ほんとうに、これは、奇妙だ。

奇妙な、奇妙な倒錯が、ここにある。

 

もしもあなたが、お金そのものが大好きで、お金を得るのがあなたの目的なら、それは、すこしも難しくはない。

お金というお化け、お金という異常な力を飼い慣らすには、少々、工夫が必要ではあるものの、べつに難しくはないし、不可能でもない。それは、野生の裸馬を飼い慣らすようなものだ。

―――この社会を、自然界に見立てた場合の。

 

そうして。それとはまったく別の話として、きいてほしい。

あなたが「好きなことをする」「やりたいことをやる」のは、可能である。どころか、完全にあなたの自由であるし、はっきりいって、だれの許可もいらない。―――わたしが このブログを書くのに、あなたの許可は必要ないのと同じように。だいいち、高額セミナーの批判を書くのに、セミナー業界の許可など、取れるわけなかろう。笑

 

①お金儲けに精を出すこと

②やりたいことをやること

 

両者はまったく、独立した別の事象だ。

あなたにとってのやりたいことが、お金儲けに精を出すことだった場合、両者は「たまたま」一致するが、それ以上の関連性はなく。だから「両立」とかを考える必要も、べつにない。

 

 

 

話を整理しよう。

もしもあなたが、ほんとうにお金を愛しているなら。

愛するお金のことを知るプロセスは、あなたにとって、大いなる歓びであるはずで。

すると、客観的に見れば、それは艱難辛苦に満ちた七転八倒のプロセスであるかもしれないが、それでもあなたは、愛するお金へと全力で挑み、最終的には、お金をみずからの支配下に置く。(お金というお化けを飼い慣らす。)

かくして、あなたは、

「愛するお金と、ひとつになった」―――というわけだ。

 

お金への想いが、そこまで烈しいものではないなら。

ぜひともこれは「自分の胸に、きいて」みてほしいのだが。

 

お金がほしい、のは事実だけれど。

お金を愛している、とまでは言えない。という場合。

よくよく考えてみてほしい。

そもそもあなた自身の人生において、「お金に挑む」必要があるのか?と。

 

登山家は、愛する山へと挑み。

場合によっては、それで命を落とすが、だからといって、山への愛は、変わらない。

愛しているからこそ、命を懸けて、山へと挑む―――。

 

でね。

ここで大事なことに気づいてほしいんだけど。

「登山を義務づけられている」者など、だれもいないの。

みんな、登りたいから、勝手に登った。

 

お金だって、ほんとうは同じで。

名だたる大金持ち、名だたる実業家たちは、「お金という山」に、挑みたいから、挑んだの。

義務ではなく、情熱によって。

人生を賭け、命を賭けて―――。

 

でさ。

そのレベルでなければ、大成できないよ!

逆に言って、お金への情熱が「ない」としても、それは、まったく、はずかしいことではないし、むしろ、わたしとしては、称賛したいくらいだ。

自分で自分の本音を自覚することができれば、

「たったのそれだけのことで」道は開けるものだから―――。

 

大多数の人間は、お金への情熱など、持ち合わせては いない。

「山のてっぺんは、見晴らしが良いぞ!」と聞いたくらいで、すぐにでも山に登り始めていたら、生命がいくつあっても、足りないぞ!?笑

 

だからね。

『ほんとうにお金を愛する者は、命懸けでお金に挑む』

のだと知ったら、こんどは、その反対側にある事実にも、気づこう。

 

『彼らは、義務ではなく情熱によって、お金へと挑む。』

『言い換えれば、お金に対する、義務などない。義務などないのだ。』

と。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「好きなこと。」

「やりたいこと。」

「ワクワクすること。」

―――話だけなら、もはや常識のようになってしまった。

なのに、そのとおりに 生きられないのは、なぜか?

お金と関連づけるのを、やめられないからだ。

お金があれば、好きなことができる。

好きなことをやって、お金を得たい。

などなど。こうした考えは、あえて言う。ぜんぶ捨てろ。

やりたいことをやる、というのは、単に「やる」だけの話なのだから。

余計なものをリンクさせず、やりたいことを、ただ「やる」のだ。

 

引き寄せの法則について。

あらためて、ここで、念を押しておきたい。

 

手段を介さず、目的のものを、直接望め。

 

 

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