を見たら、履歴が無かったというね( ̄ー ̄;

 

聞き間違いとかじゃないし!

真昼間で目もガンガン覚めてるし!

 

と、興奮して、義妹は直ぐに私に電話してきてた。

 

世の中いろんな不思議な事があるので

たぶん夫くんがかけたんだろう、という事で落ち着いた。

 

これ書いてる後ろで

 

俺の悪い事、かくなよ!と

見張ってる気がしてならん 笑