【当時のアヤワスカ日記より⑥】 | 日本シャーマン協会 ~南米・北米の薬草セレモニーで心身を癒やす

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20年程前にブラジルで初めてのアヤワスカを体験、以降、国内外のさまざまなプラント・メディスンのセレモニーに参加、スピリットの存在を知る。20年来学んできた古神道、性錬金術、精神世界や武術、気功などの背景を活かし、シャーマン修行を続けているおじいさんのブログ

 

    

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 20年程前の当時のアヤワスカ日記より⑥

 それは急に始まった。

 

 自分の脳みそを、直接誰かがつかみ、後ろから引っ張っているような感覚。いったいこれはなんだ?

 

 私は疲労感がそうさせているのだと思った。しかし、目を開けているのがなぜかおっくうで、感じるままに目を閉じた。すると、目の奥で、きらびやかな極彩色のアメーバのようなものが浮かんでくる。やがてそれははっきりとした蛍光色を発したかと思うと、何かの細胞の形に変わる。中学の時、顕微鏡で見た植物の細胞に、これでもかと蛍光色を塗ったようなにぎやかな色だ。

 

 私は、自分に何が起きたのかまったく把握できずに、立ち上がって、儀式場の前にある小さな池の前まで行き、深呼吸をした。目を開けているときは何も見えないのだが、目を瞑ると、あの得体の知れない細胞のようなビジョンが次々と目まぐるしく現れてくる。

 

 アヤワスカが効いてきたのだ。

 

 思えば、私は体が頑丈なほうで、痛みにも強いと自負している。膝の手術をした時も麻酔が効かなくて医者が困っていた。手の指の手術をしたときも、麻酔が効かず、勇み足で医者が手術をスタートさせ、途中から感じ始めた痛みに耐えながらも、手術が既に始まっていたこともあった。どうやら、アヤワスカについても、私の特殊体質が関係していたのか? 儀式が終わってから、今その効きが回ってきたようだ。

 

 少しずつ起きつつある未知の変化に、いささか困惑しながらも、また椅子に戻ろうと歩くのだが、歩いている感覚がない。まったくもって自分の足の感覚がないのだ。酔っ払ってふらついているのとは違う。麻酔の注射を打たれて歩けない感覚とも違う。正座で足がしびれた感覚ともまた違う。

 

 なんとか椅子に座った私は、目を閉じて、次々と浮かんでくるビジョンを楽しんだ。いずれも脈絡もなければ、意味もわからない、しかし、綺麗な蛍光色を発した生き物や細胞のようなものがどんどんやってくる。自分の頭の中で、例えばオレンジ色をイメージすると、オレンジ色の何ものかがやってきて、形を変え、万華鏡のように次の映像に移っていく。そして、また緑色をイメージすると、その緑色を配した幾何学模様が表れ、すぐにアメーバのように分裂したり消えたりしながら、脳裏に過ぎ去っていく。

 

 この繰り返しには何も意味がないのだが、ただ眺めているだけで、とてつもない恍惚感に包まれていた。でき得れば、この時が永遠に続いて欲しいとまで思う。初めて感じるエクスタシーに感動すら覚えていた。目を瞑っているのにこれだけのものが見えている。いったい、普段、自分は何を見ているのだろうか? 

 

 

 とてつもない幸福感と快感とともに、嘔吐感が激しく襲ってきた。私は知り合いの人に手を握ってもらいながら、なんとかトイレにたどり着いた。しゃがんだ途端、アヤワスカの黒紫色の液体がほとばしるように口から出た。トイレから出て口をゆすぐと、また椅子に戻り、恍惚の世界へもどった。その幸福感は、私の口角をひとりでに上げ、にやにやと笑わせる。儀式が終われば帰宅する予定だったが、この状態では当然それもできず、儀式場に併設されている簡易宿泊所に泊まらせてもらうことにする。

 

 自分でも覚えているのだが、周囲の人に「Estou feliz.(幸せだ)」を繰り返していた。こんな幸福感はこれまでになかった。

 

 ベッドに横たわると、右足の上に左足を乗せ、ゆっくりと目を閉じた。やがて右足は左足に溶け込む感覚とともに、自分の体はひとつになった。自分の体はひとつであるのだが、普段はひとつでないことに気づく。手は手であり、足は足として機能している。しかし、このとき私の体は確実に一つになった。

 

 隣のベッドでは、既にこちらの世界に帰ってきたブラジル人たちが寝息を立てている。彼の寝息は聞こえるのだが、まるで私のもののように聞こえる。いったい、自分が何なのか? 私はゆっくりそれを問い始めていた。

 

 アヤワスカは、自分が今抱えている問題や疑問に答えてくれるとも言う。また、ネガティブな気持ちや人生態度が身についている人は、それがそのまま自分に返ってくるとも言う。アヤワスカでパニックを起こしたり、黒い何ものかを見たりして泣き叫ぶ人は、自分の影の部分を反映したエネルギーを見せつけられているというのだ。

 

 ならば、いま私が抱えている疑問、人はなぜ生きるのか? 自分は誰なのか? 神とは? アヤワスカに聞いてみたいと思った。

 

 脈絡のないビジョンは続いていた。どうやら未来の乗り物のような、綺麗な黄緑色の蛍光色をしたゴンドラのような乗り物がやってきては、次々と発車していく。それやいなや、次は真っ赤な三つの団子が枝豆のような袋に入ってやってきては、おかしな顔をしては私を笑わせようとする。隣で人が寝ている手前、大声も出せず、私は声を殺してくっくっくっと笑う。

 

 やがて、この意味のないビジョンは急に終わりを告げ、次第に私は緑色の風に自分自身が化し、大空をものすごいスピードで駆け抜けていた。自分はいまここで意識を保っており、ベッドに寝ていることも自覚している。だが、目をつむって感じている感覚は、確かに風だった。くっきりとした色合いの、鮮やかな緑の風だった。やがて私は、風のまま、森にたどり着き、草々と同化した。その瞬間、涙が湧き出し、嗚咽を止められなくなった。

 

 自分が自然の一部であること、自分が自然で自然が自分であることを、体で悟ったことが魂で分かった。古来のシャーマンが、動物や自然に、感謝と敬意、畏怖の念を捧げていた理由はこれだったのかと確信した。

 

 自他の境目がない。いわゆる全てのものはどこかひとつでつながっているという感覚、すべてのものが愛おしくて仕方が無かった。

 

 ベッドに接した壁を撫でながら、私は心の底から壁を愛おしく思い、何度も有難うと言って声を殺して泣いた。ありがたくて泣いた。これまでの人生で、壁に感謝を捧げたこともない自分が情けなくて泣いた。壁がなければ家はできない、家がなければ生活ができない、それなのに生まれてこの方、「壁さん、ありがとう」と言ったこともない。生まれてこの方、自分の内臓にも、目の玉にも、自分の爪に感謝したこともない。なんて傲慢だったのか…、こんな感情が次から次へと生まれてくる。怪我をしたとき、病気をしたとき、自分の普段の健康に感謝することはあれど、指一本がないだけでどれだけ不便かを知っていても、「指さん、ありがとう」と言ったこともなかった。

 

 涙が止まらず、何度も声を押し殺しながら、それでも私は、泣けるだけ泣きたくて仕方が無かった。

 

 やがて、スピーディーに展開される魂の旅は、一体感しかない空間にたどりつき、自分が発した何気ない言葉が、他人の魂の奥底をいかに傷つけているのか、自分でなくなった自分が他人の中に入り、それを経験させられる場面になった。これはビジョンではなく、感覚で教えられた。
 誰かは分からないのだが、ある人が発した心ない言葉が自分の細胞を刺し、どれだけ傷つけているかを自分が細胞になって体感させられる。それは地獄のような世界。その繊細な世界で、私は悲しみに耐えられず嗚咽を止めることができなかった。隣で寝ている人たちを起こさないように、両手で口を覆いながら、ひたすら泣いた。あふれる涙のなかで、アヤワスカの波は静かに引いていった。

 

 すさまじいスピードで展開された最初のアヤワスカの私の「トリップ」は、これまでの価値観や世界観を破壊した。

 

 一体何が起きたのか、私の脳はまだ整理もつかなかったが、生まれ変わった感覚に優しく抱かれてそのまま眠ろうとしたが寝付けない。

 

 

 結局、一睡もできずに昼前になり、儀式場に住み着いている猫の声に招かれ、私は庭に出た。

 

 昨日、狂ったように降った雨の滴が、庭の木々に美しく輝いていた。私はそれを見て子供のように大声で泣いた。そして、太陽の眩しさにまた泣いた。

 

 猫が擦り寄ってきて、私の足に体をこすりつけ甘えてくる。その暖かさにまた泣いた。

 

 蝶が飛んでいるのを見て、こらえきれずに声を出してまた泣いた。生きているものがこれほど輝いていることに、どうして今まで気づかなったのだろう。そして、この感動を知るために、人は生まれてきているのではなかったのかと気づかされた。

 

 蝶が空を飛んでいる、これは蝶が生きているからだ、生きている蝶を見ている自分もまた生きている、命ってなんて美しいんだろう…。ただこれだけの論理で、私は心の底から感動してまた泣いた。昨日一緒に儀式に参加していたカップルも、庭で話をしていたが、泣きじゃくる私を見て暖かく微笑んでいた。何度もアヤワスカを経験している彼らには、決して珍しい光景ではないのだろう。私は猫を抱き上げると、何度も彼の背中に頬ずりをした。そしてまた泣いた。

 

 儀式が終わり、半ば落胆していた私には、嵐のようなアヤワスカの洗礼が待っていた。そして、一夜明けた今、自分の中の何かのポータルが開いたことを実感していた。

 

 ゆっくりと家路に進みながら、道端の草木と話ができるようになっているのに気づいた。

 

 アヤワスカは幻覚剤だと言う人がいる。しかし思うに、これは単なるドラッグとは明らかに異なる。アヤワスカはその人が今抱えているもの、必要としているものを教えてくれる。だから、ドラッグ経験を希求している人には、それなりの効果しかないのだろうと私は考えている。また、私のような経験をする人は少なくないという。つまり、自他の境界線がなくなり、自分が他人で、他人もまた自分にしか過ぎないという一体感を覚えるのである。

 

 あの儀式以来、私は少し腑抜けになっていた。ゴミを捨てるにも、ゴミへの感謝が湧いてしまい、容易にゴミ箱にゴミを捨てられない。私のために働き、いまゴミ箱に向かうゴミ、ならばこのゴミにも感謝を言うべきだろう。こう考え始めると、容易にゴミを捨てられなくなってしまっていた。

 

 テレビで凄惨な犯罪現場や、ネガティブなニュースを見ると、まるで自分が被害者のように感じられ、またぞろ泣いてしまうようになった。感受性が鋭敏になってしまい、映画もしばらく見ないようにしていた。だが、この効果は二ヶ月ほどして元に戻った。今では平気でゴミを捨てられるまでに「回復」した。

 

    

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