こちらは、後編。前編は前ページに掲載。
それが。またしても、正解は意外な場所にあるのだ。
言葉で表現してみるなら、だいたい、こんな感じだ。
『自分自身の内界に没頭することによって、外界へと、自分自身を、押し出す』―――。
いかがだろうか。
自分の作品が、どのような評価を受けるか、とか。
相手(受け手)は、どのようなリアクションをするだろう、とか。
そうしたことは、とりあえず、一旦、脇に置いて、忘れて。可能ならば、完全に忘れて。
もっと可能ならば、相手(受け手)が存在していること自体を、完全に忘れて。
もっと可能ならば、それをしている自分自身をも、完全に忘れて。
ただ、表現内容それ自体に、没頭するのだ。
言い換えれば、「媚びる」とは、『外界にいる』赤の他人の動向に意識を奪われながら、片手間で、ついでに、表現活動を行うこと、であり。
「ひとりよがり」とは、『外界にいる』赤の他人に向けて自分自身をアピールすることに意識を奪われながら、同時に、片手間で、表現活動を行うこと、である。
いずれにせよ、『外界にいる』赤の他人に意識を奪われ、あなた自身が『外界へと』引きずり出されてしまっているかぎりは、『内界の力』を使うことは、できない。
だから、意外なようだが、観客/聴衆/受け手/買い手のことは、すべて忘れて。可能なら、それをしている自分自身のことすらも、完全に忘れて。
表現それ自体に、没入すること。それが、『鍵』だ。
歌うこと。描くこと。踊ること。創ること。
それ以外のなにかであっても。場合によっては、会社を経営すること、なども含めて。
特定の表現方法が、あなたにとって、『人生ぜんぶを捧げても良いくらい、大切。』
であるのなら。それが、あなたの『内界』だ。
迷うことは、ない。
やっていけるか。食っていけるか。評価されるか。
そのような『外界の基準』は、ぜんぶ忘れて
―――可能ならば、それをしている自分自身すらも忘れて―――
とにかく、その世界へと、跳び込んでしまえばよいのだ。
難しいことは、なにもない。
『人生ぜんぶを捧げても良いくらい、大切。』な世界に、『人生まること、飛び込む。』だけで良いのだから―――。
具体的なジャンル名が何であれ。
それをしている自分自身すらも忘れて、『表現それ自体へと没入』できるのなら。
じつは、その時点ですでに職業上の適正としては十分であり、それどころか、天性の資質、天賦の才として、じつは、これ以上のものは、ほかにない。
『外界の基準』にもとづく心配事は、すべて、『外界の基準における、成功』を、得なくてはならない、という強迫観念(=思い込み)によって、生じる。
そうした『馬鹿げた思い込み』を外してしまえば、『外界』において必要なのは、単に「生活が破綻しないこと」だけであって、それ以上は、すべて、ただの余剰過剰であること。
つまり、『外界における、成功』など、わざわざ追い求めるには値しないこと。そういったことも、おのずと、わかる。
道徳論ではなく、生命感覚を伴った本音の実感として、はっきりと、わかる。
なぜなら、『表現そのものに没入している』だけで、あなたは、十分に、しあわせだから。
なぜなら、それが、『内界の現実』そのものだから。
そこには、しあわせ以外、なにもないから―――。
『表現そのものに、なる』ことをつうじて、内界の力を引き出すことができるようになると。
身体感覚を伴った生命実感として、はっきりとわかる。ああ、
「これが、すべて、なのだ」―――と。
「これ以外には、なにもないのだ。」―――と。
これ以外には、なにもない。―――そう。『外界には、なにもない』のだ。そのことが、はっきりと、わかってしまうと。『外界の現実』に、いちいち不満を抱くことはなくなり、どうにかして「現実を変えよう」とすることも、なくなる。
現実に何の不満もなく、現実を変えようとも、していない。
そう。これは、よく知られた、願望が実現するための基本条件だ・
願望を実現したい人にとっては、ほとんど達成不可能な「基本条件」が、なぜか、気が付いたら、ぜんぶ、自動的に、達成できていて―――。
願いもしないのに、願いは叶い。
望みもしないのに、望みは満たされ。
『内界のめざめ』最終段階:レベル3へと、あなたは、いつのまにか、ランクアップしている。
ほんとうに、いつのまにか、自動的に―――。
表現すること、そのものへの、没入。
すなわち、内界そのものに、なること。
たったの、それだけの、ことで。
読了されたら…
↓
辺境の地の零細ブログにつき…
↓
