置かれた境遇によって異なるものの、『内界のめざめ』は、大きく分けて、次の3段階を経過する。

 

さいしょの段階では、外界からは独立して存在している自分自身を発見する。会社員である。公務員である。主婦である。無職である。社長である。といった肩書きはすべて、社会生活に適応するための仮面にすぎず、そうした外界での人生という名の演技とは無関係に、『ただ、わたしは、存在しているのだ。』

ということを、あなたは、理解する。

 

まあ、わかりやすく、この段階のことを、『内界のめざめ Lv.1(レベル1)』と、呼ぶことにしようか。レベル1とはいえ、浅い、とか、入門、入り口という意味では、まったくなく、ここでいう3段階とは、あくまで、外界との対応、外界との関係性、外界への影響力についての話。

 

つまり、『内界の現実に、めざめる』ことができた時点で、外界への興味を完全に失ってしまえば、この3段階の分類には意味がない。

言い換えれば、『内界のめざめ』が深まるとともに、外界への関心は減っていくのが普通なのだが、それにもかかわらず、外界に対する影響力は増えてゆく。

今回は、それについての、話。

 

さいしょの時点では、実際に、ひとりきりになることが、必要かもしれない。外界での人間関係から離れることができたときにだけ、あなたは、内界を実感する。

その時点では、いわゆる「瞑想」は、たいへんに価値が高い。

なぜなら「瞑想」とは、見方によれば、「外界を切断して、内界だけになること」そのものだからだ。

 

このブログで、具体的な瞑想法を指導するつもりは、べつに、ない。

スピ系のセミナーやワークショップなどで、集団で瞑想する場合。講師に誘導され、「みんなで」それを行うことによって、「瞑想状態に、入りやすくなる」のは、たしかなのだが。

その一方で、『外界を切断して、内界だけになる』という観点から言うと、効果はあまりない。

つまり、みんなで瞑想している最中に、さっそく、『終わったあとのシェアの時間、感想きあkれたら何を言おう』とか考えているようなら、あなたは、内界ではなく『外界の現実に、どっしり根をおろしている』ことになる。

当のイベント内に、そうした時間がなかったとしても、あなた自身が、「きょうのイベントをブログにアップして、みんなにシェアしよう!」とか考えているなら同じことだ。

禅寺などで、今回の坐禅会のことは他言無用、ネットにアップするのも一切厳禁、というルールだったとしても、あなたは自分の体験を他人に語りつづけている。あなた自身の心のなかで。

 

スピリチュアルが一般にも普及してきたのは、とても良い、とてもすばらしいことであるのは、たしかなのだが。一方で、スピリチュアルがジャンルとして成立し、スピな人、という立ち位置やセルフイメージが存在することによって、本来、内界の現実にめざめるためにあるはずのツールが、すべて、外界での自分の立ち位置を明確にするために使われてしまっている、という逆転も起こっている。

瞑想であれ、坐禅であれ、それは、同じだ。

 

※前編ここまで。 後編は、明日掲載します。

 

 

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