『外界の現実を、放置しておく』ことが、ほんとうにできるようになったとき。 

あなたは、絶対的な自由を、得る。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

いや、この言いかたは、適切ではあるものの、伝わりにくい。もっとわかりやすく言い換えよう。 あなたは、莫大な量のお金、ならぬ、莫大な量の「自由」を手に入れて、それを「自由に」使うことが、できるのだ。

 

『莫大な量のお金を、自由に使う』みたいに、『莫大な量の「自由」を、自由に使う』ように、なれるのだ。

そうは言っても、ここでいう「自由」とは、実際になにを意味するのか、あなた自身が体験してみるまで、その価値を理解するのは、難しいかもしれないが―――。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

いままで。『外界こそが現実である』と信じていたあなたは、みずからの思考と感情を「外界へと投入」し、言ってみれば、

「自分で自分の人生を、持ち運んで」いた。

ライフプランニング、とか、人生設計、とかの言葉が、ふつうに適用していることから見ても、多くの人にとって、人生とは「みずから持ち運ぶ」「キャリア/キャリーする」ものだと思われていることが、わかるだろう。

 

それに対して。『外界の現実を放置できる』あなたは、もはや、思考と感情を、「外界へと投入する」ことはなく、そのぶんだけ、あなたの思考と感情は、いわば義務/ノルマから解放され、あなたは、思考と感情において、自由の身になる。

 

いままで。両手と両足ならぬ『思考と感情を、ぜんぶ』使って、自分で自分の人生を、持ち運んでいたのだ。それが、どれほどの重荷、どれほどの苦役であるか、想像できるだろうか??

これほどまでの過酷な負担に、耐え続けることなど、だれにもできない。それにもかかわらず、そのようにするしか方法はないと、だれもが思い込んでいるのだから、まさしく、この世の現実は、地獄である。と、わたしは、躊躇なく、言う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『現実を、変えようと努力しているのに、ぜんぜん変わってくれない』ことに、いままで、あなたは、さんざん苦しめられ、うんと辛い思いをしてきたかもしれない。

『現実を、変えようとしては、いけない。』と教えられたときは、理屈としては理解できても、気持ちのうえでは、なんというか、「あきらめろ」「ムダだ」「やめろ」と言われたような、無力感を感じたかもしれない。

『現実が勝手に変わるまで、待て』とかって。

いつまで?

来世??

―――というように。

 

だが。

こうした話ぜんぶが。

ほんとうは、ぜんぶ、逆なのだ。

ほんとうのほんとうに。

ぜんぶがぜんぶ、話が逆になっていて。

だからこそ、あなたは苦しんでいて。

だからこそ。 この世は、まさしく、地獄である。

 

つまり。

『(外界の)現実を、変えようとしているのに、変えられないから』苦しんでいる、とあなたは言うかもしれないが。ほんとうは、『外界の現実へと、思考と感情を投入させられているから』苦しい。

現実、という名のナニカに、過酷な重税を課せられているようなものだ。

その“税金”を支払くことによって、あなたには“支払い能力”があることは、たしかに証明される。ようするに、あなたが『思考と感情を有している』ことだけは、事実として、明らかになる。

だが。あなたの思考と感情は、本来そのように使うべきものでは、ないのだ―――。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

衝撃の事実を、教えてあげよう。

『(外界の)現実へと、思考と感情を、投入している』あなたは、言い換えれば、両手と両足をぜんぶ使って(思考と感情ぜんぶ使って)『現実を、自力で、持ち運んでいる。』

それに対して。

そんな無意味で無価値で無駄なことはもうやめて。

現実、とかいう重荷は投げ捨てて。

こんどは『両手と両足、ぜんぶ使って、全力疾走』したら、どうなるか??

 

 

 

 

現実、とかいう身勝手な重荷は。

こんどは、あわてて後から追いかけてくるのだ。

「待ってあげる」必要などない。

あなたは、走りたいほうへと走り去り。

それを追う「義務」は、現実のほうにある。

 

現実創造、とは。

本来、このようにして、行う―――。

 

 

 

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