『外界の現実は、放置しておいても、勝手に進行する』というセンスは、一度習得してしまえば、一生使えるし、また、実際に、一生使う。

 

つまり、不本意な現実をうまくスルーするのに、まずはちょうどよいスキルだ、ということになるのだが。それだけではなく。

なにもかも、すべてがうまくいくようになっても、同じように現実は勝手に進行していくだけだし、あなた自身も、同じように、淡々と受け流していく。そうして、そもそも、『外界の現実』というのは、それ以外にどうすることもできない類いのものなのだ。それについて、考えてみてほしい。

 

想像を絶するほどに恵まれた境遇に置かれた者であっても。その境遇を手に入れるための戦略だの努力だの能力だのの話は、かなり皮相的な見方にすぎず、真相を言えば、不可解なほどにすばらしすぎる境遇が、なぜだか知らんが、自分のもとにやってきたから、かまわずそれを受け容れた、というだけの話なのだ。

 

本当の本当をいえば。

『外界の現実』というのは、いつだって、「むこうから、勝手に、やってくる」ものなのだ。そうして、それが気に入ったとしても、気に入らなかったとしても、放っておけば、いずれ、新しいものと入れ換わる―――。

 

言ってみれば、現実とは川の流れのようなものであり、「洪水」とか「氾濫」に相当する事態は、そう簡単には、起こらない。だから、川の水を逐一観察している必要など、まったくないし、さらに言えば、監視していたからといって、洪水や氾濫を防げるわけでもないのだ。

「なにかが、あった」ときには、それに対応して「選択肢を発生」しているはずで、そのなかから妥当なものをテキトーに選べばよいだけだ。

「なにもない」ときには、もちろん、そのまま、なにもない。

川のほとりにいるあなたが、川の水に対して背負うべき責任、果たすべき義務など、どう考えても、なにもない。

そうではないか?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

こうした事実関係を本当に理解できれば、あなたは、

『外界の現実を、逐一監視する』という無意味な徒労から解放され、

『外界の現実に対して、背負うべき義務』という重荷からも解放される。

 

そうして。

『外界の現実に、関心を持たなければならない』という強迫観念(思い込み)から解放されれば、『思考と感情において、本来の座へと帰還する』ことは難しくはないし、とくに何もせずとも、それは、そうなる。『本来の座』すなわち『内界』への帰還―――。

 

あらためて。思い起こして、みてほしい。

『内界には、すべてがある。』のだ。

あなた自身の思考と感情を、それがあるべき本来の場所、すなわち『内界』に置くことができたとき。たったのそれだけのことで、あなたは、無敵だ。

 

そのために必要なのは、

『外界との不必要な結びつきを、切断する』こと。

そのためには、

『外界の現実(つまり実人生)について、きちんと自分で把握していないと、すぐにでも破滅してしまう』かのような錯覚から目覚めること。

じつは、たったの、それだけだ。

 

「現実とは幻想にすぎない。」と看破することと、「現実は、放置しておいても、だいじょうぶ♪」と気づくこと。

両者は、実質的な意味において、まったくの、等価だ。

 

あなたがあなた自身の『内界の力』を行使して、魔法のような現実を創るのに。

高尚な哲学は、べつに、いらない。

単に、『外界』という名の拘束具を破壊して、『現実』という名の無限ループから抜け出せば良いだけなのだ。

 

そうして。あなたが魔法のような『内界の力』を使えるようになったとしても、そんなこととは関係なく、『現実』という名の無限ループは、ある意味では、なにも変わらずに、継続して存在しつづけている。

 

だが。その場所からはすでに抜け出しているあなたは、確信を持って、このように言うのだ。

 

 

 

 

それは、わたしには、関係ない。

 

 

 

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