本来野蛮人ですからね。
教育による下支えを失った西洋の人々は死の淵にいる ~名門プリンストン大学が「性産業従事者」のための講座を新設!!
<記事原文 寺島先生推薦>
No Longer Sustained by Education, Western Humanity Is in Death Throes
筆者:ポール・クレイグ・ロバーツ (Paul Craig Roberts)

出典:自身のブログ 2024年12月29日
<記事翻訳 寺島メソッド翻訳グループ> 2025年1月19日
大学はもはや教養のある人間を生み出さなくなってしまい、教養のある人間はもはや存在しなくなりつつある。この問題は興味深い問いであり、ここで話し合うべき問題ではないかもしれないが、教養ある人々がいなくなってしまったことは、世界を席巻しつつある野蛮性がその原因や結果になっているのだろうか?
どこを見回しても、退化が見える。バッハやモーツアルト、ベートーベンは禁止された4文字が溢れるラップと化した。文学は書かれなくなったし、読まれなくなった。美術は何の意味ももたない落書きに成り下がった。読書をしようとする気質も読書をする能力も衰えつつある。自国語を操れる人はほとんどいなくなった。大学生の論文は味のないAI(人工知能)によって書かれている。もはや人々は言語で用いられてきた比喩や示唆を理解できない。というのも、文学が否定されているからだ。
偉大な文学は人間の状態を探求し、人々が意識の高い生活を送ることが出来る下支えをしてくれる。文学は人が騙されやすくなることから守ってくれる。文学はことばがもつ豊かさや有用性を教えてくれるし、人とやりとりする力を伸ばしてくれる。この力こそ、技術指導やAIによる「お客様問い合わせ業務」によっていまや失われた大事な力なのだ。
こんにち、人とのやりとりは言葉をほとんど介さない、ネット上の短文のやりとりだ。デジタル革命や人工知能、トランスヒューマニズム(超人間主義)は人間のもつ人と人とのやりとりをする力を消滅させようとしている。「自動音声によるお客様問い合わせ装置」により、人間はますます、考えを持たないあらかじめ用意された人工の声と対応することを余儀なくさせられている。このような装置は、こちらが問うどんな質問にもまったく答えられず、あらかじめ与えられた答え以外の答えを出すこともできない。サービス提供業者と話をするのがどれだけ難しいか、少し考えていただきたい。かつては電話をすれば、三回の呼出音だけきいて、三分で済んだ用事が、今では数時間あるいは数日かかる用事になっている。インターネット上で保安状態が欠如している、ということは、たとえ人間の交換手と話ができたとしても、何の決定や解決に至らない、ということだ。電話でサービス業者と話をすることが困難になっているのは、何らかの判断が任せられる従業員の数がどんどん少なくなっているからだ。
デジタル革命は、犯罪や詐欺を爆発的に増加させた。例えばフロリダ州では、そのような事例が多くなりすぎて、新しい事件が起こっても報じたがらなくなっているほどだ。
デジタル革命を企業に売り込んだ際の理由は、顧客対応をAIに代わりにやらせることで、費用削減が見込める、というものだった。しかしAIには知覚はなく、あらかじめ与えられた情報外のことには対応できない。 「顧客対応」にAIを使う主目的は、間違った請求書を正すのに時間がかかりすぎるようにすることにある。時間を無駄にするより、間違って増やされた請求額を払う方を顧客は選ぶからだ。
何時間の時間を浪費することなく、問題を解決できる人間と対応できるサービス業者の数はどんどん少なくなっている。私のお気に入りの笑うしかない事例は、インターネットが使用できない時にサービス業者に電話をしたら、「弊社のウェブサイト上のチャットコーナーをご利用ください」と言われることだ。
シェークスピアがイスラエル系圧力団体から反ユダヤ主義者であるという非難を浴びてから久しい。
シェークスピアが生きていたのは1564年から1616年までだ。そんな時代に「反ユダヤ主義」ということばなど存在しなかったし、イスラエル系圧力団体もなかった。そんな事情もシェークスピアが20世紀になって反ユダヤ主義者呼ばわりされる妨げにはならなかったし、高校や大学の文学の教育課程からシェークスピアは排除されてしまった。その結果、英語という言語が持つ最も素晴らしい使用法が生徒・学生たちに提供されなくなり、生徒・学生たちは彼らの母語の素晴らしい遺産を理解することができなくなっている。ユダヤ人がシェークスピアを妨害したせいだ。もちろん、シェークスピア文学は、反ユダヤ主義ではない。ただ折に触れて、シェークスピアがユダヤ人について少し言及しているせいで、当時は皆がそう考えていたし、今でもそう考えている人は多い。文学の世界においてはどの民族でも同じようなことがあるのだが、そんなことにケチを付けてくるのはユダヤ人だけだ。
世界経済フォーラムという組織は、西側の政治家や企業の重役が加わりたいと熱望している邪悪な組織なのだが、この組織にはトランスヒューマニズムを実現しようとする工作員がおり、AIがあれば人間は不必要で不便な存在になる、と主張している。余剰人員を処分する必要性が論じられれば、人間の寿命の長さを規制しようとする議論が生じる。もう何年も前から、私は「中絶を許せば、人間を強制的に安楽死させる措置への道が開かれる」という警告を発してきた。
こんなオタクたちが人間を不要な存在にさせているのが誰の手によるものなのか、自問していただきたい。人間ではなくAIに電話に出させることの方がなぜ重要なのか?人間が間引きされることになれば、誰がロボットを購入するのだろう? AIの推進者たちが、この問いを自問したことがないというのは、普通ではないとお思いになられないか? 人間の機能をロボットに移行させる方法を永遠に見つけ続けることが、どうして人類の発展に繋がるというのか? 主目的が、人間を存在価値のないものにしてしまうことにある科学に、なんの意味があるというのか?
私の人生が進行する中、私は世界が次第に暗黒の時代に包まれつつあるのを目にしてきた。トランプは米国を再び偉大にする、と言っているが、その資材となる教養ある人間がもはや存在しないなかで、彼はいったい何をしようというのだろうか? トランプのいう「偉大さ」の定義は何なのだろう?
わが国の文明が崩壊するなか、残されたのは野蛮な人々だけになった。彼らはシェークスピアを読まなければならなくなっても、理解できない。真実を認識するとすれば、このような事態の原因となったのは、文学教授や批評家たちだ。彼らが近代のどれも取るに足らない作品に入れ込むことで偉大な文学を破壊し、文学作品が持つ意味を歪め、台無しにてきたのだ。
そして今やプリンストン大学が、LGBTQ+の観点にとらわれて、文学や歴史学、建築学の解釈を見誤りつつある。「風と共に去りぬ」は禁止措置から逃れられ、主人公のスカーレット・オハラは女性同性愛者だったので、黒人の給仕プリッシーと性的関係を持ちたがっていたが、オハラの持つ白人優越主義のせいでそうすることを思いとどまった、という話を教わることになろう。
文学が大学の研究から姿を消すにつれ、ポルノグラフィ研究が台頭し始めている。以下のガーディアン紙の記事は、イングランドの教育の衰退を示すものだ。
「ケント州にあるカンタベリー・クライスト・チャーチ大学が英文学の学位を出さない決定を下したことが物議を醸しているが、そのほとんどが、その決定は間違った方向だ、という批判的な意見だ。同大学によると、学位が取れる程度まで英文学を学びたい人はもはや存在しないため、英文学過程の存在価値はなくなった、とのことだ。チョーサーやマーロウを生み出した都市で英文学を学べなくなってしまったら、いったいどこで英文学を学べばいいのだろう?」
「カンタベリーの話*は、お馴染みの話だ。Aレベルの学校*での文学の講座数は大幅に減少しており、2013年の8万3000から2023年には5万4000になっている。文学の学位には創作的作文や言語学など様々な形態が含まれているため、統計上の数字には疑問が残るが、ここ10年で大学でも同様に衰退している。人文系の科目は総じて魅力を失っているようで、2003年・2004年から2015年・2016年には60%の学生が人文系科目を選択していたのに、2021・2022年には学生のたった38%しか取っていなかった。」
*カンタベリーの話・・・チョーサーの名作「カンタベリー物語」をかけている。
*Aレベルの学校・・・高校卒業後に大学進学に必要なAレベルの取得を目指す生徒のための専門学校
「人文系科目の衰退の背景には、授業料と科目を学ぶ必要性の費用対効果が、学資投資に見合うかどうか、という視点がある。大学の財政状況が厳しい状況に置かれていることも、この削減の一因となっている。先週、ハル大学の評判の高い化学課程がなくなったのもその一例だ。しかし最も懸念されることは、芸術系や人文系の学部だ。具体的には美術や音楽、演劇の学部だ。ゴールドスミス大学やオックスフォード・ブルックス大学、サリー大学などの研究施設が、数百科目を取りやめにした。(筆者注:言い換えれば、社会が教養のある人間をもはや必要としていない、ということだ。その代わり大学が生み出しているのは、企業が求める技術をもった人材なのだ)。」
「英文学が手頃な標的となっているようだ。英国の古典叙事詩『ベーオウルフ』を学ぶことは、もはや国家が資金を出すほど魅力的ではなくなってしまった。現在、リベラル派の立場でこの議論に加わっている人々は、保守党のマイケル・ゴーヴが2013年におこなった教育課程の改定を非難している。この改定以降、期末試験で評価される学習内容が偏重される風潮が生じた。後続の保守党政権下の教育大臣らも、科学や工学を重視し、芸術系学部業生の就職先の確保を軽んじる政策を踏襲した。」
「文学を研究することはいいことだ。20世紀の女流作家ヴァージニア・ウルフは、父親が大学にいかせてくれる気がなかったことを悔やみ、本は自分自身を深めてくれる手立てになるものである、と考えていた。大学は合理的探求や知性を使う自由演習に関心を持つべきだ。役に立つドローンを作ることではない。残念なことに、授業料のせいで、大学での経験は幾分実務的な内容に傾きつつある。大学の教育課程は生徒のやりがいを引き出すものであるべきで、表面的な意味の読み取りではなく、教材の解読に力を入れるべきだ。(筆者注:教材の解読が文学の崩壊に力を貸したのだが)。」
「カンタベリー・クライスト・チャーチ大学が文学課程を取りやめたことは、英国の国家識字協会の報告と同じ流れを示すものだ。その報告によると、読書が楽しいと感じているのは、8歳から18歳のたった35%だった、という。この数字はこの1年で9%近く下がった。読書率も低下しており、性別間の格差も広がっており、その原因はソーシャル・メディアの普及が強まっていることや図書館が閉鎖されていること、集中力が低下していることなど多岐にわたっている。(今年のブッカー賞受賞作の内容が簡潔だったことからも何か読み取れるべきことがあるだろうか? 文豪ディケンズの長編『我らが共通の友』(1864-1865)は、今ならどんな評価を受けるだろうか?)。ディケンズの授業をやめてソーシャル・メディアの研究に切り替えることを提案している教員も居るようだが、それはしかし、イーヴリン・ウォーの『スクープ』(1937年)からのことばを借りれば、「ある程度までは正しいです、クッパー様*」だ。」
*「ある程度までは正しいです、クッパー様」・・・上記の作品で使用された、同意しない意図を伝える婉曲的な表現。
「カンタベリー・クライスト・チャーチ大学が文学課程を閉鎖したことに対して、私たちはもっと懸念を持つべきだ。大学はいま、驚くべき状況に置かれており、英国新政権はこの分野の立て直しをしようとする困難な仕事に着手しようとする意思をほとんど見せていない。このような状況は制度的な破綻だけとして片付けられない問題だ。このような状況は、文化の変化が生じつつある兆候を示しており、この先の世代が、文学により与えられる批判的で共感的で知的な特性を持てない状態で放置される危険が生じているのだ。ヘミングウェイの名言に、『本ほど忠実な友人はいない』というものがある。インスタグラム上の影響力の強い発信者に依存していても、そこそこにしかなれない。私たちにはまだまだ『我らが共通の友』が必要なのだ」
https://www.theguardian.com/education/2024/dec/05/the-guardian-view-on-humanities-in-universities-closing-english-literature-courses-signals-a-crisis?CMP=share_btn_url
米国の代表的な大学が売春(今は「性産業従事者」とい婉曲的に呼ばれているそうだが)やクィア(性的マイノリティや、既存の性のカテゴリに当てはまらない人々の総称)の研究を提供するそうだ。
年に6万ドルの授業料を出せば、プリンストン大学で売春婦になれる方法を伝授してもらえる。
https://www.rt.com/news/610003-princeton-queer-prostitution-courses/
