同性愛:すべて遺伝的なもの。同性愛であることを責めるのは、猫が猫であることを責めるようなもの。 | ラエリアン・ムーブメント:"前の”アジア大陸代表のブログ

 

 

Rael Maitreya

 

 

フランス語の短い動画

 

Nobby Raelian 動画訳


セネガルにおける同性愛者への迫害を非難するファトゥ・ディオメ女史


聖週間(Holy Week)にあたり、ベルギーの『プリウレ・サント=マリー』における対話シリーズに招かれたフランス系セネガル人の作家ファトゥ・ディオム女史は、セネガルで最近公布された同性愛者を抑圧する法律について改めて言及しました。
この作家は、セネガル当局による性的少数者への迫害を非難しつつ、同性愛はアフリカの文化には存在しないとする主張を退け、それをとてつもないまやかし」であると断じています。
性の問題について、ファトゥ・ディオム女史はライシテの考え方をモデルとして、各個人の私生活の尊重を訴えています。「他人がベッドの中で何をしているかは私には関係ありません。信仰と同じように、人々の親密な領域は静かにしておくべきだと思います。」
映像提供:YouTube Prieure Sainte Marie
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私にとって、一部のアフリカ諸国で「同性愛は外から来たものであり、私たちの文化ではない、私たちの社会には存在しない」と語られているのは、愚かなことです。それはとてつもないまやかしです。私はそう断言します。それはつまり、その国が人間社会の一部ではないと言っているのと同じです。私は明確に異性愛者です。この点ははっきりさせておきます。
しかし、他人がベッドの中で何をしているかは私には関係ありません。宗教におけるライシテ(国家と宗教の厳格な分離)と同じように……人々が自らの信仰や信じ方、実践の仕方について干渉されずにいられるようにするのと同様に……人間の親密な領域にも同じ配慮がなされるべきだと思います。ところが、宗教が人間狩りのために利用されるとき、それは人類に害を与える行為となるのです。
そもそも同性愛はいつから存在しているのでしょうか?
セネガルには、かつて『goor-jigeen』と呼ばれるものがありました。言葉が存在する以上、その現実も存在します。言葉があるということは、その現実があるということです。『goor-jigeen』とは男性と女性を指します。
これはここで申し上げます、撮影されていることも承知していますし、それを確認できる人もいると分かっていますが、私自身、子供のころセネガルで育つ中で『タンブール』と呼ばれる踊りがありました。そこでは、身だしなみが整い、非常に洗練された男性たちがそれらを取り仕切っていました。誰もがよく知っていたのです、彼らがいわゆるストレートの異性愛者ではないということを。
それにもかかわらず、彼らは仕事がないこともありましたが、十分に生活し、食事にも困らず、身なりも整え、美しい宝石を身につけ、見事な儀式を執り行っていました。では、誰が彼らに資金を提供していたのでしょうか?誰が彼らを支えていたのでしょうか?この問題を本気で問うのであれば、最後まで突き詰める必要があります。これはその場しのぎで済む話ではありません。若者についても同様で、若者が捕まるたびに誰かを告発しています。もし誰かを告発しているのであれば、その人自身も例外ではないということです。

 

私は一つ問いかけます。どちらが倒錯しているのでしょうか?

自分の望むままに生き、それを誇示することもない人なのか、

それとも他人のベッドの中で何が起きているのかを詮索する不健全な好奇心を抱く人なのか。

 

どちらが倒錯しているのでしょうか?

 

他人の親密な領域を覗き見しようとする者なのか、

 

それとも誰にも害を与えることなく、ただ自分が生まれたままに、自分の在り方のままに生きている人なのか。

 

人々はそれを選択だと考えています。

 

それは、まるで私が自分で黒人であることを選んだかのようなものなのです。