こちらは、後編。前編は前ページに掲載。

 

『外界を切断して、内界だけになること』の効果は、ことのほか、大きい。現実とは、幻想にすぎない、という命題が、聞いた話ではなく本当のこととして実感されるのも、外界を遮断しても、内界で、わたしは、生存できる、生存している、という体験を重ねることに、よってだからだ。

 

ムカシの表現だが、左遷、大病、投獄を経験した男は、将来、大物になる。という話があって。どのくらいムカシかというと、男尊女卑、男性優位が当然の前提だった時代、ということになるのだが。左遷や大病や投獄のような逆境に耐えることで、男として成長できてい、ふつうのサラリーマンでは収まらない大器になれるから、というのが、とりあえずの説明。

なのだけれど、わたしとしては、こんなふうに付け加えたい。

『現実生活が急に暗転することで、いままでと同じように外界の現実に関心を向け続けることが不可能になり、否応なく、自分自身そのものと向き合わざるを得なくなり、それによって、内界の現実にめざめることが、できたから。』

と。

 

言い換えれば、うつ病だったり、引きこもりだったり、非リア充で、友だちいな~い、とかだったりして、外界の現実がイマイチな場合は、そのことを逆手にとって、別の目的のために、活かそう。具体的にいえば、現実味のない、現実とは関係ないことを、たくさん考えよう。妄想しまくり、想像の世界に、生きるのだ。 その妄想/想像が現実化するかどうかは、一切考えなくて良い。 そうではなくて、

『わたしがとくに関心を向けなくても、外界の現実は、勝手に進行する。外界の現実は、わたし自身が直接管理する必要は、とくにない。』

 

このことを実感できるようになること。じつは、たったの、これだけでよいのだ。

「引き寄せ」とかのメソッドを駆使して、なんとか現実を改善しようとしても、あらかた徒労に終わったことと思う。骨折り損のくたびれ儲け、というか、ハイコスト・ノーリターンというやつだ。

それに対して、『どうせノーリターンな現実に対しては、はなからコストを投入しない』という、意外すぎる手法を、提案したい。うまくいかない現実をどうこうしようとしても、現実は強固で、歯が立たない。逆に言えば、完全に放置しておいても、現実は強固だから勝手に進行するのだ。

いかがだろうか?

 

結局、あなた自身の自意識/アイデンティティーが、『外界の現実と、結びついてしまっている』ことが、問題なのだ。

自己価値/自己評価が、『外界の現実における、自分の境遇』と勝手に連動してしまうからこそ、いつまで経っても、苦しみの世界から、抜け出せない。

 

いわゆる『自分の現実は、自分で創った』というのなら。

自作した現実を、どう処分するのも、自分の自由であるはずだ。

だとしたら、不本意な現実を創ってしまったとき、それをどうこうする義務など、べつになく、単に、不要な現実は処分すればいい、ということになる。

どうやって?

―――不必要な関心を向けないことに、よって。

 

『内界のめざめ』の第一段階:レベル1とは。

外界の現実とは、無関係に、独立して存在している自分自身を自覚すること。それがまさしく『内界』、そのものであり、あなた自身の『内界』を大きく育てて、『外界』をはるかに超越できれば、死をも超越できる。そういうわけなので、古来より、宗教家、修行者たちが、目指した場所は、ここだった。

 

とはいえ。厳しい修行が求められているわけでは、まったくない。ムカシとはちがって、思考し感情する(感じる)力は、はるかに大きく育っているから、あとは、ただ、それを『外界から独立させる』ことができれば、良いだけなのだ。

 

瞑想したり、坐禅を組んだりするのは、本来とても良いことだ。

だが、そんな自分を他人たちに向けてアピールしたり、それを自分自身の立ち位置として使うくらいなら、『外界の現実とは関係なしに、思考し感情できる(感じられる)自分自身』に、気づこう。

 

そちらのほうが、言葉の真の意味においてスピリチュアルなのであり、また、引き寄せの法則を駆使して、望みどおりの人生を生きる、とかの話も、

これができてはじめて、現実化する。

 

あなたが、みずからのスピリチュリティを発揮するべき場所は。

外界で、他人に向けて、ではなく。

まずは、内界にいる、自分自身に対して、なのだ。

 

 

 

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