自分の現実は自分で創っている、などという話は、すでに、もう、聞き飽きているのではないだろうか。どんな理不尽な状況に直面しても、「それを創ったのは、自分自身」ということに、されてしまう、困った法則。そうは言っても、想像したことが、そのまま現実になるなんて、なかなか魅力的な話でもあり、だからこそ、「そんなもの嘘だ」と無下にもできない、ホントに、ホントに、困った法則―――。
潜在意識には『なんでも』可能だ、とか。
想像可能なものなら『なんでも』現実化できる、だとか。
とっても魅惑的な雄大な話を、いくらでもきかせてもらうことはできるが、『なんでも』という言葉がそのまま当てはまるくらい、『大それた』現実を実際に創造できた人間が、はたして、どれくらいいるというのだろうか…?
前回:第69話で、不治の病からの『奇跡の生還』という話をとりあげてみたのだが。これは、検証可能な『奇跡』の実例が、難病からの回復くらいしか、ない、ということでもある。
本当に、『なんでも』可能なのだとしたら、そのわりには、あまりにも少ない『奇跡』の実例―――。
どうして、こんなことに、なってしまうのだろうか??
論点を整理してみたい。
まず、真実を言えば、
『内界』が『外界』を創造している(つまり、自分で自分の現実を創造している)のにもかかわらず、見かけ上は、
『外界』が『内界』を創造している(客観的、社会的現実のなかに生まれ落ちた自分は、これからも社会的現実に規定されたとおりに生きてゆくしかない)かのように、見える。
この“幻想”を打ち破るのは、たいへんに難しい。
つぎに、『内界』が『外界』を『創造している』というのなら、本来、力を持っているのは『内界』であり、『外界』には、なんの力もない。
つまり、『内界』こそが創造主であり神であり、『外界』など、ただの被造物、下僕にすぎない。
この関係もまったく誤解されており、なぜか『外界』を神として崇拝してしまう、馬鹿げた倒錯は、いまだ解決/解消/解放されてはいない。
ここまでは、いわゆる“修行”によって、解決可能だ。
だが、次の一点は、どうだろう??
奇跡が起こるための条件、『内界』が持つ、無限の力が本来の姿で存分に発揮されるようにするための条件は、すでに説明したとおり、『内界』と『外界』のリンクが断たれ、『内界』が『外界』から独立し、『外界』に対して無関心になること、なのだった。
しかし、『外界』に無関心なままで、どうして起こった奇跡を認識できるだろう?
それ以前に、そもそも『外界に無関心』なら、奇跡を起こしたい、などと願うこと自体、ありえなくなってしまうはずだ。
あなたは自分が起こした『奇跡』を認識できない。
名も知らぬだれかから差し出された『なにか』として、ただ、それを。体験できるのみ。
しかも、多くの場合、渦中にいるあいだは、それが何であるかは理解できず、『奇跡』などという呼び名がつくのは、すべてが終わってしまった、あとになってから、、、
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