さいしょに見たときから。

『聖なる自転車操業』は、わたしからすれば、ひとつの英雄伝だった。

文字どおり、心酔していた。 と言ってよい。

 

でも、彼女が風のように去ってしまった今。

あえて、まったく別の見方をするなら、このように、言える。

 

『彼女は もはや常人ではなく。ふつうの人間のふつうのルールは、一切通用しない。』

『お金に関していうなら、彼女は、たしかに、多額のお金を動かせるようになったのかもしれないが、それでも根本的に、なにかが欠けている。 常人ならば、かならず持っているはずの、お金に対する○○が、彼女には、まったくない―――。』

。。。

 

 

 

 

この○○には、なにを 入れたら良いだろう?

お金に対する 敬意、畏怖、称賛、媚態。満足、不満。敵意。憎悪。陶酔、心酔、絶頂感。

―――すべてだ!!

お金に対する感情がそもそも欠落している。

そのように言ってしまっても、良いかもしれない―――。

 

もっと具体的な話に置き換えると。

彼女は自分が得たお金を、自分自身の業績として、報償として、地位として、身分として扱うセンスが、完全に欠落している。

彼女は、わりと手ひどい境遇に生まれてきて、かなりの苦労もさせられた。そのことを隠そうともせず語っているけど、事実としての金銭状態の変遷とは裏腹に

ビンボーな私が、引き寄せの法則ひとつで、大金持ちに!! というストーリーは、彼女の世界観のなかには、まったく含まれてはいない ことが、わかる。

 

 

 

 

そうなのだ。

たとえ億のお金を動かしていようと。

根本的な意味において、彼女はお金に そもそも関心を持っていないし、だからこそ、得ているお金を根拠にして 自分自身を格付けする、というセンスも、ない。

であれば 当然、個人としての資産を築きたいとか豪邸を建てたいとかもないし、会社を大きくしたい、という野心もない。

あまりにも鮮やかな生き様に、思わず心を奪われてしまうが。この子、お金儲けのセンス、皆無だ―――。

 

 

 

 

 

 

 

 

『世界は自分で創る』 は、もちろん、わたしも、愛読していた。だからこそ、同じように愛読していた人たちに、きいてみたい。

ほんとうに、だれも、気づかなかったのか?―――と。

 

たとえば、10月に縄文祭というイベントがあったよね。

イベント当日までの途中経過は、ぜんぶブログにも掲載され、ある時点で、テレビ局の名前が出てきた。どうやか某テレビ局をスポンサーにつけることに成功した模様。原ブログでは、テレビ局名も、実名で掲載されていた。でもまあ、

『世界は自分で創る』は、すでに削除されてしまっているから、テレビに疎いわたしとしては、局名は「わすれた」ということに、しよう。

で、今回は テレビ局というビッグネームをスポンサーにつけられたし、資金繰りは安泰なのかな、と思いながら、日々のブログを読みすすめていくと。

急に、こうなる。

 

9月13日は運命の日。

この日までに、テレビ局に請求された金額を納入できなければ、テレビ局は撤退、イベントは中止になってしまう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

???

 

 

 

 

 

 

 

 

 

えっ?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

―――。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

正直に言って。『世界は自分で創る』を読んでいたあなたに、ぜひ聞きたい。

この話、おかしいと、思わなかった?

なんの疑問も感じなかっただろうか?

それとも、一種のドキュメンタリーとして、ドラマチックな部分にだけ目を向け、ハラハラドキドキしながらたのしんでいただけなのだろうか??

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ここは、正直に言いたい。

わたしだったら、テレビ局に、お金を払わせる。

その条件でなかったら、やらない。

 

後からわかったこととして、テレビ局の名が登場したのは、スポンサーとして、ではなく、あくまでプロのテレビマンにイベントを手がけてもらうため、だった。

つまり、ありていにいえば、テレビ局を、お金を払って、雇っただけ。

しかも、組織としてのテレビ局と関係を持ったのではなく、壱岐島の女将の紹介で、大物プロデューサー?と直接、引き合わせてもらうことから、話が始まったのだという。

だとしたら。条件を交渉する余地なんて、いくらでも、あるよね??

その大物プロデューサー? が、テレビ局としてではなく、個人名義で参加してくれれば、支払うべき報酬は、そう異常な金額には ならない。

逆に言って、あくまでテレビ局名義で入ってもらうのなら。

思い出してほしい。縄文祭当日の模様は、そこのテレビ局の番組で、“潜伏”と称して放映されたんだよね?

まあ。それは、当然のことではあるのだが。

 

だとしたら、縄文祭の放映権を、テレビ局に売る。イベント後にパッケージ化(DVD化)して販売する権利なども合わせて買い取ってもらって、そのお金をイベント運営資金に充てる。

 

わたしだったら、それ以外には考えられないし、その話に テレビ局が乗ってこないなら、そもそも契約する余地はない。

 

 

 

 

 

 

 

 

おわかりだろうか?

Happyちゃん、あのテレビ局が!!と大騒ぎしていたものの、もっとも単純に言えば、テレビ局に有料で仕事を発注した、というだけの話だし。

もっとあからさまな事実を指摘すれば、

テレビ局という“権威”にすっかり舞いあがってしまった彼女は、テレビ局からバカ高い金額を吹っ掛けられ、みごとに喰い物にされてしまいました。

という話。 その結果、縄文祭のチケットは、ちょっとありえないセレブ料金に…。

そのバカ高いチケット代を負担させられるのは、いつだって、もちろん末端のファンたちです♥

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Happyちゃんは、なぜここまで成功してこれたのか。

それは、エイブラハムが言うところの、源/内なる存在にのみ忠実に生きる、源/内なる存在の導きにのみ従う、というありかたを徹頭徹尾、貫徹させてきたから。

そうすることによって。

『お金には、まったく、関心がない。』

という ありかたが、まったくぶれなかったから。

 

ただし。

お金にまったく関心のない彼女が、なのにビジネスなど展開していて、『お金に関心ありまくり』の人々に囲まれて仕事していれば、その人たちに、“食い物にされる”ことは、避けられません。

その点に関して言えば、そこには、何の奇跡もありません。

 

とはいえ。

金額的に見て、どれほどの大損をさせられていようと、それは、何ら問題では、ありません。

なぜなら。そもそも お金に関心はないのですから!

 

そうして。

どれほどの大損をさせられ、どれほどのアクシデントに見舞われようとも。商品は納入され、イベントは開催され、彼女は次のステージへ行く。

このことは、ひとつの奇跡であると言えます。

お金に関心ありまくりの。欲望にまみれた人たちと仕事をして。その人たちのニーズに応えつつ、彼女自身は「無欲であること」をまったく変えなかったのだから、

はっきり言って、 これは奇跡です!

 

 

奇跡が起こるのは。

言い換えれば、源/内なる存在が、あなたに無条件に味方するのは、あなたが一切、脇目もふらずに、自分の目的だけに向かっているときだけ。

 

モーゼが海を割ることができたのは、

海を割ってみせることが目的ではなかったから。

海にそもそも、関心がなかったから―――。

 

 

読了されたら…

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 引き寄せの法則へ

ブログランキング・にほんブログ村へ

 

辺境の地の零細ブログにつき…

どくしゃになってね…